ペドロの変調
*
「どうしたの伯爵、うかない顔して」
城の廊下。大広間に続く扉の前で、ぼうっとしていた私に声をかけたのは、斧を持ったヴィヴィアンだ。
「私はそんなに、分かりやすい顔をしていたかい」
「ええ。姫様の護衛らしからぬ顔よ」
「それは失礼した」
言いながらどうにか表情を整える。しかしヴィヴィアンはそんな私の顔にも納得いかないらしく、わずかに眉をしかめた。
「何か悩み事?」
「悩み事ねえ」
私の悩み事と言えば、バルバトスとゴードンへの復讐だった。父を殺したバルバトス、そして彼の命に従い、母を殺したゴードン。私は彼らの両方を殺すつもりだ。そして先日、ゴードンを討ち果たすことに成功した。これには綿密な計画が必要だった。証拠のない罪で相手を殺しては、今度はこちらが悪人となってしまう。
そういう訳で外堀を少しずつ埋めながら、私はゴードンに近づいていったのだ。証拠を示し、罪を問いただした。赦しを願う彼の耳元で告げたのは、「あの世で父に請え」という、とどめの一言だ。否応なく剣を突き刺し、だくだくと流れる血を、私はどこか当然のように眺めたのだった。
あの時、寝台の上にはリゲルがいた。
彼をなぜ引き取ったのか、今となっては自分でもよく分からない。リゲルとの遠い思い出は、美しく苦いものだった。共に遊んだ幼き日々は愛おしく、しかし崖の上で手を離した彼への絶望と憎しみは、言葉では到底表せないものだった。
彼を引き取ったのは、ある意味復讐だったのかもしれない。正体を明かすことはできずとも、やさしい日々を与え、それから絶望へ突き落す。それが私の願いだったのかもしれない。
だが彼は死ななかった。いいや、私は結局殺せなかったけれど、彼自身が剣の切っ先を、胸に突き刺したのだ。あの光景を思い出すたび、ひどく心が痛んだ。私と彼は、あまりに異なる世界を生きてきたのだ。今更彼を知りたいと思っても、それは不可能に等しいことだ。
ゴードンを殺した後は、バルバトスに近づく、そのつもりだった。だが今、私の脳裏に焼き付くのは、悲しげに嗤った少年の顔だ。
「――そういえば伯爵、少年を引き取ったんですって。もしかしてそれで、頭を悩ませているの」
「……君もその話を持ち出すのか」
「噂好きの貴族たちが話してたわ。嫌でも耳に入るわよ。――まああなたが男色だろうが、どんな趣味をしていようと関係ないけど」
私は息をつく。まあ誤解されてもしょうがない。そういう方向で話が広がっているのなら。
「彼女の言う通り!」
廊下の反対側から、おおらかな声がする。見れば、ペドロが歩いてくるところだった。
「ジルウェスタ―、君がどんな嗜好を持ってようが、俺達には関係ない! だが、息抜きは悪くないことさ。特に君のような、気高き者にとってはね!」
「それは皮肉かい?」
「ああ、そうさ!」
平然と彼は言う。彼が私に親しみを持っているのか敵意を持っているのか、今になっても私には分からない。だが彼がそれほど害のない男だと、なんとなく感じている。理由は彼の心の隙間にあった。ペドロは笑って尋ねてくる。
「君のお気に入りとやらは、なぜ君を悩ませているんだ」
「言う義理はない」
「俺を警戒しているのか? そんな必要はどこにもない」
言いながら、彼はどこかうやうやしくこちらを見た。
「なんでもいいさ。そいつを本当に従えるつもりがないなら、女を与えてやればいい」
私は彼の意図が読めずに片眉を上げる。
「つまりだ。ご褒美を与えてやれば――そいつも言うことを――例えば、綺麗な女を、俺は――俺は、」
彼がひくりと瞬きする。ああ、また始まった。私がヴィヴィアンに視線をやれば、彼女はどこか呆れたような、悲しそうな瞳で目配せしてきた。ペドロの心の隙間とはこのことだった。
彼は記憶障害がある。その過去がなんなのか知らないが、彼は時折、狂ったような目をして、赦しを請うことがあった。
「つまり、俺は――俺は、そんなつもりじゃ……そんなつもりじゃなかったんだ」
