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真夜中の歌声



その夜、僕はなぜか眠れなかった。

食堂にこっそり入り込み、ワインの瓶を二本盗んだ。

二本とも開けてやろうと思ったが、一本飲んだだけですっかり酔ってしまった。

いつしか月は傾き、白い光を放っていた。

今夜は満月だ。真っ暗な空を月が痛いほど眩しく照らしている。


真夜中の誰もいない廊下を、僕は進んだ。長い廊下の先の、伯爵の部屋へと向かう。廊下はいつもより酷く長く思えた。ふらふらと裸足で歩きながら、僕はきいと扉を開いた。


青い部屋だった。月光が差し込んでいる。

伯爵はベッドで眠っていた。僕はその寝顔を覗き込む。銀色の髪や長いまつ毛が月に照らされて美しい。肩よりも長い髪は下ろされ、こうしてみると女の人みたいだった。

僕はそっと指先を伸ばす。頬に触れた。それだけでつきりと胸が痛んだ。この痛みは一体なんだろう。

ふらふらする頭で、ベッドに乗る。吸い寄せられるように、かがみ込み、彼の唇を奪おうとした。

次の瞬間、ひゅっと風を切る音がして、僕の首先に冷たい刃が当たった。

「起きてたの」

「気配で目が覚めた。……何分私の家は、昔から狙われやすいものでね」

僕はどうしたら先へ進めるか、酔った頭で考える。彼の唇に触れたかった。他の貴族達が僕に与えた暴挙を、彼は与えない。酔狂な画家が捧げた馬鹿みたいな崇拝も、彼にはない。それらは既に過去であったが、僕の世界を狂わせたのもまた確かだった。

伯爵から示されるのは、熱く冷たい殺意だけだ。

なぜだかこの男だけは、自ら欲しいと思えた。体だけではない、何かが欲しいと。でも僕には、その何かが分からない。乱暴に交わり、身を預けることしか、僕は方法を知らない。


「……酒の匂いがする。どれだけ飲んだんだ」

「一瓶だけさ」

はは、と僕は嗤う。

剣の切先が、さらに突きつけられた。

「この狼藉者め。今すぐベッドから降りろ」

「どうして拒むの?」

僕は首を傾げる。切りそろえられた髪がさらりと肩をなぞった。僕の背中から、月の光が差し込んでいる。きっと彼には、僕が神々しい女神にでも見えるのではないか。事実、僕を抱いた貴族達は言った。お前は女神のように美しく、悪魔のように醜いと。

「なぜなの? 僕はこんなに魅力的で、醜いのに」

僕は服のボタンを一つずつ外していく。そうして広げて見せた。胸と腹があらわになる。

目に見えて伯爵が狼狽えた。

ああそうだ。それでいい。どうせあんたも僕に欲を見出すのだろう。そして乱暴に僕を抱くだろう。それでいい。

落ちてこいジール 。僕はあんたが絶望に歪む顔が見たい。そのためなら僕の身体なぞ差し出そう。

あんたが僕を抱き、自分の浅ましさに絶望するのを、今こそ見せろ。


「……お前は、何か大事なものを失くしている」

「あんたもそうなるんだよ。伯爵」

剣の切先を突きつけられたまま、僕はうっそりと微笑んだ。

「さあ、おいでよ。僕に飛び込んでめちゃくちゃにするといい。きっと気持ちいいよ。みんなそう言ったんだから」

「本気で、殺るぞ」

「どーぞ」


伯爵の目は食い入るように僕の目を見ていた。そんなことをせず、他の奴らみたいに体を見ればいいのに。そうして貪って、痴態を曝け出せばいいのに。

しかし伯爵は、何か真剣な表情で僕を見ている。殺したいのに殺せない、そんな戸惑いが見てとれた。

「そっか。そんなに僕を殺したいんだ」

僕は半ば絶望した。伯爵がこの罠にかかってくれないことに、自尊心を打ち砕かれた気分だった。

彼が僕をそういう対象として見ようとしないことを、なぜか酷く悲しく思ったのだ。

「いいよ、殺すの、手伝ってあげる」

僕は回らなくなってきた呂律で、そう言うと、左手で剣の真ん中を掴んだ。拳から血が流れ出す。

伯爵は目を見開いたが、僕はここでやめるつもりなんかなかった。

剣の切先が胸の真ん中に来るよう、左手を動かす。

「やめろ!」

伯爵が剣を引くよりも早く、僕はぐさりと、それを胸に勢いよく突き刺した。

くっと喉が鳴る。

はは、と僕は乾いた笑みをこぼした。それと共に、口から血が流れ落ちる。

痛い。痛くてたまらない。でも僕は、これで終わることすらできないのだ。


「お前……なぜ……」

「僕、不死身なんだ」

「不死身……?」

「そうさ、呪いを受けたんだ。――成長はする。でも、どうやっても死ねないんだ。切っても、燃やしても駄目だった。あんたが刺したところで死なないよ」

けらけらと僕は笑う。胸からだくだくと血が流れている。おかしくなった頭で、ぎぎぎとこれ見よがしに剣を引き抜きながら、僕は微笑む。

「そうだ。みんな歌うと喜ぶんだ。謡ってあげるよ」

ところどころ回らない呂律で、それでも僕は、歌い出した。


月の泣く夜 あの場所で

どうか 私を見つけてください


血に濡れた男の 亡骸を

娘はひたすら 抱くばかり

両手に白きたむけの花を 唇には青き鎮魂歌


君よ 君よ 愛し君よ

どうか どうか 泣かないで


ぼろりと、伯爵の瞳から涙がこぼれ落ちた。

泣かないでと、僕はそう謡ったはずだ。貴族達はみんな、僕の歌を聴いて喜んだはずだ。

なのになぜ、この人は泣いているのだろう。ぽろりぽろりと、彼の白い肌を、透明な涙が伝って零れ落ちる。

僕はどうにか、剣を切先までを引き抜くと、それを捨てた。血に濡れた剣は、ベッドの下にからんと落ちた。


それと同時に、かく、と体がぐらつく。倒れ込んだ僕を、伯爵が受け止めた。

僕は歌い続ける。いつしか傷口は塞がり始め、裂けた皮膚が繋がり始める。

伯爵は尚のこと僕を抱きしめ、肩口に顔を(うず)めて泣いた。

静寂に満ちた部屋の中、僕の歌声と、伯爵の嗚咽だけが響いている。

人の涙を美しいと思ったのは、これが初めてだった。




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