シルクハットの来客
そんなこんなで、二週間が経った。
彼が休みのある日、家に来客があった。執事が対応しているのを、僕は階段の隙間から、こっそり覗き見した。相手は背の高い男だ。どこかで見たことがある。男は低く良い声で言った。
「この家に上がるのは、三度目になりますね。いやはや、素晴らしい家なのですが、どうにも立地の問題で、足が遠のくのです。そのことを彼にお詫びしたい」
スペンサーのことは知っている。僕が城にいた頃、三騎士の一人兼仕立て屋として、王に仕えていたのだ。今はどうなっているか知らないが、伯爵の友人とはこいつらしい。僕は彼の小洒落た物言いがあまり好きではなかった。
「スペンサー殿。伯爵もよく存じていると思います。今お伝えいたしますので、少々お待ちを」
そう言って老執事が去って行った後、彼が気配に気づいたのか、僕の方を眺める。慌てて僕は二階へと動く。
その足音を聞いたのか、彼はククと喉を鳴らした。
「ジール君、猫を飼い始めたのですか? あなたにしては珍しい」
などと言いながら、こちらへ寄ってくる。
死角に逃げようとしたが、「ジール君」という言葉に、なぜか足が動かなくなった。
「おや」
目が合った瞬間、彼がにやりと笑う。僕はぎくりとして男を見下ろした。
「これはこれは。唄い手殿ではないですか? ジール君は、ずいぶんといい趣味をお持ちだ」
「ば、馬鹿にするな!」
「馬鹿になどしていません。今ちゃんと、いい趣味だと言いましたよ」
そこへ別の声が割って入る。
「馬鹿にしているようにしか聞こえない」
伯爵の声だ。こつりこつりと足音が聞こえ、階下から、伯爵が顔を出してこちらを見た。
「何やってるリゲル、降りてこい」
「だ、だけど」
「私とお前は何もやましい関係じゃないんだ。どうせ私はスペンサーのお喋りに付き合うことになる。お前も来い」
「…………」
何かその言葉に引っかかるものを覚えながら、僕は大人しく階段を降りた。
一階に降りれば、スペンサーは僕を見て「ほほう」と腹の立つ声をあげる。あまり気が進まなかったが、伯爵に促されるまま応接間に向かった。
直角に置かれたソファに、伯爵とスペンサーが座っている。好きにしていいと言われた僕は、暖炉の上に飾られた銀の皿を眺めていた。伯爵が足を組み替えると、皿に映った鈍い色も動く。僕は静かに聞き耳を立てていた。
「それで? 今日の用件は?」
「用件がないといけないのですか? あなたあまり、私の所へ来なくなったじゃないですか。一緒に夕食を食べるのを、実は私、それなりに楽しんでいたんですよ」
「それは悪かった。城仕えがこの頃忙しくて、他のところへ行く余裕がなかったんだ」
「それはまあ本当でしょうけどね。あなた近年になって、メリーウェザー家の周辺の事件をかぎ回っているそうじゃないですか」
僕が思わず振り返れば、伯爵が視線でスペンサーを牽制しているところだった。僕にきかれたくないことが――おそらくゴードンの悪口か何かが始まるのかもしれない。僕は別に構わないが。
「はあ、スペンサー。時と場所を選んでくれないか。本題に入ってくれ」
「ふむ、本題ですか。まあ実のところ――あなたが男爵にとどめを刺したと聞いたものですから。例の件でまたおかしくなっているんじゃないかと、心配して見に来たんですよ。それがまあ、こんな少年を連れ込んでいるとは。そう言えばあなたもそんな年でしたねえ。今まであまりに健全だったので、忘れていました。――いや、言い換えればこちらの方が健全とも――」
にやにやとスペンサーが笑う。伯爵が顔を赤くして怒った。
「この子はそういうんじゃない」
「それじゃあなんですか」
「それは……」
僕は静かに目を細め、空気を裂くように言い放った。
「伯爵は、僕を殺したくて引き取ったんだ」
「……冗談でしょう? ジール君」
「…………」
「本当さ。伯爵は僕になんの興味も持っていない。殺しに関してのことしかね」
おや、とスペンサーが片眉をあげる。何が「おや」だ。
「あなた、ジール君とずいぶんと面白い関係ですね」
「お前ほどじゃないさ」と伯爵。それに僕はまたむっとする。
「いいかい、スペンサー。この屋敷にお前を楽しませるものはない。からかうために来たなら帰ってくれないか」
