96話 紅
ディグバロッサが引き起こした瘴気の爆発は帝城を揺るがせる程の威力だったが、その衝撃も瘴気の残滓が晴れていくと同時に収まっていく。
やがて晴れた視界がディグバロッサに見せたのは、竜王の巫女と伝導者の2人が瘴気に塗れて黒ずみ倒れ伏す姿だった。頑丈に造られている筈の訓練場でさえ所々が破損する程の威力だったが、2人が原型を留めたままなのは多少気になるが。
まあ良い。先ずは1つ目の目的を果たそう。
ディグバロッサはルーシーの神性魔法を拡散させているであろう魔道機を見遣ると拳を上げ無雑作に振り下ろした。
『ドゴンッ!』
と破壊音が鳴り、拡散機は呆気なく粉砕される。
同時に帝都を包んでいたルーシーの3つの魔法が消え去った。
ディグバロッサは満足げに頷くと、倒れているルーシーとカンナに再び視線を戻した。
「・・・終わりか?」
未だ動かない2人に意外と呆気なく勝利が訪れたのかとディグバロッサが半信半疑で呟いた時、2人の身体が光り輝き殻の様に張り付いていた瘴気の膜を消し去った。
「・・・う・・・!」
ルーシーが呻いた。
――・・・シオン・・・。
愛する少年の名を心の中で呼びながらルーシーは立ち上がる。
「ル・・・ルーシー・・・。」
弱々しい声でカンナがルーシーの名を呼ぶ。
出来れば自分がルーシーの代わりに大主教に立ち向かうべきだ。
しかし神性を回復させている途中だったカンナには、大主教クラスが放つ瘴気に拠る爆発魔法を咄嗟に相殺させる事は出来ず思いの外大きなダメージを受けてしまっていた。何とか全身に纏わり付いていた瘴気は神性を燃焼させて燃やし尽くしたが、今のカンナには其処までが精一杯だった。
そしてディグバロッサが此処に来た目的については察しが着いている。竜王の巫女と伝導者たる自分の抹殺だ。
自分は未だ良い。伝導者としての役割が果たされるまでは何度でも甦る。
しかし今のルーシーは・・・。
確かに邪教異変の時のルーシーには御子を産み出す役割が有った事も在り、どんな危険からも竜王神の加護が働き護られる存在だった。だが御子を産み出した現在ではどれ程の加護が彼女に働くのか検討が付かない。もちろん大抵の危機からは護られると思えるが、オディス教の大主教クラス相手では果たして何処まで加護が通じるか判断出来なかった。
いずれにせよ偶然か故意かは解らないがシオンが居ないタイミングで邪教の大主教と戦うのは最悪のシナリオと言えた。
ディグバロッサは立ち上がるルーシーを見て口角を上げる。
「そうだろう、そうで無くてはな。竜王の巫女がこの程度で斃れる筈も無い。」
奈落の法術が何処まで効くのかを確認するため、ディグバロッサは瞬間的に放てる法術の中で最も威力の高い術を試しに放ってみたが・・・伝導者にはかなり効いた様だが、やはり竜王の巫女には然程の効果は見込めなかった様だ。
彼女が纏っている神性の防御力はかなり高いレベルに在ると言って良い。法術で討ち取るには相当に練られた術を放つ必要があるだろう。だが、かと言ってこの娘が時間を掛けて練り上げる術を易々と放たせてくれるとも思えない。
ならば・・・。
ディグバロッサは両の拳を握り込んだ。
魔法が効きづらいのならば純粋な力で打ち砕くまでだ。
邪教の大主教の真っ赤な双眸が、ルーシーと意識は有りながらも立ち上がれないカンナの2人を見比べる。やがてその双眸はルーシーで止まった。
どちらが厄介かと言えば圧倒的にルーシーが厄介だった。高等神で在り竜王達の神でも在った竜王神の鱗1枚分の力を引き継ぐ少女。その純然たる神性の強さは大主教たる自分の力すら及ばない。
音も無くディグバロッサは動いた。
残像を残すほどの目にも止まらぬ速度で蹌踉めくルーシーの眼前に立つ。
「!?」
突然距離を縮められて驚きの表情を浮かべるルーシーに、ディグバロッサは残忍な笑みを浮かべて見せると拳を少女の腹にめり込ませた。
「グッ・・・!」
呻き宙に浮いた巫女の身体は床に落下して転がる。
信じ難い激痛にルーシーは身を震わせて声も上げられずに身体をくの字に曲げて痛みに喘いだ。
「ルーシー・・・!」
カンナが弱々しく巫女の名を呼びルーシーの下に這い寄ろうとする。
「・・・。」
そんな2人には目もくれずにディグバロッサは黒光りする自分の拳を不思議そうに見た。
「妙だな。」
先程受け止めたセイクリッドオウガの影響でひび割れてしまった手とは言え、その気になれば鍛え上げられた騎士の腹ですら易々と貫く拳が薄絹のローブしか纏わぬ少女の腹1つ突き破れないとは・・・。如何に大きなダメージを受けたとは言え、それ程に貧弱な拳では無い筈だが。
・・・神性が護ったのか・・・?
