16話 過去
眩しい。
少女は眼を開いた。
「気が付きましたか?」
横から聞き慣れない声がする。
少女はスミレ色の髪を少し揺らして声の掛けられた方向に顔をゆっくりと向けた。
其処には見知らぬ老人が微笑んで座っている。
「誰・・・ですか・・・?」
掠れる声もそのままに少女は尋ねる。
「私はニコル=ラス。此処はカーネリアの教会で私はこの礼拝所の司祭です。貴女は2日前にこの礼拝所の前に倒れていたんですよ。」
少女の問いにニコルと名乗った神父はそう答えた。
ニコルは微笑むと少女の額に手を当てる。
「熱も引きましたね。もう安心でしょう。」
そう言うと、ニコルは尋ねた。
「貴女の名前を訊かせて貰えますか?」
「・・・。」
少女はニコルを見つめた後、力無く答えた。
「・・・アリスです。」
ニコルは頷いた。
「そうですか。アリスさん、回復して本当に良かった。」
「・・・。」
アリスは不思議だった。
何故、自分は生きているんだろう?
お腹を矢で撃ち抜かれ、見た事も無い程の大量の出血に見舞われた。力も入らず、身体はとても寒く、全身の感覚が何も感じられなくなる寸前まで行っていた様な気がする。確実に訪れる死を予感して生を諦めていた。
そして意識を手放す手前のほんの僅かな時間の中で彼女は一番信頼する男に全てを託した筈だった。
『お願い・・・シーラの仇を討って・・・キュビリエと・・・マテューと・・・ジョセフを・・・これで・・・。』
そしてスカートのポケットに入っていた硬貨を全部掴んでミストに差し出した事を覚えている。
『解った。』
と悲しそうな瞳で頷く彼の顔も。
――・・・ああ、やっぱり良い人だったんだ。
最期に知れて良かったと思った。
アリスはニコルを見て尋ねた。
「・・・あの、私は一体どうなったんでしょうか?」
ニコルはアリスの血で汚れ破損した服を見ながら口を開いた。
「貴女はこの教会の扉の前に倒れていました。その横に金貨が括り付けられた石が転がっていたので、貴女を運んできた誰かが置いて行ったのだろうと思います。とにかく、私はお腹に大怪我を負っていた貴女を一目見て、もう貴女が亡くなっているものだとばかり思っていました。」
「・・・。」
「なので、私は貴女を弔うべく礼拝所の中に運び込みました。そして弔いの儀式の準備を済ませようと貴女の服を脱がせた際に、貴女のお腹の傷の辺りが淡い光に包まれている事に気が付いたのです。」
「・・・光?」
アリスは首を傾げて、今は包帯に覆われている腹部の傷に手を当てた。
「そして何の光かと近づいた時に、貴女が少しだけ身動いだ様に見えました。慌てて貴女の息を確認すると僅かな吐息を感じ、そのまま治療に移りました。そしてその時にお腹の傷を調べたら・・・こんなモノが出て来ました。」
そう言ってニコルは親指くらいの大きさの水晶をアリスに見せた。
「それは・・・?」
「今はもう力を使い果たして只の水晶になっていますが、コレは聖石、或いは回復石と呼ばれる非常に貴重な魔道具です。これが貴女のお腹に埋め込まれていた。」
「・・・。」
アリスは力無くその水晶を受け取って眺める。
「私も本で知識を得ただけで現物を見るのは初めてだったのですが、その石には回復魔法が詰め込まれているそうです。そして患部に当ててその力を解放すれば傷を癒やしてくれる魔道具です。私は貴女の出血が治まっていたのは血が流れ尽くしたからだと思っていましたが、そうでは無かった。その石が傷の出血を止めてくれていたからだったんです。」
「・・・。」
アリスは無言で水晶を見つめた。
ニコルが問う。
「誰が貴女を救ってくれたか心当たりは在りますか?」
アリスの双眸から涙が一筋流れる。
ニコルは微笑んだ。
「在るのですね?・・・ならば、その方に感謝を。そして貴女とその方に幸在らん事を。」
『クッキー・・・美味かったぞ。』
ニコルの祈りを聴きながら、アリスはミストがクッキーを美味しかったと誉めてくれた事を思い出していた。
――・・・会いたい。
アリスは無性にミストに会いたいと思った。あのぶっきらぼうな顔が見たくて仕方が無かった。
数日後、ニコルの看病を受けながらアリスはゆっくりと歩き回れるくらい迄に回復していた。
そして今日も歩く訓練をしようと礼拝所の小さな中庭に出たとき、ニコルが一枚の紙を持って来た。
「ニコル様。」
「アリスさん、こんな手紙が貴女宛に届いていました。」
「?」
アリスは手紙を受け取り中身に目を通す。
『傷が治ったらセルディナの魔術院に向かえ。其処にシーラが居る。仔細は魔術院のセシリーに聞け。まったくお前達姉妹に関わったせいで大損させられた。もうお前達と関わり合うのは懲り懲りだ。だがまあ折角拾った命だ。姉妹仲良く暮らすんだな。じゃあな、じゃじゃ馬アリス。』
――シーラが生きている!
