78話 皇帝の煩慮
皇帝を乗せた馬車がイシュタル帝都を駆け抜けてイシュタル城に戻ったのは夕刻も越えた頃だった。
自室に戻ったヴィルヘルム5世は眉間を摘まみフゥと息を吐く。
どうも不満が残る結果だった。邪教徒の言葉に乗って騎士団を連れて行ってはみたが大神殿で起きた混乱は騎士団の力だけでは大した活躍は望めないモノだった。
まさかあの様な化物が出て来るとは、此れは邪教徒に嵌められたか?
ヴィルヘルムはテーブルに置かれたグラスを口に運ぶ。最高級の葡萄を醸造した紫色の液体の濃厚な味わいが身体の疲れを癒やしていく。
いずれにせよ所詮は邪教徒の言うこと故に、実は其れほどの期待はして居なかった。だから確かに騎士団を用いて自分の名を高める目論みを外しはしたが、その事態も言ってしまえば想定内で在った。
其れよりも、あの忌々しいイェルハルド法皇が死んだ事が歓迎すべき出来事と言えた。元々、ヴィルヘルムの希望としては正に今現実に起きた事態が最高のモノだったのだ。騎士団を使って名声を高める目論みもイェルハルド法皇を出し抜かんが為に乗った話であって、その法皇自体が居なくなったのならこれ以上の事は無いのだ。
勿論死体を確認した訳ではないからイェルハルド法皇の死が確定した訳ではないが、あの化物の拳が直撃して生きているとは考え難いし、況してや避けたとは思えない。
帝都を中心として立て続けに起きている混乱だが、皇帝にとって最大の邪魔者が排除出来たのは幸いとも言える。
後はもう1人。
「影よ。」
ヴィルヘルムが低く呟くと天井から気配が現れる。
『此処に。』
「・・・リンデルはどうしている?」
『大人しく自室にて読書をされています。』
「解った。」
皇帝が話を打ち切るように片手を振ると天井の気配はスッと消えた。
次にヴィルヘルムは侍従を呼ぶと訪ねた。
「ヴェルノはどうしている?」
「皇太子殿下は外遊先との交渉を終えられていらっしゃいますので、予定ではそろそろイシュタルに向けて帰国の準備に入っている頃かと存じます。」
侍従の答えに皇帝は頷く。
「では帝都に戻るにはどのくらい掛かる?」
「はい。皇太子殿下がご乗船なされる船で荒れやすい内海を横断する危険な経路は採れないので、各国の港を経由しながら戻る経路を採択致して居ります。そのため凡そ2週間前後の旅程を見込んで居ります。変更されますか?」
「いや、其れで良い。退がれ。」
侍従が一礼して皇帝の私室を後にするとヴィルヘルムは思案する。
ヴェルノ皇太子が戻ってくる迄にリンデル第3皇子を始末しておく必要がある。
王族には珍しい事だが、イアンも含めてあの3人は存外に仲が睦まじかった。邪教徒にイアンを始末させた時にもどうやって知ったかは解らないが、外遊先で「帰国する」とヴェルノが騒ぎ出し「帰国は無理だ」と外交大臣と押し問答が続いて大変な騒ぎになったと聞く。
此処でリンデルを処刑するとなれば先ず間違い無くヴェルノは反対するだろう。下手をしたら自分との仲も拗れて廃太子という恥を世界に晒す事にも成り兼ねない。
面倒な事になる前に騒ぎの元凶には消えて貰わねばならん。
とは言え、2週間在れば其れなりの罪を捏ち上げて処刑まで持って行けるだろう。最悪は最初にディオニス大将軍を誤魔化す為に用いた「乱心者」の汚名を着せても致し方あるまい。ただこの理由はリンデルの此れまでの行いを知る者から見ればかなり不自然に感じるで在ろう事もあり、出来れば使いたくはないが。
コンコン。
思案中のヴィルヘルムの耳に扉をノックする音が届いた。
「何だ。」
ヴィルヘルムが問うと扉が開き近衛兵が一礼する。
「申し上げます。只今、イシュタル大神殿のリカルド大主教が陛下にお礼を申し上げたいと、面会の要望が入っているのですが如何致しましょう。」
リカルドか・・・。ヴィルヘルムは彼の大主教の太った法衣姿を思い出す。
奴ならこの度の件の裏事情も知っているかも知れんな。
「良かろう、応接の間に連れて参れ。余も向かう。」