いや、其れしか在るまい。返す返すも厄介な力だ。
「だが・・・。」
ディグバロッサは何とか身を起こした竜王の巫女を見下ろして再び拳を握り込んだ。
其れならば死ぬまで殴り続ければ良い。
殺気が高まる。
拳が振り上がる。
『静かなる水の底に棲まいし片翼の主よ。失われし翼を我に与え給う・・・』
ルーシーが信じ難い速度で詠唱した。
ディグバロッサの拳が振り下ろされる。
『・・・セイクリッドソード!』
同時にルーシーが右手を突き出した。
刹那の速度で聖なる剣がルーシーの右手から飛び出しディグバロッサの胸板に突き刺さった。・・・否、突き立った様に見えた瞬間、セイクリッドソードはまるでガラスが砕けるかの様に砕け散り消えてしまう。
しかし、ルーシーの思わぬ反撃にディグバロッサが揺らいだのは確かだった。
「うお・・・っ!」
ソードの衝撃に押されて大主教は2,3歩後退る。
ディグバロッサは自分の胸元を確認した。ローブが裂け、黒光りする肉体に傷が付いている。
――・・・侮れん・・・!
邪教の大主教の双眸に深刻な殺気が宿った。
正直に言えばルーシーの見た目に警戒心が削がれ多少侮っていた部分が在ったのは事実だ。例えどれ程の強大な力を持とうとも、其れを使い熟す練度と闘志が無ければ戦う相手としては取るに足らないと。そしてルーシーの可憐とも言える容姿からは、練度はともかく少なくとも闘志は感じられなかった。
しかし彼女が今し方見せた生への粘りと対応力は油断するべきものでは無かった。
ディグバロッサが考えを改めている間にも、ルーシーは治癒魔法を使って腹の疼きを癒やし続けながら立ち上がった。
先程は拡散機に使ったセイクリッドディフェンスの効果が自分にも掛かっていた事と、己が持つ神性を咄嗟に守りに集中させたお陰で何とか大主教の必殺とも言える一撃に耐える事が出来た。
しかし何度も耐えられはしない。
魔法で直撃は防げてもルーシー自身の身体が保たない。
攻撃しか無い。
ルーシーは若干回復した身体に鞭打って更に詠唱を重ねた。
『星皇の影に控えし光りの礫達よ、導きの船を渡りて我が呼び掛けに応じよ。我が名は竜王の巫女なり・・・』
ルーシーの周囲に光の礫が幾つも浮かび上がる。
其れを見てディグバロッサが動き出した瞬間にルーシーは叫んだ。
『・・・セイクリッドアロウズ!』
光弾が幾つも邪教の大主教に突き刺さり爆発音を上げた。
――直撃した・・・!