信じられない吉報にアリスは蹌踉めく。そしてミストの別れの言葉とも取れる最期の文面。喜びと寂しさが同時に訪れて、アリスはしゃがみ込んだ。
涙が止まらない。
「アリスさん!?大丈夫ですか!?」
ニコルの心配げな声にアリスは微笑みを向けた。
「大丈夫です。ニコル様。私、行く道が決まりました。」
「・・・。」
ニコルはアリスの表情を見つめていたが、やがて微笑み頷いた。
「そうですか。其れは何よりです。では、進むためにも先ずは身体を元に戻しましょう。」
「はい。」
アリスは返事を返す。
傷を癒やしたらシーラに会いに行こう。そしてその後はミストを探すんだ。まだ彼に御礼も何も言っていない。
じゃあな、なんて言わせない。
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
ミストは膝の上に頭を載せて物思いに耽っていた。
今回の損失の大きさを考えると頭が痛くなる。
アリスという子供の手前、格好を付けて『何が損かは俺が決める。』などとほざいて見せはしたモノの、持ち金を減らせば其れは当然に損なのである。
最初にシャテルから騙し取った金が金貨100枚。それは良い。
問題はその後だ。
アリスの依頼を受けて金貨1枚を得たは良いが、端からそんな端金では損になる事は解っていた。アリスの件に於ける収支は金貨に換算してマイナス30枚を超える。想像以上に出費だ。特に自分らしくも無い妙な同情心から回復石を使ったのは痛い。
あれ1つで金貨200枚は下らない筈だった。いつかは何処ぞの怪我に苦しむ貴族辺りにでも高値で売りつけるつもりで作り上げたミストの虎の子だったのだ。
・・・正直に言えば、キュビリエ邸の近くでアリスを見つけた時には『もう助からない。』と思っていた。だから彼女の最期の願いだけを叶えてカーネリアを去るつもりだった。
だが、ふと感じたのだ。言い知れぬ心の寒さを。ついぞ感じる事の無かったその感覚を。
其れは寂寥感。
たかが1週間余り行動を共にしただけのじゃじゃ馬娘。そんな娘に情が移ったと言うのか?小悪党のこの俺が?
だがあの時、まさにアリスの命が目の前で失われていく事態に焦燥感を感じていたのは事実だった。
例えこの回復石を使って血を止めたとしても、既に大量の出血をしてしまった後では助からない可能性の方が遙かに高い。貴重な魔道具を、文字通りに捨てる事になる。
それでもミストは迷うこと無く、アリスの傷口の奥深くに回復石を押し込んだ。
その後シーラを救い、アリスの願い通りに人の皮を被った化物共を4匹屠った。そしてシーラを連れてセルディナ魔術院に向かった。出掛ける前に礼拝所を覗くと、アリスに対して司祭が何かを話し掛けている姿を目にした。
『・・・助かったのか。』
明から様にホッとする自分に気付いてミストは不愉快そうに眉根を寄せると、今度こそシーラを馬車に乗せてセルディナに向かった。
意識の混濁したシーラの世話を焼きながら馬車に揺られる事2日。漸くセルディナ魔術院に着いたミストはセシリーにシーラを預けてある程度の事態の説明をすると、引き留めようとするセシリーを無視して魔術院を後にした。
様子を伺うこと2日。金を渡した魔術院生からシーラが目覚めた事をミストは知るとカーネリアに戻った。そして手紙を礼拝所に置いたのである。
「ふう・・・。」
ミストはつまらなそうに溜息を吐く。
「どうかしましたか?」
ミストに膝枕をしていたノリアが覗き込んでくる。
ミストは高級花売り店特有の濃い化粧の薫りを嗅ぎながら美しい娘の顔を見上げる。
「・・・いや、人生って奴は中々に思い通りには行かないなと思ってな。」
ミストはそう言いながら手を伸ばし、ノリアの頬を撫でる。
ノリアは感じ入る様にミストの手に頬を寄せると尋ねた。
「何か在ったのですか?」
「まあな。」
ミストは答える。
「初めてお前を抱いた日、俺は大金を稼いだ。だが2週間と経たずに、今度は大損をさせられた。金1つ取っても思い通りにはならない。」
