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恋する金曜日のおつまみごはん~心ときめく三色餃子~  作者: 栗栖ひよ子
メニュー4 社員旅行とマグロのわさび漬けあえ
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(1)

 秋は食べものが一年で一番おいしい季節だ。サンマの塩焼き、秋鮭のちゃんちゃん焼き、栗ごはん、デザートにはかぼちゃのプリン。


 これらは全部、秋になってから塩見くんの家で食べたおつまみごはんだ。夏場は食欲がなかったぶん、解禁された胃袋がおいしいおつまみを求めて唸り声をあげている。最近、自分の食欲にそんな恐れを抱いている。


「先輩、もしかして少し太りました?」


 シフォンブラウスの上にツイードのジャケットを羽織って、ワイドパンツで出勤したら、デスクに荷物を置いた途端に久保田が目を光らせた。


「うっ」


 最近身体のラインを拾わない服ばかり着ているのを気づかれたのだろうか。それともこのワイドパンツの後ろ部分がゴム仕様だから?


「わ、わかる?」

「あ、やっぱりそうなんですか? なんとなく顏が前より丸いかな~って思ったくらいでした。でも、先輩今までが痩せすぎだったんだから、少しは太ったほうがいいと思いますよ」

「そ、そう? でも最近、スカートとかブラとかきつくなってきて……」


 私がウエストのお肉をつまみながらぼやくと、久保田は「うう~ん」と唸った。


「それはちょっと、気を抜きすぎかもですね……。もうすぐ社員旅行なんだから気合い入れなきゃ!」


 そうだった。うちの会社は部署ごとにいくつかのグループに分かれて、時期をずらして社員旅行に行くのが恒例だ。


 行き先は、今年は熱海。女性が中心の化粧品会社らしく、女子旅っぽいコースを巡ることが多いうちの会社。熱海は最近、若い人にも人気ということで選ばれたらしい。温泉も料理も有名な旅館に泊まるとのことで、どちらも楽しみだ。静岡と言えば、海産物やシラス、桜エビ、お茶も有名だし。


 そして温泉ということは、女子社員たちとは裸の付き合いをするということで……。たるんだ身体は見せたくないというのが女心だ。ふだんよりもちょっとかわいい下着をつけていくのも、旅行あるあるだろう。


「旅行まで、筋トレに力入れることにするわ。毎日腹筋とスクワットを百回ずつこなせば、なんとか戻せるでしょ」

「先輩って意外と体育会系だったんですね……」


 まあ、トレーニングをサボっていても、男性を背負い投げできるくらいには。


「そうそう、今年のグループ分けは、営業部と一緒になったみたいですよ。あそこはメンズ多いから潤いますね~!」


 きらきらと瞳を輝かせた久保田の言葉に、口が「え」の形で固まった。


 営業部と合同。その可能性だってあるはずなのに、失念していた。旅館で宴会もあるだろうし、お風呂あがりの浴衣姿を、見たり見られたりする可能性があるということも。


 ……いや、同じアパートの隣の部屋に住んでいて、今さらなにを恥ずかしがっているのだ。すっぴんだって見せているのに。


「なに着て行こうかな~。あとでコーディネートの相談、乗ってくださいね!」

「あ、うん。もちろん。私もお願い……」


 社員旅行がこんなに楽しみなことも、少しだけ不安なことも初めてで、自分の気持ちに戸惑う。そしてその気持ちの中心に、塩見くんがいることも。


 顔は合わせないにしても毎日同じ会社に出勤して、週に一度は会っているのに、どうして社員旅行は『特別』だと感じるんだろう。


 大昔、初めて彼氏と旅行に行ったときも同じような気持ちになった気がするけれど、今ではもう、それがどんな理由だったか思い出せなくなっていた。


 * * *


「重い……」


 両腕にうず高く積まれたファイル。前もろくに見えずふらふら歩いている私を、非難と憐みの混ざった目で見ながら廊下を行き交う人が避けていく。


 資料室にファイルを戻すのを、一回で済まそうと思ったのが間違いだった。というかそもそも、誰かに『手伝って』とひと声かければよかったんだけど、私は自分の仕事を誰かに頼むのが苦手だ。というか、仕事に限らず人に頼るのがものすごく苦手なのだ。頼まれるのは得意なのに皮肉なものだ。


