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恋する金曜日のおつまみごはん~心ときめく三色餃子~  作者: 栗栖ひよ子
メニュー2 お疲れの日のみぞれ煮と変わり冷奴
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(2)

 出迎えてくれた塩見くんは、Tシャツにスエットパンツと、初めて見る部屋着姿だった。いつものシャツ姿よりも身体のラインが出ていて、ドキッとする。広い肩幅や、意外と筋肉質な腕が、細く見えてもやっぱり男性なんだなと意識させる。


「し、塩見くん。メモ見たんだけど……」


 もうお風呂に入ったあとなのだろうか、髪が少し湿っていて、せっけんの匂いがした。


「お帰りなさい。息切れしてますけど、もしかして急いで来てくれたんですか?」


 塩見くんは私の姿を見て、目をみはった。


「だ、だって。あんなメモを見たら焦るじゃない」

「ゆっくり準備してください、って書いておけばよかったですね」


 そう言っていたずらっぽく微笑むものだから、急に自分の行動が恥ずかしくなってきた。なにもこんなに急がなくても、メールを送ればよかったんじゃ。


「でも、うれしいです。そんなに急ぐほど楽しみにしてくれていたんですね。キャンセルのメールをもらったときは、残念でしたから」


 つっかけてきたサンダルを脱いでスリッパに履き替えながら、言葉を交わす。


「そりゃあ、週に一度の楽しみですもの。塩見くんのおつまみがあるから仕事をがんばれているようなものだし」


 そこまで答えて、先ほどのセリフに引っかかりを覚える。短い廊下を先に進む塩見くんの背中に声をかけた。


「私はともかく、……塩見くんのほうも、残念だったの?」

「そうですよ。僕のほうだって、先輩に腕をふるうことが週に一度の楽しみなんですから」


 リビングのドアを押さえてくれながら、塩見くんはこちらがうれしくなるような言葉をくれる。それはもしかしたら社交辞令や、大げさに言ってくれているだけかもしれないけれど、素直に受け取っておこう。なにしろアラサーには『日常のときめきは大事』らしいから。


 部屋に入ると、塩見くんは私にクッションを勧めてから、エプロンをつけてコンロにかかった小鍋を温め直し始めた。その隣にも鍋が置いてあるし、カウンターには使うお皿がふたりぶん用意してある。


「もしかして、私が帰ってくるまでずっと、待っているつもりだったの? 何時になるかわからないのに」


 メモには『これから用意する』ではなく『作ってある』と書いてあった。私が来なかったら無駄になってしまうふたりぶんのおつまみを、作り置きして待っていてくれたのか。


 なんだか胸がじーんとして、奥さんが食事を用意して待っていてくれたときってこんな気持ちなのかなと思う。……なんで私が旦那側の想像なのだろう。


「先輩、夏バテで胃腸の調子が悪いっていうから心配で。ちゃんとした食事も摂れていないだろうなと思って」


 さすが、するどい。自炊ができない人間が胃腸を壊したら、コンビニのおかゆかゼリー飲料に頼るしかなくなる。ランチの誘いを断って、給湯室でチンしたおかゆは味気なくてもの悲しかった。


「ありがとう、正直すごく助かった。実は昨日からまともなごはんは食べていなかったの。そのうえごほうびが一週間延ばされていたら、週の半ばでバテていたかも」

「先輩が倒れたら、企画部は大変なことになりますからね。おつまみは、入りそうですか?」

「うん。胃が少しムカムカするだけだから、さっぱりしたものなら大丈夫だと思う」

「よかったです」


 そこで言葉を切った塩見くんは、おとなしく座っている私を見て微笑みかける。


「今日はさすがにお酒、持ってきてないんですね」

「あ、そういえば……。そんなこと考える余裕なく飛び出してきちゃったから」


 そもそも今の状態でお酒を飲む気にはならない。また二日酔いになって、せっかく治りかけた胃腸を悪くしたら、自己管理能力を疑われる。


「よかったです。今日はお酒を飲んでほしくなくて、これを用意したので」


 小鍋の火を止めてキッチンカウンターから出た塩見くんが、お盆に乗せた湯呑みのようなものをそろりそろりと運んでくる。


「どうぞ」


 ことりとテーブルの上に置かれたのは、湯呑みではなく陶器製のビールグラスだった。深い青色のグラスの中に注いであるのは、湯気をたてる白い飲み物。


「これって……」

「甘酒です。甘酒って、飲む点滴って呼ばれているくらい栄養が豊富なんですよ。お酒のかわりにはならないかもしれませんが、今日はこれで身体をいたわってくれませんか。先輩はいつも、がんばりすぎなんですから」