ヴィルヘルムが応接の間に足を運ぶと、既に先に案内されていたリカルド大主教が立ち上がって一礼した。
ヴィルヘルムは座るように手で促すと自分も対面のソファーに腰を下ろす。
「久しいな、リカルド大主教。何時ぞや夜食を供にした時以来か。」
皇帝がそう言うとリカルドは恐縮した様に頭を下げながら応じた。
「はい、皇帝陛下にはご無沙汰致しておりまして誠に申し訳無く・・・。」
「良い。逆に頻繁に来られても困る。」
「は、はい。」
相変わらずの小物振りだ。野心大きく頭の回転も悪く無いが、この性根がこの男に損をさせている。
ヴィルヘルムは内心でそう評価しながら冷笑を浮かべる。
「して、用とは?」
「は、この度我ら天央正教の危機を救って頂きました事を大主教達を代表して御礼申し上げさせて頂きます。」
「うむ。イシュタル大神殿は帝国内に在りながらも我が統治を受け付けぬ存在。然れど我が領土に在る事に変わりないならば、其処に訪れた危難を祓うのは余の務めよ。偶々騎士団を連れていった事が幸いしたな。」
「は、何とも有り難いお言葉に御座います。きっとイェルハルド法皇猊下もお喜びになられている事でしょう。」
「うむ。」
白々しいやり取りを終えるとヴィルヘルムは後ろに控える近衛兵達を振り返った。
「大主教とゆっくり話がしたい。お前達は退がれ。」
「は。」
近衛兵達が室外に退がるとヴィルヘルムは一旦間を置き、少しだけ身を乗り出して見せた。
「そのイェルハルド殿についてだがな。幾つか確認したい事がある。」
「は、何なりと。」
リカルドもヴィルヘルムの言外の意図を察知して声を顰める。
「お主との間で今更取り繕っても意味は無い故に直接訊くがな。あの騒ぎ、アレは最初から仕組まれたモノだな?」
「其れは・・・。」
「首謀者はお主か。」
「そ・・・其れは・・・。」
視線を彷徨わせるリカルドにヴィルヘルムは笑って見せる。
「別に責めているのでは無い。余は大きな野心と其れに見合う行動が取れる者を無闇に罰する気は無い。其れは以前の会食の際に知って貰えたと思っていたのだがな。」
「は、はい。」
「余はな、確認がしたいだけだ。お主の返答に拠って、余にも考えたい懸案が幾つか在ってな、其れの参考にしたいと考えている。その為に近衛兵も退がらせた。」
「な、なるほど。」
近衛兵を退かせた意味を知ってリカルドは少し安堵した表情になる。
「で、どうなのだ? アレは大主教が仕組んだモノだったのか?」
改めてヴィルヘルムが尋ねるとリカルドは頷いた。
「はい、本来は『とある筋の者達』より別の提案がされていたのですが上手く行かず、兼ねてから準備していた当初の計画を動かしたのです。」
「其れがあの魔動人形をして法皇を弑する事だったのか。」
「はい、有り体に申し上げれば。」
「ふむ。」
ヴィルヘルムはソファーに身を沈めた。
「とある筋の者達、と言っていたが其れは何者なのだ?」
「其れは・・・陛下に申し上げるのは憚られます。」
リカルドの答えにヴィルヘルムの視線が鋭くなる。
「余が此処まで心を開いて見せているに、その答えは無かろう。」
皇帝の強い口調にリカルドは身を震わせた。
「も、申し訳御座いません。し、しかし・・・。」
「申せ。」
余りの緊張と恐怖に目眩を感じながらリカルドは汗を拭い、観念した。
「も、申し上げます。その者達とは・・・じゃ、邪教徒に御座います。」
――やはりか。
ヴィルヘルムは唸った。
薄汚い野良犬共が我が領土内で暴れてくれる。野良犬は腐肉を奪い合うが似合いだと言うに何処までも偉大なるこのイシュタル帝都に入りたがるか。
・・・まあ良い。連中には何れ鉄槌を下すとして先ずは目の前の事を片付けるか。
「それにしても良くあの様な化物を用意出来たものよ。」
まさか造り上げた訳ではあるまい。なれば何らかの伝手を使って入手したのだろうか。もしあの様な物を取り扱う伝手を持っているのならば大したモノよ。
