俺と娘と婿さんと。
青森の山の麓。
にほそぼそと一本のアスファルトが敷かれていた。
夏の朗らかにすっかり照らされた木々がそこに向かって茂っている。
ボロボロのそこにはシルバーの車がポツンとあった。
車の扉が開いた。
中から男が二人出てくる。
一方が声を淀ませて話す。
「あの…お義父さんここは……?」
男は無視して山の中へ歩いた。
つい先程まで同じ車に乗っていたにもかかわらずの様子にもうひとりはうなだれた。
50メートルほど進んだところで、男は振り返り、言葉を発する。
「いいから行くぞ」
「は、はい」
上ずった声での返答に男は顔を微かにしかめた。
しかしそれをもうひとりには見せずに山に登っていった。
また50メートルほど進んだところで、再度男は声を出した。
「名前は何だったか」
夏にも関わらず、もうひとりは肩を震わせた。
「お、大政です。大政晶です」
「そうか」
麓から100メートルも離れればもやはほそぼそとした人工物のあとは存在しない。
やかましく虫や鳥が鳴き、歩く道は獣道のたぐいであった。
もうひとりの男、改、大政はキョロキョロとあたりを見回しながら歩いている。
先行している男は後ろ目で大政を見た。
「怪我するぞ」
しっかりと正面を見直した大政が会話を続ける。
「お義父さん、それで結婚は」
彫りの深い顔を一層そうして男が返す。
「許すも何も。聞かんだろう。娘は」
「まあ、そういうところに惹かれましたし」
「惚気はいらん。俺の血が入っとる。そういう女だ」
「す、すいません……」
虫の騒ぐ森の中。
男が言葉を発し、大政が言葉を発する。
この状況がしばらくつづく。
しかし、山の中腹ほどで会話が流れを変えた。
「収入は」
「680です」
男がまっすぐ前を見て鼻で笑った。
「家は」
「東京で一軒家です。ローンですけど」
「その年なら上等だろう」
大政は少し立ち止まってゆっくりと深呼吸をした。
男が少し待ってから言葉を発した。
「ここはどこだと思う」
話の流れを断ち切る言葉の出だしに、大政は声を漏らした
「えっと……」
「ここはどこだと思う」
男は同じ言葉を発した。
表情そのままに大政が話す。
「お義父さんの…思い出深い場所でしょうか」
「ああ…ここで…俺は妻と会った」
「運命ですかね」
「そんなわけ無いだろ。当時の俺は、別の子にお熱だったさ」
大政は言葉を発さないまま、男もまた言葉を発さないまま森を進んでいった。
またしばらくしたあとの大木のもとで、男はまた口を開けた。
「ここはどこだと思う」
「えっと…」
「地雷を踏むのが怖いか?これの初の告白の時さ」
「奥さんですか?」
「違うさ」
また、二人は進んだ。
やがて少し開けた場所で男は言った。
「ここはどこだと思う」
「奥さんじゃない人と来たところ」
「違う。最後まで間違えたな」
大政は何かを言い出しそうだったが、互いに無視して進んだ。
また木々の間を抜けていき、虫の声もいつしか静かになった道をひたすら二人は進んだ。足取りはいつしか重くなり、進行スピードは下がっていった。
青森とはいえ夏である。
二人は体中に汗をしたらせていた。
二人の足が止まったとき、開けた山頂だった。
「家に帰ったとき、線香の匂いがする家をどう思う」
「どう言ってほしいですか?」
男は鼻で笑った。
「俺にはなるな」
太陽は地平線に消えていく最中だった。
男たちはじっと見ていた。
「自分は会いたいです」
「誰にだ」
「お義母さんに」
「少なくとも80年後だな。惚れるなよ」
「会いたくないんですか」
「死ねってか?できるならそうしたいもんだよ。ガキに戻りたいもんさ」
男はひたすらに泣いていた。
声を殺して、肩も震わさず、泣いていた。
太陽がようやく沈みきっあたと、大政はその方向をじっと見つめて言った。
「お義父さん。帰りましょう」
「そうだな……」
好きな人はいるうちが幸せ。