 自分にかわいげがないせいで、『手伝ってくれるわよね?』と訊いてもほぼ脅迫になるのでは、という心配もある。


 ふだんから、まわりの人や男性を頼りにできる女子っぽい性格だったらよかったのだけど、自分のこの女子力のなさも干物女たるゆえんなのだろう。


 ため息をついていったん足を止めたとき、急に腕がふわっと軽くなる。


「先輩、大丈夫ですか?」


 聞き覚えのある声がして顔を上げると、驚いた表情の塩見くんが目の前にいた。私の持っていたファイルのほとんどを引き取ってくれている。


「びっくりしました。廊下のむこうから資料の山を抱えた女の人が歩いてくると思ったら、先輩だったんですから」


 気づけば、営業部のあるフロアの近くまで来ていたみたいだ。


「重かったでしょう。手伝いますよ。資料室でいいんですよね」

「え、大丈夫よ。塩見くんだって自分の仕事があるでしょう。私ほら、力持ちだから」


 力こぶを作りながら断ると、呆れた顔でため息をつかれた。


「そんな細い腕でなに言ってるんですか。こういう時くらい、男を頼ってくださいよ」


 そう言いながら塩見くんの足は動き出しているので、私もあわててあとを追う。


「……ありがとう」


 塩見くんの横に並ぶと、腕まくりしたシャツの袖から、血管の浮いた腕が見えた。さっきの私と同じくらいの量を持っているのに、ふらついていないし、顔も隠れていない。


 姿勢よく歩く塩見くんの隣で、ほんの少しの資料を抱えていると、急に自分がか弱い女子になったみたいで――胸の奥がふわふわ、そわそわしてきた。


「みんな、この状態の私を見て避けていったんだけど。声をかけてくれたの、塩見くんだけよ。普段からこんなに優しいの?」

「優しいわけじゃないですよ。重いものを持っている人がいたら助けるのが当たり前じゃないですか。若い男が役に立てることなんて、そのくらいですし」


 照れ隠しに吐いた言葉を真摯に返されて、ドキッとする。


 塩見くんの優しさって、女性らしい細やかさだと思っていたけど、違ったんだ。ぶれない男らしさがあるから、だれにでも優しくできるんだ。


「先輩? どうしたんですか?」

「……ううん、なんでもない」


 女だからと舐められないように仕事をしてきたのに、無条件に助けてもらえることがこんなにうれしいだなんて。塩見くんの横顔が、いつもより頼もしく見える。


「そういえば、社員旅行の話、聞きました? 今年は営業部と企画部が合同みたいですよ」


 資料室の扉を押さえてもらいながら、私も今日知ったばかりの情報を塩見くんの口から聞く。


「ああ、うん。楽しみね」

「地酒もおいしいみたいですよ。先輩、飲みすぎないように気をつけてくださいね」

「わかってるわよ。職場の旅行なんだから、そこまで羽目は外しません」


 上司がいる宴会なんだから、お酌に気を取られて自分が酔うまでいかないだろう。


 そうやって油断しているときにこそ、お酒の失敗はやってくるものだって、このときの私はすっかり忘れていた。


 * * *


「日向先輩、おはようございます」

「あ、塩見くん。おはよう」


 社員旅行当日の朝。アパートのドアを開けると、ちょうど同じタイミングで家を出た塩見くんと遭遇した。


「せっかくだし、集合場所まで一緒に行きましょうか」

「そうね」


 ガラガラとカートを引きながら、ふたりで駅までの道を歩く。塩見くんはジーンズにスニーカー、ネイビーのニットにキャメルのコートをあわせている。カジュアルだけど上品な、塩見くんらしいファッションだ。


 休日に、いつもとは違う服装で塩見くんに会うのは、なんだか妙な気分。ふたりで歩いていると、これから旅行に行くカップルに見えたりしないだろうか、と変な気を回してしまう。知らない人にそう見られたとしても、なんの支障もないのだが。


「先輩、服装がいつもの雰囲気と違うから、なんだか照れますね」

「え、そ、そう?」


 私が考えていたことを塩見くんが言葉にするものだから、カートにつまづきそうになる。


「はい。カジュアルな服装だと、余計に若く見えますね」

「それは、ありがとう……」


 スカートにパンプスが標準装備の通勤服とは違って、今日は歩きやすいスニーカーだ。長時間バスに乗っても疲れないよう、コートの中はスキニーパンツとゆったりしたニットだし、髪も毛先だけ巻いて、ひとつにまとめてある。