ヴィルヘルムは内心で感心するがリカルドは首を横に振った。
「いえ、実は私が用意した物では御座いません。」
「ほう? ではどうやってアレを入手したのだ?」
興味が湧いたヴィルヘルムは尋ねる。
「パブロス大主教と申す同僚が教えてくれました。天拝廊の下に妙な物が在るらしい、と。」
「うむ。」
「元々あの天拝廊は本殿が建立された時と同時期に造られた物らしいのですが、数年前に建立当初の事実が綴られた古書が発見されまして。その古書に拠ると建立時に偉大なる神の末裔が現れ、大神殿建立の祝いにあの神像を下賜されたのだとか。」
リカルドの話にヴィルヘルムは訝しげな表情を見せた。
「妙ではないか。神の末裔が寄越した神像ならば何故に其の様な建物の下に置いたのだ? 堂々と祀れば良かろう。まるで人目に付かぬように隠したように見えるぞ。」
「・・・。」
リカルドは一瞬躊躇うような表情を見せたが直ぐに話を続けた。
「実は・・・其の古書を記した者は当時の法王に不興を買った者らしく、その者の怨嗟を感じて神の末裔は現れた、と古書には綴られておりました。恐らくその神の末裔は皆が集まっている所に現れたのでは無く、その者の前にだけ現れてあの神像を与えたのでは無いかと考えています。何故、都合良くあの様な広大な空間が天拝廊の下に存在していたのかは解りませんが。」
リカルドの疑問についてはヴィルヘルムも一定の仮説は出せる。
「・・・元来、このイシュタルは神話時代から世界の中心と呼ばれた地で、造られた遺跡の数は算えきれぬ程にある。『偶々在った』と言う好都合もこの地に限ればあり得る。」
「そうでしたか。」
リカルドも半分は腑に落ちなさそうな表情ながら頷いて見せる。
「話を戻すか。では其のパブロス大主教と申す者が古書とやらを見つけてきたのか?」
「左様に御座います。」
リカルドはその時の事をヴィルヘルムに話した。
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『リカルド殿。』
呼ばれて振り返れば、リカルドが子飼いにしている大主教が立っていた。
『パブロス殿。どうかされたかな。』
リカルドは問うが、パブロスは其れに答えず古びた書物を差し出した。
その態度に若干気を悪くしながらもリカルドはパブロスの差しだした物に興味を惹かれて書物を手にする。
『これは?』
『先程、書物庫の整理を命じていた処、1人の司祭が其れを私の下に持って来たのです。先ずは目を通して頂きたい。』
リカルドはパブロスに勧められるがままに古書に目を通していく。
古書の著者はドルオーン大主教という者で大神殿建立時辺りに居た聖職者の様だった。ドルオーン大主教は天央12神を軽んじる発言を洗礼者達の集う前で口にしてしまい、当時の法皇猊下から酷く叱責されて不興を買ったようだった。
彼はその後の冷遇を嘆き恨んだようだったが、リカルドは冷笑する。
彼には彼の言い分が在ったようだが、それにしても大主教が信者達の前で信仰心を削ぐような発言は厳に慎むべきだったろう。自業自得というものだ。
最初の数頁を捲ってリカルドはパブロスに尋ねた。
『これが? 古い時代の大主教の恨み言などに時間を割く余裕は無いのだがな。』
『その先についてはゆっくりと私室にて読んで頂きたい。私は正直信じられないのだが、後々にでもリカルド大主教のご意見を伺いたい。』
『・・・そう仰るならば、読んでみよう。』
普段と違うパブロスの様子にリカルドは毒気を抜かれて応じる。
『因みに先に申しておきますが、そのドルオーンと言う名前が本物かどうかを調べる為に、聖人録を確認したところ確かにこの名前が末端に記載されていました。恐らくこの古書は本物である可能性が高い。』
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
「パブロス大主教とやらとはその後其れについて話してみたのか?」
