48話 別れ
神像が身動いだ。
『・・・さぬ。汝・・・を・・・がよい・・・』
魂をも凍らせる程の昏い情念が呪詛となって祭壇の一帯に響く。女神像を包む無数の黒蛇達の動きは更に活発になる。
その祭壇の周囲には相も変わらず変色した大量の人や獣の死骸が転がっており、悪臭を放つ事も無く腐敗する事も無く放置されるが儘であった。
そんな異様な祭壇の前にはオディスの大主教であるザルサングが佇んでいた。
「我が女神よ。今宵、貴女に贄を捧げましょう。奇形極まるこの魂、必ずや貴女の力となりましょう。」
そう言ってザルサングは祭壇に寝かせられた男を見下ろした。
魔法か薬かは分からないが、其所に横たわるセロ公爵は身動き1つしない。しかし意識だけは覚醒しているのかその表情は激しい恐怖に彩られている。目は忙しなく動き、額から大量の脂汗が流れている。
「た・・・助けてくれ・・・」
アデルの悲痛な声が漏れる。
大主教は
「よしよし。」
と満足げに呟くと神像を見上げて両手を広げ声高に宣った。
「我が女神よ、御照覧在れ。この者は嘗て巨大な権力を先代より受け継いで何も成さず、ただ快楽の儘に周りを踏み潰してきた者に御座います。貴女が愛した弱者たる平民の生活を踏みにじり、若い娘を何十人も弄んでは後腐れ無きように其の命を奪ってきた者。そしてソレを当然の権利と嘯いてきた者。この奇形なる魂を貴女に捧げましょう。」
そこまで言うとザルサングは一端は言の葉を止めてセロ公爵家当主たるアデルを見下ろした。
そして嗤った。
アデルも似たような嗤いを何度も是れまでに浮かべてきた。が、この大主教の笑みはその冷酷さに於いて彼の比では無かった。真に邪悪な嗤いをこの末期に於いてアデルは初めて知った。
そして彼は一度は取り戻した正気を再び失い掛ける程の恐怖に心を蹂躙され狂い掛ける。
「や・・・やめろ・・・」
アデルの声を無視してザルサングは口の端を吊り上げる。
「是れより、汝の身体に吸わせた瘴気が我が女神の下へ還っていく。その際に還っていく瘴気の量は汝が是れまでに買った恨みの量に相当する。量が多ければ多いほど汝の魂が女神様の下に引き込まれる可能性は高くなって行く。・・・さて汝は是れまでの行いの中で民の恨みを買った覚えはあるかな?」
アデルの顔に焦りと恐怖が浮かぶ。
「フフフ、良い良い。恐怖と絶望こそが良き贄となる。・・・さあ、グースールの魔女よ、受け取るがいい。」
大主教はそう言葉を漏らすと、呪詛を唱え始めた。
アデルの全身から黒い瘴気が立ち上る。
「ウガァァァッ!!」
アデルの目が見開かれ苦悶の声が響き渡る。瘴気と共に肉体の裂ける不気味な音も響き、血しぶきが上がる。
それを見てザルサングは目を細めた。
「おうおう、良くも是れほどに瘴気をため込んだモノよ。余程の恨みを買っていなければこうはならんて。」
瘴気はアデルの昏く歪んだ魂も一緒に引きずり出して、女神像に還っていく。
瘴気が抜けきったアデルからはもはや生命の営みは消えており、周囲の死骸と同じ姿になっていた。
ザルサングはそのアデル『だったモノ』を無造作に掴むと、あり得ない筋力を奮って死骸の群れの中に放り捨てた。
女神像を包む黒蛇の量が一段と増した。
「是れほどとはの・・・」
ザルサングは昏い歓喜に目を細める。
暫しの思案の後、ザルサングは口を開いた。
「メラクールよ、居るか?」
「此処に。」
呼び掛けに応じて黒いローブの男が姿を現す。
「公都に赴き、囚われていると言う貴族至上主義者達を可能な限り連れて参れ。」
「は。既に処刑された者も居ると聞きますが其方は如何なさいますか?」
「魂亡き者に用は無い。」
「畏まりました。全ては我等が女神『グースールの魔女』と大主教ザルサング猊下、御身の願われるが儘に。」
メラクールはスッと姿を消した。
「我らが女神の復活を阻む者が人間で在れば、また、復活を助長するのも人間とはの・・・。つくづく業の深い生き物よな。」
ザルサングは嗤う。が、直ぐに口の端に浮かんだ笑みが消えた。
「アシャか。」
「は。」
大主教の問いかけに声が響き、若き邪教徒が姿を現す。
「猊下。聖堂騎士団が到着致しました。」
「そうか。」
「それともう1つ。」
「申してみよ。」
ザルサングが促す。
「猊下の命に依って罪の墓場に赴いていたアルゴールが斃されました。」
「・・・ほう。」
ザルサングが振り返る。
その赤い双眸には珍しく興味を引かれた様な情が浮かんでいた。
「儂が信を置いた主教を斃すとは何者かの?」
アシャは頭を下げる。
「申し訳御座いません。何者かは特定出来て居りませぬ。ただ・・・」
「ふむ。」
「・・・ただ、類い稀な強き光の力を感じました。我らでは近寄れぬ程の。」
「ほう。」
ザルサングは思案した。
目の前で頭を垂れるアシャは特殊な男で在った。人間で在りながらも人が持ちうる許容量を遙かに上回る瘴気と怨念を身体に取り込み、尚且つ光の力にも耐えうる希有な存在であったのだ。
そのアシャでさえ近寄る事が敵わぬ強き光の力とは?
