101話 最奥のアートス
「最奥のアートス・・・」
シオンは眼前に立つ大主教を呆然と眺めた。
まさかヘンリーク大主教が最も警戒していた最奥のアートスだったとは。
しかし直ぐに我に返る。
余りの展開に理解が未だ追いついていない部分は在るが、混乱の元凶が目の前に居るのならばやる事は1つだ。
しかしその前に確認して置きたい。
「1つ訊いておきたい事がある。」
「何で在ろうな?」
「セルディナの公城でお前は『イェルハルド法皇猊下に紹介したい』と言ったニュアンスの内容を俺に言っていたな。アレはどういう意図だったんだ? お前の話しが本当なら人形に俺を紹介すると言うことになるが、そんな訳は在るまい。」
ヘンリークは「そんな事か」とつまらなそうに答えた。
「別にアレに他意は無い。連れ帰り捕らえて竜王神の力を私の物に出来るかどうかを試してみたかっただけだ。しかし、あの時スライム討伐に向かった時のお前の神性を見て『此れは喰えない』と判断したので諦めた。」
「ではイェルハルド法皇猊下は・・・数年前に崩御されたと言っていたけど、法皇猊下の命も貴男が奪ったの!?」
ルーシーが厳しい表情で尋ねる。
「いや違うよ、巫女殿。イェルハルド法皇は普通に寿命が尽きただけだ。あれ程に信心が深い者の命は流石に手が出せなかった。ただ、直ぐに寿命が尽きるのは判っていたから出来るだけあの者の考えを聞いておいて後の人形制作に役立てようと思ってはいた。」
そう言うとヘンリークはシオンに視線を戻す。
「因みに私がお前や皇子の前でリカルド相手に主張した内容は全てイェルハルドが私に語った内容だ。」
そう言ってヘンリークは冷酷な笑みを浮かべる。
「何だと・・・。」
シオンの中で怒りの炎が燃え上がった。
「貴様は法皇猊下が・・・いや1人の人間が真剣に願った人々への慈悲の想いを、そんな下卑た計画の為に利用したのか!」
ヘンリークは声を上げて嗤った。
「ハハハ・・・慈悲も何も無い。私は最奥のアートスが復活するためならば如何なる物も利用するさ。」
「ならば本体である貴様を消し去れば事は解決する訳だ。」
そう言うなりシオンは神剣残月を引き抜いて薙ぐように振るった。残月から神性を纏った刃が飛び出しヘンリークへと突き進む。
しかし斬撃は突如2人の間に振り下ろされた壁に阻まれた。壁の正体はアートスの右腕だった。
その右腕の向こうからヘンリークの笑い声が聞こえる。
「フフフ・・・確かに私を消し飛ばせれば最奥のアートスはこのままの状態で、お前達に斃されるのを待つばかりとなろうな。しかし『本体』と呼ぶのは少し違う。」
アートスの右腕が退くとその向こうには更に強大な神性と瘴気の衣を纏ったヘンリークが立っていた。
「違うだと?」
シオンが言うとヘンリークは頷いた。
「敢くまでも本体は肉体と感情の両方を併せ持つこのアートスだ。私は単なる知性と経験の集合体に過ぎない。」
「しかし先程からお前は何度も愉快そうに嗤っているではないか。其れは感情の表れでは無いのか?」
カンナが指摘するとヘンリークは否と答えた。
「違うよ、小さき伝導者。アートスの心ならば必ず嗤うであろうな、と言う考えを基に嗤う動作をしているに過ぎない。」
「そうか・・・。」
カンナは頷いた。
「つまり今までの話を勘案するに、お前の指示が無ければこのデカブツは真面に動かないと言う訳か。」
そう言われてヘンリークは上体を起こしたアートスを見上げた。
「確かに動かないだろうな。この肉体は今、その身に秘めた膨大な力と神性をどの様に扱えば良いかをまるで理解していないのだから。」
クリオリングが大剣を引き抜く。
「ならば精神体である貴様を・・・。」
「何度も言うが私は精神体では無い。お前達の言う精神体とは感情を司る心の事を言っているのだろう? 私はそう呼ばれる様なモノでは無い。あくまでも知性と経験の集合体だ。」
どうにも理解が及ばない。
知性と経験だけの存在とは何なのか。肉体でも精神体でも無いなら何だと言うのか?