ペドロは震えだし、がくりと膝をついた。私の服を握りしめ、こちらを見上げてくる。その目は私を通して別の誰かを眺めていた。
「なんでも、なんでも言うことを聞く。だから、あの人に言わないでくれ」
「また始まったぞ。ヴィヴィ、なんとかしてくれ」
「そんなこと言われても」
私はこの城に仕えて、五年目になる。その間、彼のこの症状を見ることは何度かあった。城ではもう周知の事実となっている。彼はかわいそうなことに、姫君の前でも混乱したことがあるらしい。姫はある時悲しい目をして、「彼がおかしくなったら、どうかやさしくしてあげてね」などと私に言った。やさしくされるべきは姫君なのに。
ペドロは頭を下げ、震えながらこぼした。
「ごめん、なさい。ごめんなさい。俺が悪いんです、ごめんなさい」
私は困り切ってしまった。こういう時は大抵ヴィヴィアンが彼を抱きしめるのだ。だが今日の彼は、私の服を掴んでいる。ヴィヴィアンが「自分でどうにかしろ」というような目で見てくるので、私はそっと身を屈め、ペドロの肩をやさしく取った。
「ペドロ」
「ひっ」
「私だ。ジールだ。分かるか?」
「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」
見ていられないと、私はため息をついた。何を勘違いしたのか、彼はびくりと肩を揺らす。
「あなたを、俺は、失望させた。赦して――お願い、お願いぶたないで」
「駄目だ、ヴィヴィ、変わってくれ」
「仕方ないわね。――伯爵、いつでもあたしが傍にいると、思わないことよ」
言いながら、ヴィヴィアンは斧を壁に立てかけた。
「ペドロ、どうしたの」
その声音のやさしさに、私はどきりとする。彼女の猫を撫でるような声は、いつもと全く違うものだ。ヴィヴィアンは基本的に他人に対して関心を示さず、悪人と分かれば斧で切りつける。そんな彼女が、たった一人を労わるように声をかけるのは、なかなか珍しい光景だった。
「ねえペドロ、どうしてそんな顔をしているの」
「な、ナターシャか?」
「そうよ、あたし……わたしよ」
私が不思議に思ってヴィヴィアンを見れば、彼女は振り返り、小さく頭を振った。彼女もナターシャが誰か知らないらしい。そのままペドロに向き直り、むき出しの細く白い腕で、やさしく彼を抱きしめた。
「かわいそうなペドロ。でもどうか、わたしを困らせないで」
「お、俺は、どうしたらいい」
「笑ってちょうだい」
彼は笑った。どこか歪んだ、酷く痛々しい笑みだった。それから彼はうっ、と声を上げて、少女の腕の中で気を失ってしまった。
「馬鹿なひと」
ヴィヴィアンは呟き、ペドロを左肩に抱えた。まるで農民が麻袋を運ぶみたいな格好だ。大した力持ちだと思ったが、いつも巨大な斧を持っているから、彼女にとっては普通のことなのかもしれない。そう、ヴィヴィアンは普通の人間では考えられないほどの力持ちだった。それはどこか異常で、魔法でも使ったようにすら見えた。
兵士達は、最初は小さな少女が仕えることに懸念を抱いたそうだが、その力技を見て、皆反対するのをやめたらしい。
ヴィヴィアンは右手で、壁に立てかけてあった斧を引きずった。ぎぎ、と音がする。
「彼、どうするんだい」
「これじゃ使い物にならないわ。部屋に連れてって寝かせるの。どうせ夕食ごろには目を覚ますわよ」
「……そうだね。――彼か斧か、どちらか持ってこうか。重いだろう」
「馬鹿ね、あたし達が守るべきは誰なのか忘れた?」
ああそうだった、と私は思い出す。誰か一人は王女の護衛をしていなければならない。この扉の前から離れるなど言語同断だ。
「それにあたしにとっては、このくらいの荷物、なんてことないわ」
「そうかい」
「分かったならそこから動かないでね。じゃあ」
ぎぎ、ぎぎ、と斧を引きずりながら、ヴィヴィアンは歩いて行ってしまった。彼女は素知らぬふりをしているが、実のところ、仲間想いのやさしい子のようだった。