「はい。そして確認してみようという事になり、法皇猊下の許可を頂いて天拝廊を調査してみたのですが・・・神像どころか地下に続く道さえ見つかりませんでした。」
「ほう?」
「ですが、ある晩の私の夢に神像が出て参りまして。」
「・・・。」
何を言い出すのだ、とでも言いたげなヴィルヘルムの表情には気付かずリカルドは話し続ける。
「私の私室のタペストリーの後ろが隠し通路になっており、その先が神像の座する地下に続いている夢を見たのです。」
「で?」
「・・・実際、夢で見た通りでした。いつから其の様な細工がされていたのかは解りませんが、私の部屋から地下の空洞に続く道があり、その先にゴーレムが鎮座しておりました。しかもお誂え向きに研究に必要と思われる大小様々な魔石も周囲に大量に転がっておりました。」
「随分と都合の良いことだな。」
「はい、私もそう思いますが、その後も私に『この様に計画を進めろ』と言わんばかりに何度も夢を見まして。これはもう神が私に法皇になれと仰られているも同義と・・・」
まるで何者かに取り憑かれているかの様な表情で夢中になって話すリカルドに、流石のヴィルヘルムも薄ら寒さを感じるが「なるほど」とも思った。この小心者が此れほどの大胆な計画を迷いもせず強気に推し進められたのは其の夢のお陰といった処だったのだろう。
合点のいったヴィルヘルムは話を進める。
「それで聖人録というのは何だ?」
話を遮られてリカルドは一瞬落胆する様な表情を見せたが皇帝の問いに答える。
「歴代の法皇猊下と大主教の名前を記した名鑑の様な物です。各年代毎に法皇と大主教の名前が位順に記されます。」
「大主教に位が在るのか。」
「はい、下から三位、二位、一位という様に3段階に別れております。ドルオーン大主教は二位でしたがその年代の末席に・・・3位の大主教達の後に名前が記されておりました。」
「其れは屈辱であったろうな。」
「そんな生温い感情では無かったでしょう。きっと激しい憎悪に囚われていたと思います。気の毒な事です。」
言葉とは裏腹にリカルドは楽しげにそう言った。
ヴィルヘルムは整理する。
リカルドは今日に向けてゴーレムを動かす事を決めていた。
邪教徒がヴィルヘルムに予言した『混乱』は恐らく此のゴーレムの事だったのだろう。だが、あの様な化物は騎士団の力だけではどうにもならない。大型の兵器などを用いる必要があるし、其れは邪教徒も理解していた筈だ。
では何故に邪教徒はヴィルヘルムに『騎士団を連れてこい』と告げたのか?
「先程お主は邪教徒から別の提案をされていた、と言っていたな。其れはどんな内容だったのだ?」
リカルドは一瞬言い淀むように口を閉じかけたがヴィルヘルムの強い視線を受けて言葉を続けた。
「正央の剣に呪いを施して法皇を呪殺する事でした。」
「呪殺とな・・・。」
ヴィルヘルムは人の恨み辛みが事を起こすに当たり強力な原動力となる事を熟知している。彼自身は魔術の類いは無知に等しいが、もし呪いとやらがそういった強い感情を顕現化させる物であるならば良い方法であったのかも知れない。
「・・・。」
嫌な予感が初老の皇帝の胸をザワつかせた。何かタチの悪い罠に嵌められたような不安が渦巻き始める。
ひょっとしたら自分があの場に居たこと自体が悪手だったのでは無いか?
『騎士団が災いを祓う云々』は実はどうでも良く、皇帝があの場に居たと言う事実を強調する為に騎士団を連れて来させたのではないか?
では誰に向けて強調する必要があったのか?
今朝、馬車を走らせ大神殿に向かう皇帝の一団を目にしていたのは誰か?
そう民衆だ。大勢の民衆だ。この国で最も数の多い身分の者達だ。
何故かヴィルヘルムの脳裏に見てもいないカーネリア王の斬首された姿が浮かんだ。
「・・・。」
思わずヴィルヘルムは腰を浮かせ掛けた。
その時、外の近衛兵が緊迫した声を上げた。
「陛下! 申し上げます! 民衆が城に押し寄せて参りました!」
ヴィルヘルムは立ち上がった。