 不意をつくようないたわりの言葉に、鼻がつんとした。


「……ありがとう」

「人の何倍も仕事をしているのに、表に出さない人だから、心配なんです」


 まるで私の仕事風景を見たことがあるような言葉だ。営業部と関わったことはあっても、塩見くんと仕事で組んだことはないはずなのに。


「夏に甘酒って思うかもしれませんが、夏バテのときにこそいいんですよ。料理のほうもすぐ盛り付けるんで、少し待っていてくださいね」


 微笑みを崩さないまま、塩見くんは私に背を向ける。少し疑問に思ったが、わざわざ訊くほどのことではないか。


 口をつけた甘酒は、甘すぎず飲みやすかった。風味が濃いし、米の粒も残っている。


「おいしい。缶の甘酒を飲んだことがあるけれど、もっと水っぽかったわ。もしかしてこの甘酒って、塩見くんの手作りだったりする?」

「いえ、手作りですけど、母のなんです。濃縮した甘酒を送ってくれたので、薄めて甘みを足して、鍋で温めました」


 小皿にちまちましたものを盛り付けている塩見くんに尋ねると、そう返ってきた。


 例の、お父さんに毎日おつまみを作っていたお母さんだ。きっと塩見くんみたいに、細やかな性格なのだろう。そうでなかったら、手間のかかる甘酒なんて手作りしないと思う。


「手作りだからこんなにホッとする味なのね」


 飲んでいると、胃が温まって落ち着いてくる気がする。疲れてカチコチに固まっていた身体も、ほぐれていく。


「食欲、出てきましたか? 今日の付き出しはこれです」


 グラスの甘酒が半分になったころ、待ちに待ったおつまみが私の前に出された。白いお皿に盛られた、見慣れた白い物体。


「これは……冷奴?」


 でも、ただの冷奴ではない。豆腐の小皿のほかに、仕切りのある長細いお皿がもうひとつ。焼き肉屋のタレ皿のようなそれには、ひとつのスペースごとに違うものが盛り付けられている。


「変わり冷奴です。こっちのお皿にあるのは、韓国海苔をちぎったものと、ネギとかつお節を醤油で味付けしたもの、ショウガの梅肉あえです。お豆腐に載せて食べてください。もちろん、そのまま食べてもいいですよ」

「すごい、こんな冷奴だったら食べるのが楽しいわね」

「これ、実はうちの実家での定番メニューだったんですよ」

「塩見家の?」


 首をかしげながら尋ねると、塩見くんは昔を思い出すような眼差しになる。


「はい。僕、子どものころは冷奴って苦手だったんです。味がしない、って言って母を困らせていました。それで母が工夫して、子どもが好きそうなトッピングをいろいろ用意してくれたんです」

「へえ……。優しいお母さんなのね」

「今回、それを思い出して。お酒好きな人って、いろんなおつまみを少しずつつまむのが好きでしょう? 胃に優しいものといってもそういう楽しみは残したくて、大人向けトッピングに変えたバージョンを作ってみたんです」