「ふふふ。」
ノリアが笑った。
「その言い方では、他に何か思うことが在るのですね?・・・人生そのもの・・・とか?」
「・・・。」
鋭い女だ。
「教えては頂けませんか?」
微笑んではいるが、その物問いたげな双眸には熱意が籠もっている。
「・・・花売り娘は客の素性には触れないと思っていたのだがな。」
「はい・・・。」
ミストが返すとノリアはそう返して寂しそうに目を伏せる。
「・・・。」
何故かミストはこの娘には弱かった。
「つまらん話さ。」
ミストが言うと、ノリアは嬉しそうに微笑んだ。
ミストは呆れた様に溜息をついて話し始める。
「・・・俺はイシュタルの生まれだ。」
「帝国人・・・。」
「そんな上等なモンじゃ無い。何しろ貧民街の生まれだからな。」
「イシュタル帝国にもそんな場所が在ったのですね。」
「何処の国にでもあるさ。」
ミストは素っ気なく言う。
「貧民ってのは本当にその日暮らしだ。仕事が無くて食い物が手に入らないから、毎日の様に誰かが飢え死にして行く。だから貧民街に住む連中は子供を売り飛ばして稼ぎを得たりする。」
「・・・。」
「俺も売られた口さ。12歳の頃だったな。貧民街の子供が売られる先は大体決まっている。貴族や大店の下働きだ。見てくれの良い娘なら花売りの店だな。」
少女の視線がミストから外れる。
「・・・お前に言うのも何だが、花売りの店って奴は世界中の国がその存在を暗に認めている。故に花売りの娘はよほど劣悪な店に売られない限り、人間として扱われる。もし、不当な暴力に遭いでもしたら国の兵士がちゃんと動くんだ。」
「・・・。」
ノリアは表情を消してミストの言葉に頷いた。
「だがな、希に見てくれの良い少年もそういった類いの店に売られる事が在る。」
「え?」
ノリアは少しだけ驚いた様にミストを凝視した。
「だが、少年を利用した花売りの店という奴は何故か殆どの国が認めていない。理由は知らん。どうせ下らない理由だろうから知る気も無い。とにかく、それでも少年を売る店は社会の闇に紛れて存在するんだ。『剣折りの店』と称してな。・・・名前の意味は言わずとも解るだろう?・・・その場合、売られる少年達はどうなると思う?」
「・・・。」
答えない少女の顔は明らかに青ざめていた。
「国は『剣折りの店』の存在を認めていない。従って売られる少年も居ない。だからそういった少年を守る法も存在しない。そして買っていくのは国の中でも高い地位にある貴族や大店の、暇を持て余した好色の女主人か令嬢達が殆どだ。」
ミストは窓の外の銀月を眺める。
「売られた少年は地獄だよ。何しろ性に目覚めたばかりの年齢の少年が殆どで身体が出来上がっていない。それに碌な食事もしてきていないから身体も貧弱だ。充分な食事を摂って成長した女の体力には到底歯が立たない。・・・嬲られ、大概の少年は生き延びられない。少なくともイシュタルでは、剣折りで売られた少年の9割は成人になれない。」
「其れは・・・。」
「買った女達に嬲り殺されるんだよ。そして殺したのが立場在る人間ならば貧民の少年の死など闇から闇に葬られていく。」
ノリアはミストの胸に手を当てた。
「貴男も・・・」
「ああ。今は呪術で顔を変えたが、売られた頃は其れなりの顔だった。」
「そう・・・ですか。・・・すみません、嫌な話しをさせて・・・。」
「構わんさ。」
そう言いながらも、ミストはあの時の恐怖を思い出す。
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
12歳のミストを買ったのはイシュタルの貴族令嬢だった。今思い返せば20歳にも満たない少女だったが、当時のミストから見れば自分よりも身体が大きく体力も遙かに上の女に違いは無い。
其れでも少女は優しげな視線を見せてくれていた。
『貴男、名前は?』
少女はおっとりとミストに尋ねてくる。
