66話 混迷
イシュタル大神殿――
建立の時期は明らかにされていないが、一説には神話時代から存在していないのではないかと云われる程に旧く、また権威に満ち溢れた荘厳な神殿である。
選出された歴代の法皇達は天央12神の地上に於ける代弁者として、神官や修行僧、参拝に訪れた信者達に『祭礼の儀』の場を借りて導きの訓示を授けて来た。また日常的にも法皇を支える神官達に拠って人々の心は救済されて来た。
何百年にも渡って其の様に続けられてきた天央正教としての行いは世界中の人々の心に慈愛と言う形で深く浸透し世界最大の宗教団体に押し上げて来たのだ。
そしてそんな彼等を支え続けた総本山がイシュタル大神殿だった。
その歴史ある大神殿が今、嘗て無い程の混乱に巻き込まれていた。
殺気立った民達はまるで魔物にでも取り憑かれたかの如く狂気の雄叫びを上げて視界に入る大通路の全ての装飾品を破壊していく。
「げ・・・猊下、民達が・・・!」
テンプルナイツの報告にリカルドは怒気を交えて吠えた。
「馬鹿者、何を躊躇うか! 連中はもはや信徒でも何でもない、闇に呑まれた悪魔の僕だぞ! 全て斬り捨てよ!」
「・・・は。いや、しかし・・・。」
天央正教の大主教が放った言葉とは思えないほどの苛烈な指示にテンプルナイツは戸惑いを見せる。其れを見てリカルドは「しまった」と顔を顰めた。其れを見て後ろに控えていたパブロスはリカルドに代わって穏やかに語り聞かせる様にテンプルナイツに言葉を掛ける。
「良いか。彼等は確かに帝国の民で天央正教の信徒達だ。しかし彼等の魂は既に闇に囚われてあの様に荒れ狂っている。あの魂を救うには最早『解放』しかないのだ。解るな?」
「・・・。」
テンプルナイツは顔を見合わせる。
躊躇いが無い訳ではない。だが大主教の命令である以上、拒む事は出来ない。
「さあ、解ったのならお前達の手で彼等の魂を解放してやるのだ。」
「は。」
テンプルナイツは覚悟を決めた表情で一礼し、リカルドの部屋を退室した。
其れを見届けるとリカルドは窓の向こうに視線を投げて苦り切った声を漏らした。
「あの雲のせいなのか? 邪教徒共の仕業か知らんが忌々しい!」
「其れよりもリカルド大主教。」
パブロスが言う。
「こうなると『人形』の件も危うくなる。祭礼の儀は明日だが、計画自体は直ぐにでも実行出来る様に準備を急ぐべきではないかな?」
「そ、其れもそうだな。」
まさかとは思うがあの今暴れ回っている狂人供が人形の所まで来ないとも限らない。
リカルドはパブロスの提案に頷くと私室を出た。
大通路。
美しい大理石が敷き詰められ白を基調とした装飾が施された大神殿の主要通路では、何十人ものテンプルナイト達の手に依って凄惨な殺戮劇が繰り広げられていた。
大神殿に乗り込んできた民達の勢いは凄まじいものだった。其れこそ魔物に取り憑かれたかの様に暴れ狂っていたのだ。だがしかし所詮は戦闘に関して素人の民達である。日々、神殿の警護と肉体の鍛錬に専念しているテンプルナイツの敵ではなかった。
テンプルナイト達が剣を振るう度、純白の壁に真っ赤な鮮血が吹き掛かる。悲鳴が上がり強烈な血の臭いが充満する大通路に無辜の民達の骸が大量に転がる。
民達との実力の差は圧倒的だったのだ。
だが、民を斬る行為は確実にテンプルナイト達の精神を蝕んでいった。
「う・・・あぁぁぁぁ・・・!!!」
若いテンプルナイトが絶叫を上げた。
そして血走った眼を隣りに立っていた味方で在る筈の同僚に向けると斬り倒したのだ。
「何をする! 狂ったか!」
若いテンプルナイトにやや年齢の経ったテンプルナイトが厳しい口調で問い詰めると、若いテンプルナイトはそのナイトにも凶刃を振り下ろした。