 いろんな味を、少しずつ。イタリアンの前菜のように繊細に盛り付けられたお皿には、お母さんから塩見くんに受け継がれた、優しさと思いやりがつまっている気がした。


「メインのほうも、あとは仕上げをするだけですから」


 いろんなトッピングを試しながら変わり冷奴を楽しんでいると、キッチンから食欲をそそる香りが漂ってきた。

 実家のキッチンからもよくしていた、甘辛い煮物の匂い。醤油とみりんを合わせた匂いって、どうしてこんなに懐かしくてほっこりするんだろう。


 お鍋をコトコト煮込んでいる塩見くんの後ろ姿からも、なんだか母性を感じるような。

 夫の帰りを待つ妻の次は煮物を作るお母さんだなんて、そんなこと塩見くんにはとても言えないが。


 すっかり変わり冷奴を堪能し終えたころ、タイミングを図ったかのように塩見くんが大皿を持ってきた。


「お待たせしました」


 ほかほかの湯気をたてているのは、鶏肉の煮物。上に和風ソースのようなものがかかっていて、ネギが彩りよく散らしてある。


「鶏肉のみぞれ煮です。大根おろしを入れて煮たものなんですよ」

「へ~、これって、大根おろしなんだ」


 確かに、ハンバーグに大根おろしを載せて、ポン酢をかけた状態によく似ている。


「みぞれ鍋、っていうのは聞いたことあるけれど、煮物にも大根おろしが使えるのね」

「はい。大根には消化酵素が数種類含まれているので、胃腸を助けてくれるんですよ。おろしショウガも入れたので、食欲増進効果もあるはずです」


 専門的な用語が塩見くんの口から飛び出すものだから、私は驚いてしまった。


「すごい、塩見くん。料理が得意な人って、そんなことまで知ってるのね」

「……まあ、そうですね」


 素直に出た称賛の言葉だったのに、塩見くんの返事の歯切れが悪い。


「ご飯とお味噌汁を持ってくるので、先輩は先につまんでいてください」


 そう言って、逃げるようにキッチンに戻ってしまった。どうしたんだろう。

 足がしびれてきたのでいったん伸ばすと、テーブルの下でなにかがつま先に当たった。なんだろう。


 引っ張り出すと、数冊のレシピ本とコピー用紙の束だった。レシピ本には付箋がいくつも貼ってある。

 塩見くんがいつも使っているレシピ本なんだろうか。本棚にしまい忘れたのかな。


 そう思ってページをぱらぱらと捲っていくと、付箋の貼ってあるレシピに共通点がある気がした。

 これにも、そっちにも、ショウガが入っている。そしてこれとこれは、大根を使ったレシピ……。


 ハッとしてコピー用紙を手に取ると、『夏バテにぴったりのメニュー!』という文字が目に飛び込んできた。


「え……っ」


 そのほかの紙も、『夏バテに効く食材』だとか『食欲のないときでも食べられるレシピ』だとか、そういった情報をプリントアウトしたものだった。


 まさか、私がメールをしてここに来るまでの間で、こんなに調べてくれたの? さっき言葉を濁していたのは、急いで調べたことを知られたくなかったから?


 私のためにレシピ本やネットを必死で調べてくれている塩見くんを思い浮かべたら、胸の奥から、あたたかな気持ちがあふれてきた。うれしくて、不意にもらったプレゼントみたいにドキドキして、顔が熱くなる。


「あれ、待っててくれたんですか」


 お茶碗によそったご飯とお味噌汁を運んできた塩見くんが、私に声をかけながらエプロンを外す。


「うん。冷奴も少し、残ってたし」


 感激を表に出すと目が潤みそうだったから、平静を装って言葉を返す。


「そうでしたか。じゃあ、メニューも揃ったし食べましょうか」


 腰を下ろした塩見くんと一緒に、手を合わせる。


「いただきます」


 ふたりの声が揃う。こうして、ご飯とお味噌汁、おかずを目の前にして食事をしていると、『宅飲み』というより『日常のごはん』みたいで――。日常なのに、塩見くんと普通の食事をしているのが非日常みたいで、戸惑う。