「メイクの感じもいつもと違いますよね」

「服装がカジュアルだから、いつもよりナチュラルメイクなの」

「そうなんですか。いつもの先輩もかわいいですけど、今日みたいな雰囲気も僕は好きですね」


 塩見くんは最近、『かわいい』という褒め言葉を躊躇なく使うようになってきている。


「ありがと。男の人ってナチュラルメイクとかカジュアルな格好のほうが好きよね」


 しかし、ドキドキしながらも年上女性らしい返しができるようになったぶん、私も成長しているのではないだろうか。


「そうかもしれません。ああでも、すっぴんもかわいいと思いますよ、もちろん」

「……っ」


 爽やかな笑顔と共に付け足されたセリフに、返す言葉もない。うまくかわせるようになったと思ったとたんに、この敗北感だ。本当に塩見くんは油断ならない。


 いつもと違うシチュエーションのぶん威力も大きい気がして、警戒しながら歩いていると、この天然タラシはまた返事に困ることを言い出した。


「なんかちょっと、ペアルックっぽい感じもしますよね。ほら、ふたりとも、ニットの中に白シャツをあわせているし、コートの色も似てるし」


 実は私も塩見くんの服装を見た瞬間、『まずい、かぶった?』と思ったのだ。『いやいや、定番のファッションだし考えすぎでしょ』とせっかく振り切った思考を頭に戻さないでほしい。


「い、いや、こういう服装の人なんてたくさんいるでしょ。きっと同じバスにもあと二、三人はいるわよ」

「それもそうですね」


 特に感慨もなくさらっと同意する塩見くんがうらめしい。自分のなにげない言動に私が振り回されていることなんて、ちっともわかっていないんだろうな。クラッカーパーティーの日、余裕のない塩見くんを目にしたことが今では嘘のようだ。


 駅についたとき、私がひそかにホッとしたことは言うまでもない。


「せんぱぁい。お菓子食べます?」


 カラオケで盛り上がるバスの中、隣に座った久保田がアーモンドチョコレートを差し出してきた。


「うん、ありがと。あ、私もチータラ持ってきたけど、食べる?」

「えっ……。それお菓子扱いなんですか?」


 ショルダーバッグからA四ファイルくらいの大きさのチータラパックを取り出すと、久保田が絶句した。

 ほかに酢昆布やジャーキーも持ってきたのだけど、このチョイスはまずかったのだろうか。


「私より、もうビール開けてる営業部のみなさんに持っていったほうが喜ばれそう」

「ああ~、そうね」


 バスの前方に視線を移すと、すでに赤ら顔で手拍子している男性社員が見える。その中には、ひとりだけドリンクホルダーにお茶を入れている塩見くんの姿も。


 私も本当はビールを開けたいのだが、バスの中で飲むと車酔いしやすいから自粛している。夜の宴会まで我慢だ。


「それにしても、せっかくメンズが多いからって期待してたのに、バスの座席も完全に分かれてるじゃないですか~」


 じっとりと目を細めながら、周囲には聞こえない声で久保田がぼやく。


 前半分が営業部、後ろ半分が企画部、という感じで乗り込んだとき、久保田が舌打ちしたのを私は聞き逃さなかった。


「そんなに必死にならなくても、前に合コンメンバーと仲良くやってるって言ってたじゃない」

「それはそれ、これはこれです」


 旅行だというのに久保田はミニスカートにタイツ、ヒールのあるブーツだ。今まで、旅行に行くときもかわいらしい服装を崩さない女子を『女の子らしいな』という目で見ていたが、違う。旅先でも出会いを逃さないハンターなのだと、久保田のおかげでわかった。女子力の高さは、戦闘力なのだ。