「乱心したぞ!」
周囲のテンプルナイト達が動揺する隙を突いて、次から次へと大神殿に乗り込んでくる怒り狂った民達が騎士達に逆襲し始める。
こうして事態は混迷を極めていく。
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「レシス様。下界にて異常事態が。」
大斧を背中に担いだドワーフの重戦士ラスゴルテがレシスに告げると美しき主神は頷いた。
「はい、強い邪悪が地上を覆っています。祓わなくてははなりませんが・・・。」
レシスの表情は暗い。
連環の法術を使ったばかりの今の彼女にアレだけの大量且つ濃密な瘴気を払う力は無い。天の回廊最下層に佇む巨大水晶も今は神性を貯め込んでいる最中で稼働させる事が出来ない。
「では・・・。」
長剣を腰に佩いたエルフの魔法戦士レズネアが口を開く。
「・・・地上に降りたクリオリング様に先に降りたルネと協力して貰って事態の解決に向けて動いて頂く様に要請致しましょう。」
「そうですね。頼みます。」
「畏まりました。」
レズネアが一礼して主神の間を出て行く。
天の回廊には光の精霊達が其の小さな姿を見せ始めていた。
レシスの人格を慕ったのか神性を気に入ったのかは不明だが、とにかく日に日にその数は増えていっており、今では数千を超える精霊達がレシスの姿を真似たのか女性の様な姿でフワフワと舞いながら回廊の手入れをしてくれている。
そんな精霊達が数体、レズネアの後を追いかけていった。何をするのか興味本位で付いていったのだろう。そうやって精霊達は自分達の出来そうなことを見つけては勝手に動いていく。
レシスは其れを優しげに微笑みながら見送るとラスゴルテに視線を送った。
「最下層の水晶はどのくらいで動かせる様になるのでしょうか?」
問われてドワーフの戦士は眉間に皺を寄せた。
「難しい処ですが、少なくとも今回の事態には間に合わないかと。」
「そうですか・・・。」
レシスは地上の事を想いながら出来る事は無いか思案し始めた。
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「・・・。」
ルネは無言で
愛剣エストナを手にした。何かが来る。しかも強大な力を持つ何かが。
ルネは眠るヤートルードから静かに離れると洞穴の入り口に向かって慎重に歩いて行った。
恐らくもうヤートルードに護衛は必要無い。どんな邪悪も彼の放つ神性を前に近づく事は敵わないだろう。其れほどに巨竜の体内を流れる神性は強大且つ正常に戻りつつ在った。
だが此処に居る限りは彼を護る。ルネはエストナを握り締めた。先方は気配を隠す気は無いのか足音を響かせてドンドン近づいてくる。
ルネは覚悟を決めた。
「其処で止まれ。」
ルネの制止の声に足音が止まる。
「ルネ殿か?」
「!」
この声は・・・。
ルネは声の主に尋ねた。
「・・・クリオリング様ですか?」
「ええ、お久しぶりです。」
肯定と共に姿を見せたのは蒼金の騎士だった。
ルネはホッとした様に表情を緩ませると笑顔を見せた。
「お久しぶりです、クリオリング様。」
しかし、とルネは疑問を口にする。
「でも、何故貴男が此方に・・・?」
「実は・・・。」
当然に来るであろう疑問を受けてクリオリングはルネの問いに答える。そしてそのまま2人は情報を交換し合った。
クリオリングはルネに尋ねた。
「ルネ殿、現在このイシュタル大陸を覆っている不穏な事態をご存知か?」
ルネは首を振った。
「ヤートルード様の側を離れるわけにはいかない事もあって暫くは洞穴の外に出ていません。ですので何が起きているのかは解りませんが、何か良くない力が急に強まったのは感じています。」