「あなたはそうやってすぐ追い返そうとする。楽しむものなら十分ここにありますよ。――それにほら、実はもう一つ用件があるんですよ。これです」
言いながら、スペンサーはポケットから紙を取り出した。それを覗き込み、伯爵は不思議そうな顔をする。
「なんだ、このコート? 柄も何もないが。お前らしくもない」
「ペンとインクはありますか? 以前あなたに、私の服の装飾を頼みたいとお願いしましたね」
「何年も前のことじゃないか」
「五年前です。あなた、私が約束を忘れる男には見えますか」
「別に忘れたなんて言うつもりはないけど……分かったよ、どうすればいい?」
「この服に装飾を書き込んで下さい。色の指定もすべてすること」
「私に服のセンスがなかったらどうするつもりなんだ」
「ご心配なく。あなたの審美眼はそれなりに買っていますから」
「私の服は、ほとんど君の作ったものばかりだ」
「だからこそです。私の元で磨かれた勘と、あなたの持つ感性。それがどのような服を生むのか見たい」
「大げさだな」
言いながらも、ペンとインクを用意する伯爵は、満更でもなさそうだ。彼の目はどこか煌めいている。城から帰ってきた時のよう。僕の前では、あんな目をしたことがない。
もう部屋から出て行こうかと考えていると、スペンサーが僕を呼んだ。
「退屈そうにしていますが、あなたも服の出来を見届ける一員ですよ。さあここに座って」
スペンサーは隣の席をぽんぽんと叩く。直角に置かれた椅子の席は、伯爵の隣とも言える。
席に座ると、伯爵がもう何かを描き始めているのが見えた。
「私は絵心があまりないんだが……」などとぶつぶつ言っている。
しかしその手が書いているのは、綺麗な紋様だ。ユリのような形をしている。なんだ、絵心があるじゃないか、と僕は思う。スペンサーも同じことを思っているらしく、ぶつぶつと何か呟いている。
しばらくして、伯爵は絵を描き終えた。色の指定も細かにしてある。紫の地に模様は黄金らしい。
「どうだ、悪くない出来じゃないか?」
彼がペンを置くと、スペンサーがその紙を持って、ばっと立ち上がった。
「素晴らしい! あなたもそう思うでしょう?」
見せつけるように僕の前へ差し出してくる。
「う、うん」
と僕が頷くと「やはり育った環境が良いからですね!」などと高らかに言う。
僕は少し驚いた。城で見たことのあるスペンサーは作り笑いばかり浮かべていたが、今の彼はどうだ。嬉々として絵を眺めている。
「さっそく持って帰って作りましょう」
「おや、帰るのかい」
「また来ますよ。今度はこの服を着てね」
まるで鼻歌でも歌い出しそうな勢いで玄関へ続く扉を開ける。
去り際に彼は「あ」と思い出したように扉から顔を出した。真剣な顔だった。
「その子、本当に殺したいって思ってるなら、諦めた方がいいですよ」
伯爵がわずかに顔を顰める。スペンサーは続けた。
「噂が本当なら、絶対にうまくいきませんから」
じゃあ、とあの明るい笑みに戻り、ばたん! と仕立て屋は扉を閉めた。
「うまくいかない……?」
伯爵はじっとこちらを見る。
「僕、用事思い出した……!」
言いながら、僕は慌てて部屋を後にする。扉の外に出ると、玄関先で、まさに今去ろうとしているスペンサーと目が合う。
「ああ、唄い手殿」
彼はあのよく響く低い声で言った。
「ジール君を頼みますよ。彼、ひとりぼっちなんです」
何を言っているんだ? と僕は片眉を上げる。彼が一人ぼっちなわけないだろう。先ほど見た通り、伯爵はこの男と仲が良いのだ。それに召使いだってたくさんいるし、王女や、その部下とも仲がいいはずだ。
「都合の良いこと言わないでよ。彼がひとりぼっちなはずないでしょ」
「いいえ。本当の彼は、今も過去に囚われている。――そんな彼が自ら他人を住まわせるなど、今までにはないことだ」
なぜこの男はそこまで知っているのだろう。きっと伯爵を一番知り尽くしているのは、この男に違いない。そう思うと、なぜだか僕はひどく悲しくなった。
「そんなこと、僕には関係ない」
どこか噛み付くように僕は言った。
「あんたがあいつと一緒にいてやればいいだろう」
そう言って、階段を駆け上がり、二階の自室へと駆け込んだ。扉を背に、床に座り込み、息を吐く。
階下からは少し躊躇うような気配があったが、やがて来客の帰りを知らせる鈴が鳴った。