「まあいいです。一泊二日ですし、時間はたっぷりありますから。営業部のメンズと仲良くなるチャンスなんて、めったにないですからね」

「はいはい。がんばって」


 こうして私が無関心でいられるのも、久保田の好みが塩見くんとは真逆だからで。もしそうでなかったら、ひやひやしながら見守ることになっていたかもしれない。


 塩見くんに彼女ができたら、毎週金曜日においしいおつまみが食べられなくなるからであって、それ以上の意味はないけれど。


 昼には静岡に着き、有名な海鮮丼のお店で昼食となった。


「わあ、広い」


 藁ぶき屋根で、古民家な造りの店の引き戸を開けると、広々とした店内が目に飛び込んできた。天井は高く、見上げると柱がむき出しになっているのがわかる。客席は板張りの高座敷になっていて、たくさんのちゃぶ台と座布団が並んでいる。囲炉裏もあるし、土間にはだるまストーブが置いてあって待っている人にも優しい。


「外に畑もあったし、雰囲気のいい店ね」

「こういうところに来ると、旅感高まりますよね~」


 靴を脱いで、久保田と席を探す。四人掛けのちゃぶ台があいていたのでそこに腰を下ろしたのだが、メニューを開く前に声をかけられた。


「久保田さんじゃん。ここ、あいてる? こっちもふたりなんだけど」

「あ、久しぶりー。あいてるよ」


 久保田に話しかけたふたり組を見て、ドキッとする。私たちの席を見下ろしていたのは、知らない営業部の男の子と、塩見くんだった。


「いいですよね、先輩?」


 久保田に問いかけられて、あわてて首を縦に振る。


「あっ、うん。もちろん」


 荷物を壁側に寄せて隣をあけると、塩見くんが「ありがとうございます」と言いながら横に来た。


 どういう状況なのだ、これは。私はどんな顔をしていればいいのだろう。


 ドギマギしながらちらっと塩見くんを見ると、微笑まれながら目配せされた。普通にしていろということなんだろうが、自信がない。自分から『秘密にしておきたい』とのたまっておいてボロを出したら最低だ。気を抜かないようにしなければ。


「はじめまして、営業部の海老沢です。久保田さんとは同期仲間で」


 短髪で人懐っこそうな、久保田の隣に座った男の子が自己紹介してくれる。


「日向充希です。よく同期飲み会してるって、久保田からは聞いてるわ」


 こちらも先輩らしい微笑みを浮かべて挨拶する。すると、海老沢くんはニヤニヤしながら肘で塩見くんをつつき始めた。


「塩見、この人だろ? 前に話してた企画部の日向先輩って」


 私が「え?」と目を丸くしたのと、塩見くんが「ちょっと」と顔をしかめて海老沢くんの肩をつかんだのが同時だった。


「なになに、どういうこと?」


 久保田はちゃぶ台に身を乗り出して、海老沢くんに迫っている。そのわくわくした顔に逆らえなかったのか、塩見くんはため息をついて海老沢くんの肩から手を離した。


 お許しを得た、というように満面の笑みを浮かべた海老沢くんが、意気揚々と語り出す。


「いや、実はね。塩見、企画部に憧れている先輩がいるって、熱く語ってたんですよー。美人で、かっこよくて、仕事ができる人なんだって」


 塩見くん、私のこと、そんなふうに話してくれていたんだ。

 目線を隣にやるけれど、気まずいのか、塩見くんはあさっての方向を見ていて私と目を合わせてくれない。


「そうなの。光栄だわ」


 憧れだなんて、本人から言われたことなかった。うれしくて、胸がすごく熱い。


「へえー、そうなんだ。だったらこの機会に仲良くなっちゃえばいいじゃないですか。ね、先輩!」

「そ、そうね」

「塩見くん、先輩に連絡先とか聞いておけば?」


 なにも知らない久保田がはしゃぐ。実はもうメアドも電話番号も知ってます、なんて知られたらどうなるのだろう。余計なことを言いそうで、口を開けない。


「でも先輩、気をつけてくださいねー。塩見、無害そうな顔して中身はけっこう腹黒いですから!」


 いじるような口調で、海老沢くんがとんでもないことを言い出す。


「そんなことないって」

「いや、そんなことあるだろ。憧れの先輩の前だからっていい子ぶらなくていいって。俺が女だったら、塩見の手のひらでころころ転がされてる気がするもん」


 塩見くんが、腹黒? 女性を手のひらで転がす?