ルーシーがそう思った刹那、巻き上がる粉塵を突き破ってディグバロッサが飛び出して来る。
「!」
あ、と思う間も無くディグバロッサの右手が伸びてルーシーの細い首を鷲掴みにした。
大主教の口に冷酷な笑みが浮かぶ。
首が軋む程に締め上げられそのまま身体を持ち上げられてルーシーの意識が遠のき始めた。
「う・・・あ・・・」
呻き声を上げながら少女は愛する少年を思い浮かべる。
――・・・シオン・・・助けて・・・
ルーシーが祈った時。
訓練場の一角が爆散した。吹き飛んだ壁の向こうから白光の塊が突入してくる。
「!?」
突然の事態に碌な反応も出来ないディグバロッサの顔面に光が突き刺さり、邪教の大主教は派手に吹き飛んだ。
ディグバロッサの手から解放されて落下するルーシーを確りと受け止める。
「・・・」
咳き込みながら自分を受け止めた少年の顔を見てルーシーは抱きついた。
「シ・・・オン・・・」
弱々しく愛する少年の名を呼ぶ巫女にシオンは微笑んだ。
「大丈夫かい、ルーシー?」
「うん。」
ルーシーは小刻みに震えながら頷く。
シオンは床に這うカンナに視線を向ける。
「カンナ、大丈夫か?」
少年の問いにノームの娘は傷だらけの顔で二カリと笑って見せる。
「大丈夫だ。」
だが、その声は少年の想像以上に弱々しいものだった。
シオンは白亜の翼を開いて2人を包み込むと彼女達の傷を癒やす。そして少年は抱えていた少女を静かに床に下ろした。
「少し待っていて。」
そう言ってルーシーに優しく微笑むと、少年は蹴り飛ばしたディグバロッサの方向に歩き出す。
シオンを包む神性が紅色に変化していく。
「カンナさん。」
駆け寄るルーシーにカンナは尋ねた。
「シオンのあの神性・・・何だ、あの色は?」
ルーシーもシオンの後ろ姿を見る。
「解りません。でもシオン・・・凄く怒ってる・・・。」
実際、シオンは嘗て無い程の怒りを滾らせていた。
大切な2人を傷付けた張本人であるディグバロッサに。そして2人が傷付いてしまう様な状況を安易に生み出してしまった自分自身に。
――俺は、また掛け替えの無いものを失うところだった・・・!!
自分の間抜け具合が許せない。
そして・・・目の前のコイツだ。
シオンから溢れ出た闘志と殺気が神性を覆い尽くす程に高まり、其れは煮え滾る灼熱の眼光となってディグバロッサを貫いた。
コイツが何者かなどどうでも良い。恐らくはオディスの大主教なのだろうが、そんな事は今はどうでも良い。
姑息にも自分が居ない時を狙ってルーシーとカンナを傷付けたコイツは断じて許さない。
「・・・」
ディグバロッサは無表情で近づいて来るシオンを見つめる。
しかし表情とは裏腹に大主教は激しく同様していた。
先程の一撃は恐らく御子の蹴りが顔面に入ったのだろうが、その衝撃がまだ激しくディグバロッサの中で渦巻いている。漆黒の身体を手に入れてからは痛みを殆ど感じない身体になっていたが、今の一撃は忘れていた痛覚を久しぶりに思い出させてくれた。
確かに以前から竜王の御子との直接戦闘は避けるべきだと戒めはしていたが、まさか今の自分が此れほどのダメージを受ける程に強大な力の持ち主だとは・・・流石に想像外だった。
脱出せねばなるまい。
しかし竜王の巫女の神聖魔法が強力に発生しているこの空間では、如何な自分でも少し時間が掛かる。時間を稼がねばならない。
ディグバロッサは両の拳に瘴気を集中させると、先程ルーシーに披露して見せた高速移動でシオンの眼を欺き御子の頬に拳を叩き込んだ。
『ゴンッ!』
と鈍い音が響く程の強烈な一撃を受けてシオンの身体が揺らぎ、ディグバロッサが嗤う。・・・が。その拳を少年が握った。
「!」
ディグバロッサは咄嗟に振りほどこうとしたが少年の手は外せず、そもそもピクリとも動かす事が出来なかった。
「この拳か・・・?」
シオンが低く唸る。
「・・・翼で2人の傷を癒やした時にルーシーの腹に手酷いダメージが残っていると感じた。アレは殴られた跡だ・・・。」
ディグバロッサの拳を握るシオンの手に信じ難い程の力が込められていく。
「クッ・・・!」
何とか振りほどこうと藻掻くディグバロッサを眺めながらシオンは吠えた。
「この手がルーシーを殴ったのか!!」
瞬間『バキンッ!』と金属が弾ける様な音が鳴りディグバロッサの拳が粉砕された。
「ウオォォッ!?」
握り潰されて拳を失った腕を信じられない思いで見ながら仰け反るディグバロッサに向かってシオンの右手が風を切って動いた。
『ズドンッ!!』
凡そ素手で殴り付けたとは思えない程の轟音が鳴り、シオンの拳がディグバロッサの顔面にめり込んだ。
「・・・!・・・!」
声も上げられずに邪教の大主教は再び宙を舞って壁に叩きつけられる。
「・・・凄い・・・」
ルーシーが思わず呟く。
声には出さないがカンナも同様にシオンの余りの強さに驚嘆していた。
強い。いや強い処かアレは異常と言って良い。
もちろん竜王の御子となったシオンであれば邪教の大主教が相手であっても勝利は堅いとは思う。しかしあれ程に差が出るものなのか?