クリオリングは頷くとルネを洞穴の入り口に誘った。
「御覧じよ。」
そう言って外を指差すクリオリングに導かれてルネは久しぶりに洞穴の外に顔を出した。
そして息を呑む。
「何・・・? あの空は・・・?」
赤黒い雲に覆われた空を暫くの間見上げていたルネは漸くそう言葉を絞り出した。
そしてこの水と風と大地の精霊達の荒れ狂い様はどうだ。まるでメルライア大森林全体が精霊達の狂乱に呑み込まれているかのようだ。ここ数日、ヤートルードの側に身を置いていた為に彼の放つ強烈な神性に当てられており、精霊達の異常に気が付けなかった。
「元」とは言え女神だった自分が側に居ながらこの事態を把握出来ていなかったのは完全に落ち度であるが悔いても仕方が無い。
精霊達のこの狂乱を放って置けば大森林そのものが壊滅しかねないのだ。
今、出来る事をやるしか無い。
「鎮めなくては。」
ルネが呟きながら洞穴を出ようとした時クリオリングがルネの腕を掴んだ。
「行ってどう為されるお積もりか?」
「・・・解りません。」
ルネは大森林を見つめながら答える。
「其れでも、何かをしなければ。彼等と・・・精霊達と話してみなければ・・・。」
クリオリングは首を振った。
「私には貴女のように自然の理を解する力は在りませんし、況してや言の葉を交わす術も持っていない。だが、此れだけは言える。」
「・・・。」
ルネはクリオリングを見た。
「今の冷静さを欠いた貴女では何をしても上手くは行かない。焦りは全てを凶事に導いていく。」
蒼金の騎士の手厳しい言葉にルネは俯き悔しそうに奥歯を噛んだ。
悔しいが彼の言う通りだ。此れほどに荒れ狂った精霊達を効果的に鎮める方法がまるで思い浮かばない。だが・・・。
「でも、このままでは此のメルライア大森林が死んでしまいます。」
「そうでしょうか?」
ルネの言葉にクリオリングは疑問を投げかける。
「大自然という奴は其れほどに脆いものでしょうか? 私もシオン殿の神性に拠ってこの肉体を手に入れました。その肉体から得た感覚を以てしてもこの雄大な大森林は些かも其の力強さを失っていないと感じます。」
「・・・。」
「無論、貴女の危惧が杞憂だとは思わない。この状態を長く放置すれば貴女の仰る通りになるのでしょう。だが、其れは今すぐの話しでは無い。」
「・・・そうですね。」
クリオリングの言葉にルネは暫し悩む素振りを見せたがやがて強く頷いた。
「申し訳ありません、クリオリング様。お恥ずかしい処をお見せしました。」
「なんの。お気に為さるな。」
クリオリングはフルヘルムを外すと力強く笑って見せた。
「では、レシス様のお言葉を貴女に告げます。」
「はい。」
「竜王の御子様と巫女様。そして伝導者様と協力してこのイシュタル大陸の難を払え、との御下命です。」
「謹んで。」
ルネは胸に手を当てて主神からの命令を受け容れた。
ルネはヤートルードに別れを告げるためにクリオリングを連れて洞穴の奥に向かう。
クリオリングは広大な空間に眠る漆黒の巨竜を見上げて息を呑んだ。
「此れがヤートルード様か・・・。」
「はい。」
ルネは頷いた。
「神話時代に生まれた正統なる竜の眷属にして今や聖竜と為られたヤートルード様です。嘗てこの方の母竜ノーデンシュード様は最奥のアートスと戦われた事もあるとヤートルード様は仰って居られました。」
「最奥のアートス・・・。その名は確かゼニティウスを惑わせた魔神の名前ですな。」
「はい。途轍もなく強大な魔神の名前です。そして幼い頃に私が慕ったノーデンシュード様を斃した憎き魔神です。」
「ほう・・・。」