「そもそも感情まで引き抜いて仕舞えば、この肉体は只の肉の塊と化して動くことすらしなくなる。だから所謂『心』はこの中に残してあるのだよ。」
一同の混乱もそのままにヘンリークは話し続ける。
「其の証拠に其処な竜王の巫女が何度も私の心を覗こうとして失敗していただろう? ・・・どうだ、巫女よ。一度でも私の心が覗けたかな? 恐らくはポッカリと暗い空洞の様に見えていた筈だが・・・?」
「そうなの?」
尋ねるセシリーにルーシーが頷いて見せる。
「当然だ。心そのものが無いのだから。無いモノが見える筈も無い。」
――そういう事だったのか。
ヘンリークの話す自身の正体については理解し難いが、漸くルーシーは1つの答えを得て得心した。ヘンリークの心が見えなかったのは巫女の力が防がれていたからでは無く、元から存在していなかったせいなのだと解れば空洞のように見えていたあの現象との辻褄が合う。
「私もお前に訊いておきたい事がある。」
ルネが口を開いた。
「お前は我が師クリソスト師と会っている筈だ。」
「クリソスト・・・?」
師の名前にピンと来ないヘンリークに対してルネは苛立ちを感じながら言葉を重ねる。
「遙か以前に老エルフがお前の下を訪ねた筈だ。」
「ああ・・・在ったな。そんな事が。其れがどうした?」
思い出した素振りのヘンリークにルネは言い募った。
「クリソスト師は仰られていた。『奈落の王を崇める邪教徒達を使って定期的に世界に混乱を起こさせ、天央12神の名の下に集った戦士達に討たれる役目を負わせた。代わりに邪教徒達は『天央12神に拠る粛正』を免れ、煩い地上の正義からゼニティウスの手に因って護られて来た』と。」
「そうだ。」
ヘンリークは頷く。
「世界の混乱・・・つまりは魔物などを使った進軍の事だが、其れの御旗にアートスの肉体の破片を用いて生み出した『魔王』的存在を使っていたのだ。そして其れを打倒するために集結した戦士達が、天央12神の加護を受けてアートスの産み落とす魔王を斃した。それを繰り返し引き起こして来たのさ。代わりに邪教徒達の活動は目こぼしされてきた。」
「そんな・・・」
セシリーが呆然と呟く。
世界に遺されている数々の魔王討伐伝。その殆どが邪神と邪教徒達の謀の上に引き起こされた出来事だったなんて。
「お前達の歴史の中に幾つかの武勇伝が在るのでは無いか? それらはほぼ全てアートスとゼニティウスの間で交わされた密約の下に起こされた予定調和の出来事だったのだよ。」
「酷い・・・一体何の為に!?」
堪らずセシリーは叫んだ。
ヘンリークは嗤う。
「ゼニティウスは楽に信仰が欲しかった。アートスは力を取り戻す為に永くイシュタルに居を構えるオディス教徒に魂を捧げて貰う必要が在った。」
そしてヘンリークは満身創痍のディグバロッサを見る。
「このディグバロッサ達の事だな。」
自分も知らなかった事実が次々と明らかにされてディグバロッサも言葉を失って聞き入っていた。だが直ぐに視線も厳しくヘンリークを見返した。
「では最奥のアートスは最初から我々を利用していたのか!? あんな徘徊するしか能の無かったケモノがか!?」
其処でヘンリークは気が付いた様に言った。
「そうか、お前は『私が抜けた』後のアートスしか見ていないのだったな。ならばそう言う言葉も出てくるか。しかし、お前は此れまで受け取ってきただろう? オディスの大主教からの指示を。其れに基づいて動いてきた筈だ。」
「!?」
ディグバロッサは驚愕の表情を見せた。
「どういう事だ?」
物怖じしないカンナが2人の会話に割って入った。
「オディスの大主教は其処のディグバロッサでは無いのか? 今のお前の言い方では、まるでディグバロッサがオディスの大主教では無い様に聞こえたが?」
ヘンリークが視線をカンナに戻す。
「ホホホ・・・。ディグバロッサはオディスの大主教だよ。だがな、最奥のアートスを神体と崇めるオディスには総指揮を執るべき大主教が存在しないのだ。」
「ではディグバロッサは・・・?」
「此奴は不在の大主教の代わりに指揮を執っていたんだよ。この地域のオディス教は大主教が居ない。しかし指示は届く。だから代々その時その時の大主教格が代行を務めて活動して来ていたのさ。此のディグバロッサの様にな。」
ディグバロッサは唸りながらヘンリークを睨め付けていたが表情を一変させた。
「・・・まさか・・・お前が・・・!?」
「そうだ。私がこの地のオディスの大主教だ。」