 今まで見てきた塩見くんのイメージとは違って、にわかには信じがたいのだが。


「あの……、とりあえず注文するものを決めない?」


 店員さんがあたたかいお茶を持ってくるのが見えたので、メニューをふたりに渡す。


「あ、そうですね。すみません」


 四人とも定番の海鮮丼を頼んで、その後はなごやかな昼食となった。久保田と海老沢くんが同期の噂話をして、私と塩見くんは相槌を打つ係。海老沢くんは、塩見くんをからかうのには飽きたのか、その後腹黒の話題が出ることはなかった。


「先輩、先輩! 塩見くん、あの見た目で腹黒なんて萌えません? 実はドSなんですかね?」


 昼休憩を終えてバスに乗り込むやいなや、久保田が興奮した様子で耳打ちしてきた。


「海老沢くんが冗談で言っているだけかもしれないじゃない。あんまり真に受けないほうがいいわよ」


 ちゃぽちゃぽするお腹をさすりながら答える。


 マグロや海老、ウニなどが丼からはみ出そうなくらい盛られた海鮮丼はとろけそうなおいしさだったが、この四人で昼食を食べている、という緊張感で喉につまり、お茶をがばがば飲んで流し込むように食べるはめになった。


「う~ん、そうなんですかね? 確かに同期でも、優しいって話しか聞かないしなあ。海老沢くん、おちゃらけたことばっかり言ってるから、いじっただけかもしれないですね」

「きっと、そうよ。……たぶん」


 たまに見せる黒い表情だとか、年上をからかうような言動を思い出したが、私の考えすぎだろう。すでに塩見くんの手のひらで転がされているのでは、という考えも頭をよぎるが、それは恋人の場合であって私には当てはまらないだろうし。



 午後は、熱海の観光だ。ロープウェイに乗って展望台に上ると、海と、山の麓にある温泉街が一望できる。


「いい眺めね。ふだん山も海も見ていないから癒されるわ。一度に満喫できてお得な気分」

「先輩、むこうに恋愛おみくじがありましたよ。一緒に引きませんか?」

「い、いいわよ、私は」


 近くに恋愛成就の絵馬もかかっているし、なにげにカップルスポットだったようだ。


「ええー、じゃあアイス食べましょう、アイス」

「まあ、それくらいなら……」


 おねだりを断りきれず、展望デッキで風に吹かれながら久保田とアイスを食べることになった。


「寒い。あったかい飲み物にしておけばよかった……」

「ええー、今日はまだあったかいほうじゃないですか」

「潮風が寒いのよ。みんなもう中に入っているじゃない」


 最初は展望デッキにいた社員旅行のメンバーも、ほとんどが暖を求めて屋内に引っ込んでいる。


「確かに、人は少なくなりましたけど。まだ何人かいるじゃないですか。……あ、塩見くんだ」


 久保田の視線の方向に頭を動かすと、展望デッキの端っこに立って、若い女の子と向き合って話している塩見くんがいた。


 ショートコートに膝丈スカートをはいた、お嬢様ルックっぽい女の子。セミロングの髪をふわふわに巻いて、ピンクのマフラーで口元を隠している。


「あの子、塩見くんのことを狙ってた、同期……」


 真面目な顔をして、久保田がぼそっとつぶやく。


「えっ」

「なんか様子がおかしいですよ。こっそり近くまで行ってみましょうよ」

「ちょっと、悪趣味よ」

「だって、気になるじゃないですか」


 結局久保田を止めきれず、私も一緒にこそこそと塩見くんに近づく。アイスを食べながら雑談しているふりをして、自然に。


「ここからなら会話が聞こえるかも。先輩、いったん止まってください」


 展望台の柵に寄りかかって、景色を眺めているふりをしているけれど、耳は大きくなって塩見くんたちのほうを向いている。私がうさぎだったら、聞き耳を立てているのが速攻でバレていただろう。


