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熱い夜



屋敷に帰ると、伯爵はすぐ身を綺麗にして、召使いにワインを持ってこさせたようだった。

僕の部屋にわざわざ「おやすみ」を言いに来ると、自室へ帰っていく。

僕はいつもの服に着替え、ベッドに座って本を読んでいるふりをしていたが、どうにも落ち着かなかった。


やがて屋敷が静まり返り、月が空の真ん中まで昇ると、僕はまた自室を抜け出した。


――――あの男を殺すんだ。


城の廊下で首を絞められ、言われた言葉を思い出す。


――――お前がやらなければ、こちらで手を下す。


さてどうしたものか。伯爵を殺したくなんてない。でも相手は本気だった。

まとまらない頭のまま、ひたひたとやっぱり長く見える廊下を歩き、彼の部屋の扉を開いた。


伯爵は今日は寝ていなかった。

窓辺に寄せた椅子に座り、月を眺めている。今日もやっぱり、青い影を白い月光が照らしている。彼の銀髪が音もなく光り、美しく煌めかせていた。


「こんばんはリゲル。せめてノックをしてくれないかい」

物音に気づいたらしく、伯爵が振り返る。緑のソファに脚を組んで座る彼は、大層、(さま)になっていた。どうやら彼は、既に酔っ払っているらしい。

「ノックをしたら許可をくれるの?」

「さあ。時と場合によるんじゃないか。例えば着替え中だったら開けられないし」


床に置かれた瓶に僕は視線をやる。もう空っぽのようだ。

「ああ別に、やけ酒した訳じゃないよ。今日はたっぷり頭を使ったから、思い切り酔いたくなっただけ。明日はお休みをもらっているしね」

そういう彼の頬は珍しく紅潮している。酒豪ではないかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。


「それにしても今日は忙しかった。もちろんいい意味でね。それに君をみんなに紹介できた、いいことだ」

なんだか饒舌だ。この人は酒を飲むと饒舌になるのか。そういえば酔い方があまりにも酷いとスペンサーから聞いたことがある。でもこのぐらいは、大したことはない。

「姫君も君に会えて喜んでいた。どうだい、彼女は素晴らしいだろう? あの人は聡明で美しい。まさに王女の器と言える」

再び空を見ながら喋り出す彼。僕は床に置かれた瓶を、そっと拾った。

僕が殺さなかったとして、彼は結局殺される。ならば僕がやった方がいいんじゃないか。いや、こんなことは本当は間違っている。だがそうした僕の考えは、だんだんと感情に呑まれていった。

この人はどうして僕を見てくれないんだろう。舞踏会の最中だって、王女と話してばかりいた。僕が彼女になりたかった。彼の隣で、彼に笑いかけられたかった。

瓶の先を握る指に、力がこもる。

いつもなら伯爵の方が背が高い。でも彼が座っている今なら、これを頭上から振り下ろすことだってできる。


伯爵は月を眺めたまま、滔々と喋り続けていた。

「あの人はどんな部下にも同じように接するんだ。いずれ君にも分かる。ペドロやヴィヴィだって、君によくしてくれるだろう。だからね、これは君にとって、良いことだと――」

振り向いた彼と、目が合う。

僕は今まさに、瓶を高く掲げているところだった。振り下ろそうとしたそれを、彼の右手がぱしりと掴む。

「何してるの、リゲル」

「…………」

「私は君からそんなに嫌われているのか?」

咄嗟に違う、と言いそうになって、しかし残念なことに、それを口に出すことが出来なかった。

僕は人との関係を、体の交わりでしか知らない。それも否応なく味わってきたものだ。他人を愛したことなんて初めてだ。だから言葉を素直に口に出すのは、酷く難しいことだった。

一方で「あんたを殺すよう頼まれた」と伝えたとしよう。そうすればこの人は、僕を守ろうとするだろう。だがそれは、自ら危険に身を投じることと同義だ。僕はそんな彼のやさしさを知っているからこそ――、

「リゲル」

じっと彼の目が僕を射抜く。こんな時なのに、僕はどきりとしてしまう。彼は真剣な目でこちらを見ながら、僕の手から瓶を奪い取り、ゆっくりと床に置いた。かた、と音がする。

「君は――お前は、一体何を考えている?」

彼の目は一寸たりとも逸らされなかった。僕の頭は少しずつ混乱していく。ああ、僕は浅ましい。彼は真剣に話をしているというのに、その組まれた脚や、美しい首筋、そして物言いたげな瞳に目がいってしまう。