ディグバロッサの攻撃を受けてみた感じで言えば同じ大主教クラスだったザルサングと強さは変わらない様に思える。いや、それ以上かも知れない。確かにシオンはザルサング相手にも圧勝していたが、あの時は脅威の魔法ドラゴンマジックを使っての勝利だった。もしあの時にシオンとザルサングが殴り合っていても、今の様に圧倒的な差が出たのだろうか。
何よりあの紅い神性は何なのかが解らない。
カンナはシオンに向かって翠眼を光らせた。
無理だ・・・!
ディグバロッサは喘ぎながら起き上がりそう判断する。アレは人知を超えた化物だ。大主教クラスが纏う奈落の加護が有っても到底歯が立つ相手では無い。
其れに・・・頃合いだ。
シオンに殴りかかる前に密かに練り上げて置いた瘴気が漸く形を成し始め、ディグバロッサの背後に漆黒の渦を形勢する。発生した漆黒の渦は邪教の大主教を吸い込むように呑み込んでいく。
「!」
ディグバロッサの思惑に気が付いたシオンが猛烈な勢いでディグバロッサに肉薄するが一歩遅く、大主教の姿は完全に渦に呑み込まれていった。そして漆黒の渦も空間に溶け込む様に消えて無くなる。
「・・・」
シオンは大主教を捕らえ損ねて空を掴んだ手を悔しげに握り締めた。
あと一歩気が付くのが早ければ、少なくとも邪教徒との戦いは終息させる事が出来たはず。その機会を逃した事を無念に思う。
しかし、とシオンは軽く息を吐いた。ルーシーとカンナの危地を救えたことで今回は良しとしよう。
シオンは神性を収めると振り返って笑顔を見せた。
「2人とも、大事なくて良かった。」
その言葉にルーシーが微笑む。
「うん、シオン。助けてくれてありがとう。もうダメかと思った。」
「駄目なものか。必ず俺が助ける。」
「うん。」
2人が微笑み合うとカンナが口を開いた。
「あ、あー・・・無粋な真似をして申し訳無いが・・・」
彼女にしては珍しく申し訳なさげに言葉を挟む。
「別に無粋じゃ無いさ。カンナも無事で良かった。」
「ああ、うん。それは本当に助かったよ。流石に手の打ちようが無かったからな。」
そうか、とシオンは少し表情を厳しくする。
「カンナにもそう思わせたって事か・・・。アイツがオディスの大主教なんだろう?」
「ああ、そうだ。そうなんだが・・・ソレよりもだ。」
カンナの言い方にシオンは首を傾げる。
「それよりも、って事があるかよ。敵の首魁じゃないか。」
「それはそうなんだが、ソレよりもだ!」
カンナは煩わしそうに繰り返す。
「それよりもシオンよ。お前、さっきのあの神性は自分でやったのか?」
「神性・・・?」
シオンは眉間に皺を寄せた。
このノームの娘の意図が掴めない。しかし、見ればルーシーもまた興味津々といった様子でシオンを見ている。
仕方無くシオンはカンナに向き直った。
「神性がどうしたんだ?」
「お前、さっき紅い神性のオーラを纏っていたよな。」
「・・・」
シオンは視線を上に向けて先程の戦闘を思い出す。
「・・・そう言えば紅かったな。」
その答えにカンナは呆れた声を出した。
「何だよ。じゃあ無意識にアレをやっていたのか?」
「・・・少なくとも俺は何かをやったつもりは無い。」
「何だよ・・・ホントかよ・・・。」
カンナは信じられないと言った表情でブツブツと繰り返す。
「一体、何なんだよ。」
流石に焦れてシオンが尋ねるとカンナは答えた。
「お前のさっきの神性な。・・・アレはドラゴンマジックだよ。」