「――だから、考えてほしいの」


 女の子の、高い声が聞こえる。外見からイメージしたとおりの、かわいらしい声だった。

 答える塩見くんの声は低いせいか、風に流されてこちらまで届かない。


「――返事は、旅行が終わってからでいいから」


 でも、途切れ途切れな女の子のセリフだけでわかった。彼女が塩見くんに、真剣に告白をしていることに。


「久保田、戻ろう」


 興味本位で私たちが聞いていいものじゃなかった。塩見くんたちに背を向けて久保田の肩を押したのだが……。


「え、でも、終わったみたいですよ。話」

「えっ」


 振り返ると、ふたりはバラバラの方向に去って行くところだった。


「告白……だったみたいですね」

「……そうね」

「よく聞こえなかったんですけど、塩見くん、なんて返事したんでしょうか」


 保留だったみたいよ、とは言えなかった。アイスを食べていたときよりももっと、心の芯が冷えている自分に気がついたから。


 ぶるっと身体が震え、両腕で自分を抱くようにすると、久保田が驚いた顏で私の手を取った。


「うわ、先輩、顔色真っ青ですよ! 手にも、鳥肌立ってるし……」

「……ほんとだ」


 寒くて、頭が痛い。なにかを必死で考えなきゃいけない気がするのに、頭が回らない。


「私がアイス食べたいって言ったからですね、すみません! 急いで中に入りましょ!」


 もつれる足を動かして、私の手を引く久保田についていく。


 どうして心がこんなに凍えているのか、どうしてこんなに時間を巻き戻したいと思っているのか、自分のことなのにわからなかった。


 ロープウェイを下り、神社を参拝して、夕方になるころには旅館に着いた。そのころには私も、ショックを忘れてふだん通り振る舞えるようになっていた。


 荷物を部屋に置き、夕飯までまだ時間があったので、久保田と旅館内の温泉に足を運ぶ。


「はー、生き返るぅ……。肩、ガッチガチだったのよ」


 湯気でにじむ視界のむこうには、弊社の女子社員の姿もちらほら見える。みんな、バスの移動で疲れたのだろう。塩見くんに告白していた子の姿が見えないことになぜかホッとする。


「先輩、そのセリフおっさんっぽいです」

「久保田もアラサーになればわかるわよ、温泉のありがたみが」


 こうして広いお風呂で熱い湯に浸かっていると、ふだんストレスにさらされて凝り固まった身体も心もゆっくりとほどけていくようだ。


「それにしても、先輩ってスタイルもいいんですねえ。こんな立派なものをお持ちなのに、彼氏がずっといないなんてもったいないです」

「ほめているのかけなしているのかわかんないようなこと、言わないでよ。そういう久保田こそ、着やせするタイプなんじゃない?」


 たるみ始めたお腹は、毎日の腹筋とスクワットでもとに戻した。


 スタイルがいいと言われても、日本人女性の平均を大きく超えてはいないだろう私とは違って、久保田はハリウッド女優のようなグラマラスさだった。わりと童顔で小柄だから、『脱ぐとすごいんです』感が半端ない。


「ふふふ、胸だけは意外とあるんですよ、私。昔はコンプレックスだったんですけど、今はもう武器として使おうと思ってます」

「久保田から、コンプレックスなんて言葉が出るとは……」

「ちょっと、なんですかそれ。私だっていろいろあるんですよ。先輩みたいに完璧じゃないんですから」

「……私だって、完璧なんかじゃないわよ」


 自分の武器を知り尽くしている久保田がうらやましい。ふわふわしていて、女の子らしかった、塩見くんに告白していたあの子も。


 本当は私だって、もっと女の子らしくなりたい。自分に自信を持ちたい。

 でもそれって、なんのため? ううん、だれのため?


 ずっと自分の心を占拠していた彼の笑顔がふいに浮かんで、まぶたが震える。


「え、なにか言いました?」

「ううん、なにも」


 お湯を顏にかけるふりをして、流れてきた涙を隠した。


 気づいてしまった。今まで隠していた、塩見くんへの気持ちに。


 だから、新卒の後輩に『四つ上なんてありえない』と言われたときも、結婚式で女子力のなさを指摘された気持ちになったときも、あんなにショックだったんだ。そのたびに、塩見くんの言葉に救われていた理由も、今わかった。


 気づきたくなかった。気づいてしまったら、今まで通りではいられなくなるから。


 お湯に浸かったまま動けなくて、のぼせる寸前まで入っていたら、顔が真っ赤になって久保田に心配された。


「あ、日向先輩」


 飲み物を買いにロビーにある自販機に向かうと、ちょうどむこうも温泉に入ってきたと思われる塩見・海老沢コンビに会った。


「温泉、入ってきたんですか?」


 浴衣に羽織姿の塩見くんに尋ねられる。胸元の併せ目から鎖骨が見えて、ドキッとする。旅館の備え付けなのだから当然なのだけど、お揃いの浴衣というのがこう、胸をもやもやさせる。