該当するモノは幾つも無い。その中でも最も有力な存在。それは・・・
『神話時代の正の神々の力か・・・?』
その力が既に存在しない筈の現在でも、その『正なる力』の残滓はごく一部の者に受け継がれていると聞く。
正なる高等神が1柱である竜王神の『鱗1枚分の力』をその身に宿す女性、大英雄の血を引き其の力の数滴分を受け継ぐ者、正なる高等神の加護をその身に受け各時代に1人だけ現れる『伝道者』なる者達。
その何れかが牙を向けば、奈落の法術など容易く打ち破られよう。
「アシャよ。」
やがてザルサングはアシャに声を掛ける。
「は。」
「聖堂騎士団を纏めておき待機しておくがよい。」
「は・・・。」
応えながらもアシャは直ぐには動かなかった。
「異存が在りそうじゃの?」
「・・・は、恐れながらお尋ね申し上げます。公都を早急に攻め上らないのは何故の事が在ってで御座いましょうや?」
「・・・フフフ。不肖なる身で我が意を量るか。」
「申し訳御座いません。」
ザルサングの言葉に身を竦めアシャは平身低頭し非礼を詫びる。が、ザルサングは特別に気を悪くした様子も無く教えを乞う弟子に諭した。
「気になるのじゃ。お前も近づけぬ程の光の力とやらにな。ソレを見極めねば、例え公都壊滅が叶おうとも何れは我らに凶事を招く事になろう。・・・故に、今は待機じゃ。」
アシャは再度頭を下げる。
「畏まりました。猊下の仰せの儘に。」
アシャは今度こそ立ち去る。
「クランザは居るか?」
「此処に。」
呼び掛けに応じて別の黒いローブの男が姿を現す。
「事を早める。『聖女』を捧げよ。」
「畏まりました。」
クランザと呼ばれた者は一礼を施して立ち去る。
「さて、我が女神よ。貴女が降臨される日も近づいて参りましたぞ。」
ザルサングの顔に愉悦の表情が浮かぶ。
赤い眼が強烈な光を放った。
「全ては我らが悲願のため。蒙昧なる輩を一掃致しましょう・・・」
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公都の一角。戸建ての貸家が並び立つ区画にルーシー=ベルの借りる家が在った。
狭いながらも綺麗に整頓された室内ではルーシーが寝衣を纏って眠りに就く準備をしていた。
髪から銀の髪飾りを外して専用に用意した小物入れに丁寧にしまう。
「・・・」
先日にシオンと交わした口づけを思い出して自分の唇にそっと触れた。その頬が薄紅色に染まる。信じられない程の幸せの時間だった。
『トントン』
突然のノック音にルーシーはビクッと肩を震わせて扉に視線を向けた。
「誰・・・?」
誰かが尋ねて来るような時間じゃない。
ルーシーは緊張した面持ちで扉に近寄ると
「・・・どなたですか?」
と尋ねる。
暫しの間が空き
「俺だ。」
と低い声が聞こえてきた。
その声にルーシーの表情は明らかに引き攣った。
「・・・」
ルーシーは震える手で扉の鍵を開ける。乱雑に扉が開いた。
そこには粗野な風体の男が2人立っていた。ルーシーの姿を見て男達は一瞬好色そうな眼を向けたが直ぐに表情を厳めしいモノに変えると言った。
「お呼びが掛かった。」
「明日帰るぞ。」
「!」
ルーシーは動揺を男達に見られないように顔を伏せながら声を振り絞った。
「・・・まだ時間は在った筈ですが。」
ルーシーの問いに男は面倒臭そうに答える。
「知るかよ。そう言われたんだ。」
「こっちも良い迷惑だ。お前の我儘に付き合わされてこんな公都下んだりまで来させられたりよ。」
2人はルーシーの見張り役だった。
とは言っても夜にルーシーの在宅を確認する程度のモノで、その他は遊び回っていたのだが立場上、厳めしい顔つきでルーシーに不平を漏らして見せる。
「・・・」
ルーシーは足下が崩壊する様な絶望感に包まれ倒れそうになるのを必死に堪えた。
「聴いてんのか!」
彼女が返答しない事に苛立った男が声を荒げる。
「・・・。・・・分かりました。明日の朝、迎えに来て下さい。」
「チッ、いいご身分だぜ。」
男達はブツブツ言いながら乱暴に扉を閉めた。
暫くその場に立ち尽くしていたルーシーは、やがてその場に座り込むとそのまま嗚咽を漏らし始めた。
「・・・ウ・・・ウ・・・」
シオンの言葉が思い出される。
川沿いの出店で言ってくれた言葉。
『これからも時々、こうして君と会いたい。良いだろうか?』
先日の帰り道で誘ってくれた言葉。
『その祭りに今度行かないか?』『俺達の出会いを祝福しないか?』
そして口づけを交わす前に伝えてくれた言葉。
『ルーシー、君が好きだ。』
もうどの言葉も届かない。叶えられない。シオンの好意に何1つ応えられない。
「ごめんなさい、シオン。」
ルーシーは声を上げて泣いた。
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
その夜、ルーシーはたくさんの手紙を書いた。セシリーに、カンナに、マリーに、フレイアに、アイシャに、ミシェイルに、そしてシオンに。
本当は卒業までに「偽りの気持ち」を少しずつ告げていくつもりだった。
『早く故郷に帰りたい』と。少しもその様な事は思っていないのに。
急に自分が居なくなれば心配するだろう。みんな優しい人ばかりだ。
だから心配は要らないと書き記し、別れを言葉で告げない事への非礼を詫び、友人として付き合ってくれた事への感謝の意を書き込んだ。
そして夜も明けぬ中、ルーシーはマリーの家のポストにマリー宛の手紙を入れ、残りの手紙をギルドに預けた。
そして空が白ずんで来た頃、ルーシーは待っていた男達に合流すると、そのまま霧の佇む町並みを公都大正門目指して歩き始めた。