 だってこんなの、家族か恋人同士みたいじゃない。


 心は騒ぎつつも、箸はしっかりみぞれ煮に伸びている。大根おろしのたっぷりかかった鶏肉を口に入れると、しっかりした煮物の味のあとに大根のほのかな辛みを感じた。


「おいしい! 甘辛い味付けでも、大根おろしがあるだけでさっぱりするのね。これだったらいくらでも入りそう」

「実はお酢も少し入っているんです。酸味があったほうが食べやすいかなと思って」

「うんうん。大根の辛みと、お酢の酸味がいい味出してる! 実は、お酢の効いたものって大好きなの」


 ご飯茶碗にも、手を伸ばす。ずっとおかゆを食べていたから、久しぶりの白米がうれしい。


「じゃあ、僕と一緒だ。前々から感じていたんですけど、先輩とは食の好みが合うんですね」


 塩見くんは、おかずとご飯、汁物をバランスよく順番に食べている。箸の持ち方もキレイだし、育ちがいいんだろうな。


「そうかも。塩見くんのおつまみって、どれも私の好みを突いてくるもの。でも、塩見くんの作るものは、だれが食べてもおいしく感じると思うけど……」


 男女のお付き合いで大事なことは食の好みが合うことだって聞いたことがある。今それを思い出すのは気まずいが、私たちの場合は単に塩見くんが料理上手なだけとも言えるのでは。


「そんなことないですよ。ひとり暮らしっていうのもあって、誰でも好きな味っていうより、自分の好きな味に作っちゃうタイプなんで……。なので余計、おいしいって食べてもらえるのがうれしいんです」


 それからの時間は、いつもの飲みより静かな夕食だった。口数は少なくても、穏やかで優しい空気がリビングに満ちていて、なんだかホッとする。

 家族と食べる夕飯みたいな、こんな飾らない食卓を誰かと囲んだのは、いつぶりだろう。


「お酒を飲まないで塩見くんのごはんを食べるのも、なんかいいわね」


 食べ終わったお皿を運ぶのを手伝ったあと、ふたりで食後のお茶を飲む。塩見くんは甘酒で、私にはぬるめのほうじ茶を淹れてくれた。胃腸が弱っているときは冷たい飲み物を飲まないほうがいいそうだ。


「それじゃ、次回からは飲みはナシにしますか?」


 うかがうような上目遣いで、塩見くんが尋ねる。


「そ、それはダメ」


 あわてて首を横に振ると、塩見くんはにっこり微笑んだあと、いたずらっぽい口調になった。


「わかってます。大丈夫ですよ」

「塩見くん、私のことからかってない?」

「え、そんなことないですよ」


 本当だろうか。塩見くんは草食系に見えても、いろいろと油断ならない気がする。


 眉根を寄せてじーっと塩見くんの顔を見つめていると、ぱっと顏を背けられた。


「先輩、見すぎです」

「あ、ごめん」


 横を向いた塩見くんの耳が赤く見えるのは、気のせいだろうか。


「ねえ、塩見くん」


 呼びかけると、怒ったような、力の入った顏のまま塩見くんは振り向く。


「どうしてここまでしてくれるの? 一緒に飲むのが楽しいっていうのはわかるけど、今日のごはんは違うじゃない。ふたりで飲むためっていうよりも、私のために作ってくれたごはんよね」


 彼が一瞬ハッとした表情になったのが、私にはわかった。そのあとすぐに穏やかな笑みを浮かべた塩見くんに戻ったが。


「それは……、自分の夕飯を作る手間を考えたら、ふたりぶん作ったほうが効率的だったからですよ」


 その『手間』が、本人が語るよりもずっと労力のいるものだったことを私は知っている。


「塩見くん、ごめん。実は見ちゃったの、机の下にあるレシピ本とコピー……」

「えっ」


 唖然とする塩見くんに謝罪を繰り返す。


「勝手に見てごめんなさい。でも、なんでここまでしてくれるのか、気になっちゃって」


 私がうつむき、沈黙の時間が流れて、塩見くんがゆっくり息を吐く音が聞こえた。

 怒っているかと心配になりながらちらりと顔を上げるが、それを見越しているかのように塩見くんは目元を柔和に細めた。


「見えるところに置いておいた自分が悪いので、先輩は気にしないでください。料理をする理由かあ。そうですね……」


 しばらく考えた塩見くんは、ひと呼吸おいてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「……実は僕、入社したばかりのころ、慣れない仕事に疲れて落ち込んでいた時期があったんです」