「そんな・・・まさか・・・」
ディグバロッサは蹌踉めいた。
先代大主教よりも前の遙か古の時代から存在すると言われていた、恐らくはオディス教最古の大主教。先代達はその大主教こそが最高指導者であると信じていた。
だがディグバロッサは姿を見せない謎の大主教など本当は歯牙にも掛けていなかった。巨大な力を行使出来る自分こそが、何処に居るのかも判らない大主教などに取って代わってオディス教の最高指導者に相応しいと信じていた。
「お前の先代の頃まではアートスの中から私が直接指示を出していた。お前が大主教の地位に就いた辺りの頃には天央正教のヘンリーク大主教の状態で大神殿の中からお前に指示を飛ばしていた。」
「・・・馬鹿な・・・」
『居ないも同然』と断じていた存在がまさかイシュタル大神殿に居たなど、ディグバロッサには信じ難い事実だった。
「さあ・・・」
ヘンリークから更に耐えがたい程の瘴気が吹き出す。
「・・・汝が跪くべき相手が此処に居るのだ。ディグバロッサよ。」
「・・・。・・・ははっ。」
躊躇われた時間はほんの僅か。
しかしその後は、まるで洗脳されたかの如くディグバロッサは素直にヘンリークに向けて片膝を着き頭を垂れた。パブロスも慌ててディグバロッサに倣う。
「ヘンリーク大主教よ。」
カンナがそのやり取りを白けた目線で追いながら声を掛けた。
「なんだ、伝導者よ。」
「お前は先程言ったな。『アートスは力を取り戻す必要が在った』と。何が在った?」
本当に物怖じしないカンナにヘンリークは面白そうな表情を見せる。
「・・・アートスは星々を去る神々の追跡を避ける為に『最奥の奥義』を遣う必要が在った。その奥義は如何なる者の追跡も躱し隠れうる能力。しかしその奥義は諸刃の剣でな。多少の身躱しならば造作も無いが、高等神や一級神達程の存在からの追跡を躱すためには本気で身を隠さねばならない。」
「つまり?」
「となればアートス自体の存在を一度消し去る必要が在ったのだ。当然、其の行為は大きく力を削ぎ落としてしまう。しかし其れをせねばアートスも神々と共に星の海を去らねばならぬ。アートスは其れを否とした。」
「だから実行したのか?」
ヘンリークは頷く。
「そうだ。そして神々の追跡を逃れて再びこの地に再生した時は本当に小蟲のような存在だった。だから力を蓄える必要が在った。」
「なるほど・・・。」
カンナは頷くと笑った。
「随分色々と教えてくれるじゃないか。」
「言っただろう。私は知性と経験の存在。訊かれた事に対してアートス復活に弊害が無ければ、私は『知性』として答えるのさ。其れが私の存在意義だからな。」
ヘンリークの答えにカンナは「ホウ・・・」と呟いた。
「そうか。つまり今のお前に邪心は無いと言うことか。」
「当然だ。心はこの身体の中に在るが故に。」
カンナの両眼に僅かな期待の光が灯る。
「ならば今すぐこの巨体を連れて帰れと言ったら・・・?」
「出来る訳なかろうよ。」
「そうか、残念だ。」
カンナは小さく嘆息した。
やはり事はそう簡単には運ばないか。
「さあ、他に訊いておきたい事は無いかね? 真摯に答えてやれるのも今の内だけだぞ?」
ヘンリークの催促に誰も口を開かない。
「と言っても、もう時間切れか・・・」
「!!」
全員がハッとなった。
ヘンリークの身体から揺らいだ何かが抜け出し次第にアートスに引き寄せられている。
「止めろ!」
カンナが叫んだ瞬間、まるで水が排水口に吸い込まれるように、その何かは一瞬でアートスに吸収されていった。
物言わぬヘンリークの肉体がバタリと倒れた。
アートスの巨体が動き出し、再び立ち上がった。
開かれた両眼が禍々しい真紅の光に彩られる。
『ウォオオオオオオッ!!』
邪神は空に向かって吠えた。同時にその全身から周囲を凍えさせる程の強烈な神性が吹き出された。
そして荒れ狂う神性の嵐が収まった時、全員が戦慄する程の神性を纏った最奥のアートスが立っていた。
アートスから声が漏れる。
『さあ、始めよう』
「くるぞ!」
シオンが叫ぶと同時にアートスが腕を振った。
「!!」
狙われたミシェイルとクリオリングが咄嗟に跳んで躱す。
『セイクリッドオウガ!』
ルーシーの詠唱と供に撃ち放たれた聖なる光弾がアートスに突き刺さる。が、光弾はアートス内部に入り込む事無く肉体の表面で霧消した。
「馬鹿な・・・!?」
カンナが驚愕する。
アートスの神性は竜王の巫女の神性よりも上位に位置するのか!?