「リゲル」

再び彼はいう。彼の声が好きだと思った。その声でもっと呼んで欲しいと思った。

「私が間違っているのか? どうすればいい? お前は何を求めている?」

「――抱いて」

すかさずそう口にして、僕は我に帰る。なんてことを言ってしまったのだろう。彼に軽蔑されたんじゃないかと、芯の底が冷えていく。

伯爵の身にまとった空気が、一気に冷たくなった。

「お前は私が嫌いなんだろう? どこまで馬鹿にすれば気が済むんだ」

「ち、ちが……僕はただ、思ったことを、言っただけで」

精一杯そう告げた瞬間、伯爵は目を細めた。

「いいだろう。これ以上愚弄すると言うのなら、相手をしてやる。来い」

彼は立ち上がったかと思うと、僕の手を掴んでベッドの方へ歩き出す。

なぜだか心臓が痛くなって、胸がどきどきと音を立てる。嬉しかった。嬉しいのに、彼は誤解したままだ。これではだめだ。違う。それなのに僕の体は熱を持つ。最低だ。なんて浅ましい。


ぼふりと音を立てられ、ベッドの上に投げ出される。彼が無造作にベッドに上がった。ぎし、と音がする。

「お前は私を殺そうとしたね? それなのに誘ってくるとは。君にとって、私は戯れのためだけの存在だったということだ」

僕を覗き込み、そう告げた彼の目は、どこか据わっていた。ああこの人の悪い酔い方とはこれか、と思い当たるも、もう遅い。

「悪い子だね」

耳元で彼がささやく。なぜか、かっと身体が熱くなった。

「悪い子には、お仕置きをしなくちゃね」

彼の膝が、僕の脚の間に割って入る。あ、と声が漏れた。

すっと彼の白い指先が伸びてきて、動けない僕の体を撫でる。この前剣を刺した場所を、やさしくなぞる。何かを確かめるように。いつもの僕ならどうでもいいと思っていただろうが、今はそのやさしい手つきのせいで、おかしなほど身体が熱い。いや、手つきもそうだが、相手が彼だからこんなにも身体が熱いのだ。乱暴にすればいいものを、なぜ彼はこんなやさしい触り方をするのだろう。恥ずかしくて死にそうだ。

僕はうだる思考の中で、彼の酒癖の悪さをこれでもかと思い知った。そして呆れたようにそれを語っていた、スペンサーを思い出す。

「す、スペンサーにも、こんなこと、してるの?」

「は?」

彼の顔つきが不意に変わった。何かを間違えたらしいと悟るが、それがなんなのか僕にはわからない。

「なぜ今スペンサーが出てくるんだ?」

彼は明らかに機嫌が悪くなっていた。ぐっと眉を吊り上げる。分かりやすいその変化に、なぜだか僕は歓喜した。したのも束の間、ひゃあと声を上げた。かがみ込んだ彼が、僕の左耳を舐めたのだ。伯爵は手を動かしたまま、僕の耳元でささやいた。

「お前の価値観にはまったく呆れるな」

「あ、やっ……ひっ」

耳元で喋らないでほしい。いや、それよりも彼に舐められているということに、僕の情けない身体が興奮した。彼の舌が熱く、耳を這い回る。

「目の前にいるのは私だと言うのに、ん、お前は、スペンサーのこと、を、考えているわけだ」

「あ、ぁあっ、だ、……やんっ」

僕の体はびくりと跳ねた。こんなことは初めてだ。もう何年も前から、こんな行為をするとき、僕の心は冷たく凪いでいたのに、今は胸がうるさいほど鳴り、びく、びくと身体が跳ねる。僕は茹だった頭のまま叫んだ。

「ぃっ、あ、伯爵、はく、しゃく……!」

「ジールだ」

じゅる、と耳を舐められる。

「やっ、ぁあっ、ジール……お願い……!」

「なんだ?」

「き、キスして……!」

はた、と彼の動きが止まった。

そこで僕は、自分が何を言ったのか思い出し、固まった。伯爵も固まっている。彼がちろりとこちらを見下ろす。視線がかち合った瞬間、恥ずかしさのあまり、僕は顔を背けた。

「…………」

彼の手がそっと、僕の頬に触れる。正面を向かされ、ぅう、と僕は唸った。

「お前は、私をなんだと思っている? 私が止まれなくなったらどうするつもりだ?」

そう言うと、彼は突然立ち上がり、僕の腕を引っ張った。

「もうおしまいだ」

唐突な展開に、困惑を口にすることもできなかった。身体中が熱い僕は、伯爵に引っ張られるまま、ふらふらと身を起こす。

「さあ、部屋へ帰るんだ」

「ぁ、でも、」

「さあ」

彼は僕の腕を掴んだままずんずんと扉へ歩いていく。その顔は影になっていて見えない。乱暴に扉を開いたかと思うと、僕を押し出そうとする。

僕は両手で自分の服を握りしめた。せめてキスだけでも、と馬鹿になった頭で彼を見上げる。

「っ……、お前と、いう奴は……っ」

彼は僕の顎を掬い上げた。そうして前髪を寄せたかと思うと、唇ではなく額に、キスを落とした。

ちゅ、と音がする。はっとして見つめれば、彼の顔は真っ赤になっていた。

「っ」

「さあもういいだろう。帰れ」

そうして今度こそ押し出されたかと思うと、ばん、と乱暴に扉が閉められた。


それからどうやって部屋に帰ったのか覚えてはいない。ベッドに戻ったあとも、僕はしばらく眠れなかった。


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