「えっ、塩見くんが?」

「はい。営業に向いていないのかな、とか、やっぱり自分は男だから、化粧品のことを深くは理解できていないのかな、とか悩んでいて」


 それはとても意外な告白だった。器用に見えて、女性社員に自然に寄り添ってくれる塩見くんにも、そんな時代があったなんて。


「そんなとき、職場の先輩に飲み物をおごってもらう機会があったんですけど。不思議とそれだけで気持ちが軽くなって……。飲み物とか、食べ物ひとつで気持ちが救われることもあるんだなって、感動したんです」


 それは、おいしいお酒とおつまみに人生を支えられてきた私には、よくわかる話だった。


「それ以来、自分でも食べ物で誰かの力になれたらな、と思うようになって……。なので、自分の作るおつまみが先輩の仕事の支えになるなら、すごく光栄なことなんですよ。それが理由です」


 最後は明るい口調で塩見くんが締めてくれた。


 つまり、過去の自分みたいに困っている人がいたら、自分の作る料理で助けてあげたいと思っていた、ということだろう。


 だからといってここまで手間をかけられる人はなかなかいない。まるで仏様のようだ。塩見くんの背後に、後光が射して見える。


「そうだったのね……。今日は本当に、ありがとう」

「いえ。こちらこそ、食べてもらえてよかったです。あ、そうだ。甘酒の残り、持ち帰りますか?」

「あ、うん。いただいてもいいなら」


 甘酒を入れた魔法瓶の水筒を渡され、「それじゃ……」とお開きの雰囲気になったところで、私は大事なことを思い出した。


「あの……。この流れで申し訳ないんだけど、私、塩見くんに話さなきゃいけないこと、まだ残ってて」


 さっきまで忘れていたけれど、今日は話があったんだった。


「なんですか?」

「あのね。私が塩見くんの家でおつまみをごちそうになっていること、会社の人には内緒にしていてほしくて」


 失礼な言い方にならないように、少し緊張しながら声のトーンを下げる。

 塩見くんは、少し眉をひそめたあと、首をかしげた。


「もとから言いふらすつもりはないですけど……。なんでですか? 知られたらまずい人でも?」

「ううん、そういうわけじゃないの。ただちょっと……、うっかりほかの人に知られちゃって、面倒なことになったら嫌だなって」


 すぐに『いいですよ』と了承してくれると思ったのに、塩見くんは「なるほど」と頷いてから間を取った。


「僕は別にいいですけどね、ほかの人に知られても」

「えっ?」

「だって、悪いことをしているわけじゃないし」


 あっさりとそう言い放つ塩見くんが、知らない人のように見える。


「そりゃあ、そうだけど」


 塩見くんって、こんなこと言う子だったっけ? 後輩だからと侮っていたのだろうか。まさか反論されるとは思っていなかった。


 予想外の展開に、冷や汗が出てきた。ど、どうしようと焦りながら二の句を継げずにいると、真顔だった塩見くんがぷっと噴き出した。


「すみません、冗談です。ちゃんと内緒にしておきますから、心配しないでください。先輩くらいの役職だと、いろいろありますもんね」


 その表情も声も、明らかに笑いをこらえている。


「やっぱり塩見くん、面白がってるでしょう!」


 テーブルから身を乗り出して拳を上げると、身をよじって避けた塩見くんがとうとう笑い出した。


「そんなことないですって」

「笑いながら言われても、説得力ないわよ!」


 もう!と怒り顔をキープしようとしたのに、私も塩見くんにつられて笑ってしまう。


 最初のイメージとはどんどん離れていくのに、今の塩見くんのほうが好ましいと思うのは、どうしてなんだろう。


 どっちにしても、『ほかの人に知られてもいい』と言われたときに『もうここには来ない』という選択肢が出てこなかった時点で、金曜日のこの時間が、私の中でなによりも大切になっていることは事実なんだ。