「ジ・エンド!」
アイシャが放った黄金の矢がアートスの眉間に突き刺さる。・・・事は無く虚しく弾かれて地に落ちた。
セシリーとルネの精霊魔法がアートスを襲うがアートスが腕を払うと簡単に消え去った。
想像通りだ。だが其れで良い。ルーシーの神聖魔法が効かなかった時点で無効化されるだろう事をセシリーもルネも解っていた。
時間が作れれば良いのだ。
「シオン!」
セシリーが叫ぶ。
『クリムゾン=ブレイク!』
本日3発目のドラゴンマジックがシオンから放たれた。
全員の視線がアートスに集中する。
邪神から紅いオーラが滲み出てくる。破壊のオーラが放たれればアートスとて絶対に無傷では済まない筈だ。やがてアートスから滲み出た破壊のオーラがアートスを包み込んだ。
――決まった・・・!
誰もが思ったとき破壊のオーラが消えた。音も無く、まるで幻で在ったかのように。
「・・・なんてこった・・・。」
カンナは呆然と呟いた。
何がどうあれシオンのクリムゾン=ブレイクがこちら側の最強の一手だ。其の一手を掻き消してしまうとは、最奥のアートスの神性は其れほどに強力なのか。
「カンナさん・・・」
ルーシーの指示を求める様な呼び声にカンナは言った。
「逃げるぞ。この帝都に居る全員に伝えるんだ。『此処から逃げろ』と。対策は・・・現状では立てられん。」
「・・・!」
全員に緊張が走る。悠久の賢者をして手が打てないと言われれば、緊張と同時に絶望に近い感情も滲み出てくる。
しかし今は。
「セシリー、君はディオニス大将軍の下に行ってカンナの言葉を伝えてくれ!」
シオンが叫びながら神剣残月を手に神性の翼を広げて飛び上がる。
「でも・・・。」
戸惑うセシリーをカンナが促す。
「お前が一番上手く伝えられるだろう。行ってくれ。そしてそのまま大将軍達と脱出するんだ。」
「・・・解りました。」
セシリーは城内に向かって走り出した。伝えるべき事を伝えたら直ぐに戻るつもりで。
多分シオン達は皆が逃げ出すまであの場でアートスの足止めを試みるつもりだろう。なら自分も当然彼等のところに戻る。
セシリーは以前に城内を案内して貰った時の記憶を頼りにディオニス大将軍の下を目指す。
戦いは絶望的だった。
シオン達は持てる限りの力をアートスにぶつけるが、邪神はまるで気に留めるでも無く無雑作に反撃を仕掛けてくる。
反撃と言っても直接攻撃を仕掛けてくるのでは無く、神性を波動のように繰り返し発するだけだった。しかし其れがシオン達には強い衝撃となって襲ってくる。その度に全員が吹き飛ばされて深刻なダメージが積み重なっていく。
「くそ・・・遊んでいるのか!?」
ミシェイルが蹌踉めきながら悔しげに叫ぶ。
全身に傷を負いながらも未だ翼をはためかせてアートスの眼前に浮かぶシオンを邪神の両眼が捕らえる。
『竜王の御子か・・・』
アートスは興醒めしたかの如く呟いた。
『もう少し歯応えがあると思っていたが・・・大した事は無かったか。』
フッと何かが動いたと感じた瞬間、シオンは嘗て無い程の衝撃を受けて地面に叩きおとされた。全身が軋み耐えがたい痛みが襲う。
霞む視界をアートスに向けて自分が邪神の腕に拠って殴り付けられた事を知る。
――・・・此れほどとは・・・!
シオンは真なる神の信じられない強さに愕然となっていた。
このままでは全員が殺される。そう考えて戦慄した時。
空に2つの光点が現れ、何かが急降下して来た。
そして巨大な何かが大音響と供に大地に降り立った。