『ミストです。』
そう答えると、少女は頷く。
そして控えていた侍女達に
『もう退がっていいわ。』
と声を掛けて退がらせる。
寝室に2人きりになると、少女は寝着を脱ぎ捨ててベッドに横になりミストを招き寄せた。
『貴男が此処に居る理由は解っているでしょう?』
少女の問いにミストは恐る恐る頷く。
『お嬢様の望みに応える為に僕は買われました。』
『その通りよ。其れが解っているなら服を脱いでベッドに入りなさい。』
『はい。』
ミストは言われるがままに服を脱いで少女の隣で横になる。
この様子なら酷い目に遭わされる事は無いのではないか?・・・そんな期待を胸に抱きながら。
其処から先の事はよく覚えていない。ただ命じられるがまま、只管に少女の身体を愛撫し続けた記憶しか無い。
『こんなものか』
とミストは思ったものだ。
そして今度は少女がミストを愛撫し始める。手だけで無く唇や舌も使って。其処でミストは何故自分がああも念入りに身体を洗われたかの理由を察した。なるほど、こんな事をするのなら身体を執拗に洗われる訳だ。
やがて少女の愛撫に拠ってミストの身体が反応したのを確認すると、彼女は裸になってミストに跨がった。
そしてミストは少女を見上げて恐怖した。少女の表情が一変していたのだ。
先程までの優しげな視線は形を顰め、ギラついた視線を少女は自分の身体に向けていた。其れは幼いミストには恐怖の対象以外の何者でも無かった。
「!」
咄嗟に逃げ出そうと身動ぐミストを少女は力尽くで押さえ付け、行為に及ぶ。
快楽と恐怖の狭間で藻掻くミストを嗜虐的な視線で見下ろしながら少女は囁く。
『とても素敵な顔だわ。あのね、貴族の令嬢なんて事をしているととてもストレスが溜まるの。だから私はね、こうやって時々貴男みたいな可愛い子を買って楽しむの。』
行為はどんどん激しくなり、快楽以上の苦痛が伴ってくる。
『痛い・・・やめて・・・下さい・・・』
懇願するミストの声に令嬢は歓喜の声を上げる。
『いいわ。もっと泣きなさい。だから・・・私は!』
ミストの首に少女の手が掛かる。
『こうして何人もの少年を殺してしまったわ。』
首に強烈な負荷が掛かる。
余りの苦しさに全身が痙攣し、ミストは少女の叫び声を耳にしたのを最後に意識を手放す。
次に気が付いた時は、裸で屋敷の裏庭に横たわっていた。恐らくは死んだと勘違いした家人がミストを処理する為の準備に入っているのだろう。
首の痛みと恐怖と息苦しさに身をフラつかせながらミストは必死になって貴族屋敷から逃げ出した。
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
それ以来、暫くの間はミストにとって女性は恐怖と嫌悪の対象だった。
だが年齢も30を間近に控えて、何時までも女性が怖いなどと言っていられない。それにミストも男である以上、本能では女性を求める。
だからミストは男に『人間』と『人の皮を被った獣』が居る様に、女にも『人間』と『人の皮を被った獣』が居ると割り切って、人間の女性を花売りの店に求める様になった。
ミストは起き上がると何故か警戒心を抱かせないこの儚げな花売り娘を抱き寄せた。
「お前を抱く。」
ミストが言うとノリアはコクリと頷いた。
長い夢の時間が終わるとノリアはミストに尋ねた。
「また来てくれますか?」
ミストは首を振った。
「いや、暫くは来ない。」
「・・・そうですか・・・。」
ノリアは寂しげに目を伏せる。
ミストはノリアの顔に掛かった一房の髪を指で払うと言った。
「お前もカーネリアを出ろ。此処は少し騒がしくなる。」
「其れはどう言う・・・?」
首を傾げるノリアにミストは教えた。
「セルディナ公国と・・・多分イシュタル帝国が、此の国の王を処断しに来る。」
ノリアは声も無くミストを見つめていたが、やがて独り言ちた。
「やっと・・・そんな日が来るのですね・・・。」
その双眸からは無情の涙が流れた。