「う、うん」


 塩見くんから目を逸らしつつ返事をする。どうしてもぎこちない態度になりそうだから、このタイミングで会いたくなかったのに。


「顔、赤いですよ。大丈夫ですか?」

「先輩、入りすぎてのぼせちゃったんですよー」


 久保田が暴露すると、海老沢くんも「ええっ、大丈夫ですか」と心配してくれた。


「の、のぼせてはいないから。ちょっとあったまりすぎただけ」

「でも本当に真っ赤ですよ。僕、スポーツドリンク買ってきますから、そこに座っていてください」


 ロビーにあるソファセットに無理やり座らされ、引き止める前に塩見くんは自販機に走っていく。ひとり掛けのラタンソファに腰を下ろすと、ずしっと身体が重くなった。自分で思っているよりも、のぼせていたようだ。


「……行っちゃいましたね」


 ぽかんとしている久保田と顔を見合わせていると、海老沢くんが「だったらここは、塩見にまかせたほうがいいのかな」とぽつりとつぶやく。


「なに? なんか言った?」


 久保田には聞こえていなかったようで、海老沢くんは虚空を見つめながら「あー、えっと」と言い訳をひねりだしている。


「あー、そうだった。ゲームコーナーで同期のやつらが卓球やってるけど、俺たちはどうする?って言ったの」

「あ、ほんと? 行く行く。先輩、ひとりでも大丈夫ですか?」

「ああ、うん。ここで少し休んだら部屋に戻ってるから」

「了解しました。私も夕飯までには戻りますね」


 ふたりは連れ立ってゲームコーナーの方角に向かっていった。きっと海老沢くんは、塩見くんが私のことを『憧れの先輩』なんて言ったから気を遣ってくれたんだろう。


「あれ? 海老沢と久保田さんは?」

「海老沢くんが卓球に誘って連れていったわ。彼、塩見くんに気を遣ったみたいよ」

「え、そうなんですか。……あいつ、余計なことしなくていいのに」


 その言葉に胸がズキン……と反響しながら痛む。

 塩見くんの心にいて、気にしているのは、告白をしてきた女の子なんだろう。私とふたりきりになるのは『余計なこと』だったんだ。


「先輩、どうぞ。気分は悪くなっていないですか?」


 ペットボトルのスポーツドリンクを受け取る。


「大丈夫。買ってきてくれてありがとう」

「ゆっくり休んでくださいね。先輩が飲み終わるまで、僕もここで時間をつぶしますから」


 そう言って、私の対面のソファに腰を下ろす。

 塩見くんの照れたような笑顔を見ていると、またまぶたが熱くなるのを感じた。


「……ありがとう」


 うっかり涙がこぼれてしまわないように、上を向いておでこにペットボトルを当てた。


 訊けない。あの子の告白の返事、どうするつもりなのって。


 尋ねたところで、自分にはあの子みたいに告白する勇気もない。塩見くんより四つも年上だし、女子力なんて皆無だし、かわいげなんてないし。勝てるところがひとつも思いつかない。


 ぴりり、と塩見くんのスマホが鳴ったけれど、確認することもせずに私の様子をうかがっている。

 だけど、そんな塩見くんの優しさが、今はとても苦しい。


「あ、そうだ。あと、これもよかったらどうぞ」


 スポーツドリンクに口をつけたのを確認した塩見くんが、浴衣の袖口に手を突っ込む。

 ごそごそとあさったあと袖口から取り出して、塩見くんがガラステーブルに置いたのは、パックのいちごミルクだった。


「売っていたから、買ってきちゃいました。袖の中に隠しておいて、こっそり渡すつもりだったんですけど。先輩、好きですよね?」

「……なんで知ってるの?」


 たしかに、いちごミルクは私のひそかな好物だ。私のイメージじゃないし、かわいこぶってると思われるのが嫌で、周囲に話したことはないのに。


「秘密です」


 困惑しながら、いたずらっぽく微笑む塩見くんを見つめる。なにかが頭の片隅に引っかかって、思い出そうとしたけれどダメだった。私はなにか、大事なことを忘れているのではないだろうか。


 塩見くんにもらったいちごミルクは、甘いはずなのに、なんだか甘酸っぱい味がした。


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