 そしてきっとそれは、おいしいおつまみごはんだけじゃなく、この油断ならない後輩が作ってくれる、素の自分でいられる空間のせいでもあるんじゃないかな。


 夕飯のぬくもりが残るテーブルを挟んで塩見くんと笑い合いながら、そんなことを考えていた。


 * * *


 その後、私は夏バテからすっかり快復し、再び体調を崩すこともなく八月下旬を迎えた。


「先輩、あのビアガーデン、今週で終わりみたいですよ。最後にふたりで行っておきません? 今年の夏の締めってことで」


 八月最後の水曜日、久保田に飲みに誘われた。ふたつ返事で了承したあと、椅子に座ったままうーんと背伸びしてため息をつく。


「もう夏も終わりかあ。今年も夏っぽいことはビアガーデン行っただけだなあ」

「花火大会とか、海とか、行ってないんですか?」

「女友達を誘う歳じゃないし、恋人がいなかったら行く機会なんてないわよ」


 友達同士で集まっても、冷房の効いたショッピングモールから動きたくないお年頃だ。紫外線の心配もないし、なによりいつでも座って休憩できるのがいい。


 それを言ったら、「先輩それって、アラサーっていうよりおばあちゃんみたいですよ……」と心配された。


「久保田はどうなのよ。夏のイベント、行ったの?」


 社交辞令で尋ねたのに、久保田はふふふ、と含み笑いをしてからキャピッとした声を出した。


「私は、合コンで知り合った男女グループで行ってきましたぁ」


 リア充め、と怨念を送ると、久保田は「こわーい」と大げさに肩を震わせた。


「今日は先輩の快気祝いなので、私がおごります! なんでも好きなもの頼んでください」


 おなじみのビルの屋上。最後の週ということでにぎわっているビアガーデンの席に着くと、久保田がそんなことを言い出した。


「え、快気祝いって?」


 きょとんとして言い返すと、「自分のことなのに忘れちゃったんですか」と呆れた顔をされた。


「先輩、ちょっと前、体調崩してたでしょ。ランチ断って、おかゆ食べたりしてたし」

「えっ、気づいてたの?」


 だれもなにも言ってこないから、うまく隠せていたと思っていた。気を遣われて仕事量を減らされるのが嫌だから、ちょっと体調が悪いくらいだと平気な顔をするクセがついているのだ。


「そりゃ気づきますよ。先輩ってそういうの隠したいタイプだから、黙っていただけです。本当はみんな、心配してたんですよ」

「そうだったの……」


 気を遣われるのは嫌だけど、心配されたくないわけじゃない。いつもひとりで突っ走ってしまう私だけど、まわりはちゃんと見てくれているんだ。

 会社でもちゃんと、優しい目線に守られているんだってこと、久保田のおかげで気づけた。


「心配してくれてありがと。じゃあ、遠慮なく頼んじゃうわね」


 お揃いのTシャツを着ているスタッフを呼んで、メニュー表を指差して読み上げる。


「まずは生ふたつで。おつまみは、ジャーマンポテトのピザと、スパイシーチキンと……」


 ひととおり注文を終え、スタッフが去っていくと、久保田がおしぼりで手を拭きながら尋ねてきた。


「今日は枝豆、頼まないんですか? この前ブームって言ってたじゃないですか」

「ああ、うん。いいの。本当においしい枝豆を食べちゃったから、ほかのところで頼みたくなくなっちゃって」


 塩見くんの焼き枝豆に勝てる枝豆なんて、ここにはないもんね。

 そう答えると、久保田が興奮しながら身を乗り出してきた。


「ええ~、どこの店ですか! 今度連れてってくださいよ」

「ダメ。そこだけは、秘密」

「ひどい、ズルい」


 すねた口調で騒ぐ久保田をあやしながら、私の心は次の季節に飛んでいた。


 もうすぐ、九月。秋にはおいしい食材がたくさんあるし、塩見くんはどんなおつまみを作ってくれるだろう。


 夏も秋も関係なく、私には一年中楽しみなとっておきイベントがあるんだよって思うと、都会の喧騒に包まれたビアガーデンの景色さえ、キレイに見える気がした。


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