クリオリングはルネの横顔を興味深そうに見下ろしたが敢えて何も口にはしなかった。
ルネは眠り続けるヤートルードに別れを告げた。
「ヤートルード様。私が仕える主神レシス様より世界の闇を祓うようご指示を賜りました。未だ眠る貴方を置いて行くのは心苦しく思いますがお許し下さい。」
そして漆黒の聖竜に一礼をした時。
ヤートルードの巨大な翼が光り輝き小さな光の塊がルネの眼前にゆっくりと落ちて来た。
「・・・。」
ルネが無言で両手を差し出すと光の塊は彼女の韌やかな両の手に舞い降りて赤黒い鱗の様な物に実体化する。
「其れは・・・?」
クリオリングがルネに尋ねるとエルフの娘は鱗を胸に押し戴きながら答えた。
「此れは『竜の鱗片』です。竜が友人と認めた者に贈る信頼の証です。ヤートルード様の『翼』から生まれたこの鱗片は思う場所に一度だけ誘ってくれます。」
「なんと・・・。」
クリオリングは驚嘆の声を上げる。
「私などの為に・・・。」
ルネは感動に声を震わせたが眠るヤートルードに親愛の視線を向けると微笑んだ。
「有り難う御座います、ヤートルード様。大事に使わせて頂きます。」
そしてルネはクリオリングを見上げる。
「では参りましょう、クリオリング様。」
「心得た。」
ルネの言葉にクリオリングは頷く。
エルフの娘は変わらず眠り続ける黒竜にもう一度別れを告げた。
「行って参ります。ヤートルード様。」
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
セーラムウッド教会。
この教会の主であったロドルフォ司祭はイシュタル騎士団に連れて行かれたのだろう。既にこの小さな教会には誰も居らずもぬけの殻と為っていた。
「面倒が無くて良い。」
カンナはそう呟くと一行を連れて天央の剣が置かれていた小部屋に下りて行った。
当然の事だがロドルフォ司祭が居ない時点で天央の剣も持ち運ばれており、此処には無い。
「剣が無いですね。」
「そうだな。」
セシリーが言うとカンナは頷く。
「だが・・・。」
カンナは其の小さな指を剣の在った場所に向ける。
「剣は無いが剣が刺さっていた台座がある。」
「・・・。」
其れがどうしたのか。
彼女の指摘する意図が解らず一同が黙っているとノームの娘はそのまま答えを口にした。
「呪いを施すのであれば『対象物が長い時間触れていた物』に掛けても一定の効果は得られるんだ。だから台座があの雲の影響を受けていれば呪いが天央の剣を追いかけていく筈なんだよ。」
「怖い・・・。」
アリスがポツリと漏らす。
「そう、呪術の一番怖いところだ。一旦施してしまうと兎に角しつこく追いかけてくる。」
カンナはそう言いながらしゃがみ込み台座を調べ始めた。
そしてかなりの時間が経った後、カンナは立ち上がり溜息を吐いた。
「違うか・・・。この台座が本命だと思ったんだがな。するとあの雲・・・瘴気の塊は何の為に発生したんだ?」
『ルーシー・・・。』
「!」
突然シオンの声が耳に流れ込んで来てルーシーはピクンと反応した。
「シオン?」
ルーシーが慌ててカンナから手渡された石を懐から引っ張り出すと石が虹色に輝いていた。
「・・・。」
事態を理解した全員が黙ってルーシーに注目する。
その中でルーシーは連絡を取ってきたシオンの言葉を待つ。
『ああ。今君達は何処に居るんだ?』
「セーラムウッド教会よ。」
『解った。直ぐに向かうよ。』
「うん、待ってる。」
ルーシーが少し嬉しそうに微笑みながら頷いて石を仕舞うとカンナが伸びをした。
「どうやらシオンも此方に来るようだし一度外に出るか。」
ノームの娘の提案に皆は頷いた。




