ただ、ささやかな
*
努力はあまり好きじゃない。僕がそう言うと、大抵の人は何か言おうとして口を開き、僕の隣にいる人物を見て、何も言えずに口を閉じる。
彼女は天才だ。疑いようもなく、それは単なる事実としてそうである。世の中に天才と呼ばれる人は数多くいるが、大抵の場合、彼女はその人達を涼しい顔で超えられるだろう。
しかし、勘違いしないでほしいのは。僕が努力を嫌うのは、別に彼女を見て諦めたとかそういうのではない。単純に面倒だからだ。その人が努力せずともこなせる役割だけを果たせば、世界はもっとシンプルになると思っている。
だから、彼女がいつも僕の隣にいる理由も考えようと思わない。そういうものなんだろうと納得している。
彼女の頭脳と釣り合っていないだろうに、なぜか僕と同じ高校に進学した事も。
僕より遥かに優れた才能のある男に言い寄られても、なぜか僕の隣に居続ける事も。
僕の言うことだけは素直に聞く事も。
よくわからないがそういうものなんだろう。考えたところでわからない事は、考えるだけ無駄だ。
僕は別に、彼女に対してコンプレックスは無い。ただ単に、すごいと思う。
僕にできないことができるのは感心する、当たり前のことだと思う。彼女はとても純粋なので、僕が褒めるととても喜ぶ。或いは演技かもしれないけれど、まあ合わせてくれるならいいだろう。
彼女は確かに天才であるが、それで何かを成そうとは思わないらしい。ただ人並みに幸せになりたいと言う横顔は、当たり前に笑っていた。
僕はそうかと言い前を向いた。
世の人は彼女を特別視する。天才とは見世物の一種だろうか。
自分達にできないことを平然とこなして、次のステップも軽々と越える。そんな彼女は俗人にとって、はてどのように写るのか。
才能を活かそうとしないことを、勿体無いと思われるらしい。
才能があるのに何もしないことを、見下されていると感じるらしい。
さて他人がなんと思おうが、彼女はそれを望むのだろう。
別に才能は義務じゃない。彼女がそうしていたいのならば、別に使わなくてもいいだろう。
そう思わないのが民衆で。彼女に何かさせようとする。
圧倒的な天才は、特別な存在でないとおかしい。だって同じ高さから見ると、自分達が惨めに感じてしまうから。
さて彼女がどうして何もしないのか。僕に目をつけてきやがった!
僕は彼女にとっての悪い虫、僕がいるから彼女は怠惰。……と、言うけれど。
当然僕に覚えはないが、奴ら思い込みが激しいようだ。
ただ道端を歩いていたら、突然路地裏から引っ張られた。
彼女に振られた男一号、彼女に振られた男二号。彼女に振られた男三号、彼女に振られた男四号。
高校スポーツ界のスターの筈だが、ちょっと待てこれ私怨だろう!お前ら将来ぶち壊す気か!
あ、揉み消すくらいのコネはある?はははそれなら安心だクソが。
さてどうしようかと嘆いていると、そこへ彼女が現れた。もちろん彼女は天才なので、男共を軽く蹴散らした。
やあ助かったよ何か奢ろう、はて彼女は何やら様子がおかしい。
僕に迷惑をかけて申し訳無い?別に彼女は悪くないだろう。彼奴等が勝手に押しかけてきて、彼女が助けてくれただけだ。
だからありがとうと伝えはしたが、それでも浮かばれない様子。僕らこれから距離を置こうかと、震える声で言ってきた。
別にそうしたいならそうしてもいいが、彼女はどう見ても苦渋の決断。
さて僕はどうして宥めようかと、まあ落ち着けよと言ってみる。
*
自分のことは好きじゃない。私がそう言うと、彼はいつもの調子で「そっか」と言った。
私は天才と言われている。自慢ではなく、それは単なる事実としてそうである。世の中に天才と呼ばれる人は数多くいるが、悲しいことに、私はその人達を苦もなく超えることができるだろう。
だから、私は自分が嫌いだ。なまじ才能を持って生まれたばかりに、人並みに生きる権利を剥奪された。世界は私に多くを求め、それに応える義務を課してくる。
だからこそ、私は彼の傍にいる。それは義務からの逃避であり、自我の防衛。
彼は私に、何も求めない。自分と違うからと拒絶する事もない。ただ、私を自然に受け入れてくれる。それが嬉しくて、彼と一緒にいたいと思った。
周りの人間には都市や海外の有名な学校へ行くことを勧められたが、私は彼と同じ高校を受験した。離れ離れになりたくなかったから。
高校スポーツ界のスターや有名な芸能人に言い寄られた事も何度かあったが、私は全て拒絶した。それらは私の才能や容姿だけを見ていたから。
他人に何を言われようが自分の意思を貫いてきたが、彼に対しては従順に振る舞った。少しでも彼に気に入られたかったから。
自分でも図々しいと思い、軽蔑する。彼にとって私はただの友人程度でしかないのはわかっているが、私にとって彼は全てだ。私をただの友人程度に思ってくれる人間など、彼の他にはいないのだから。
私に思うところは無いのかと聞いたことがある。彼と出会って間もない頃、人間を信用していない時のことだった。今でも彼以外の人間は嫌っているが。
特に何もと彼は言った。私は口先だけで絆されるほど純粋ではなかったので、彼が得意だと言うゲームで完膚なきまでに叩きのめした。
我ながら腐った性根だと感じるが、彼は称賛してくれた。裏表なく、感心した様子で褒められた。
他にも色々なことをやって見せたが、それら全てに純粋な称賛を受けた。たぶん、私は途中から楽しくなっていた。存外私もちょろいものだ。
それからというもの、私はすっかり彼に懐いた。何かこなすたび、嫉妬も打算もなく心から褒めてくれるのが嬉しかった。ほとんど忠犬のようなものだ。
いつだったか、彼に溢した。私はただ、人並みに幸せになりたいのだと。こんな才能などいらないから、普通に笑って、普通に恋をして、幸せに天寿を全うしたいのだと。彼は否定せず、ただ受け入れてくれた。
彼の隣が心地よかった。生憎恋愛の才能は無かったようで、距離を詰められないのが悔しかったが、それでもその距離は悪くなかった。上手くいかないことを経験できて、これが普通のことなんだと思えた。
しかし、私には許されないらしい。
私を利用したい人間や私を妬む人間が、彼を排除しようとした。彼がいるから私が才能を腐らせている、彼が私をダメにすると考えたようだ。
あまりに私の人格を無視した考えだが、実際私に効果的だった。私を更に腐らせる方向においては。
過去に私が拒絶した高校生スポーツの有名選手達が、彼が一人の時を狙って襲撃した。
辛うじて彼を救出できたが、私は憂鬱でしかなかった。私が隣にいる限り、彼は狙われ続けるのだから。
だから、私は彼と距離を置こうとした。それしか思いつかなかった。
*
はてさて、結論から言えば。
僕達は心中した……ことにした。今は名前も顔も変えて、別人として生きている。まあ、顔を変えたと言っても、軽く変装した程度だが。
彼女は天才であるから、僕達が死んだと見せかけることは簡単だった。その方法については触れないが。
今の生活は気が楽だ。彼女にとってのストレス源たる周囲からの重圧がないので、心なしか前より明るくなったように思う。つまるところ、僕達は現実からの逃避に成功したのだった。
努力はあまり好きじゃない。僕達は逃げる事によって、幸せを手に入れたのだから。少なくとも、あの時彼女の決断に従っていたら、お互い不幸になっていたと思う。
そして、まあ。努力なんかせずとも、当たり前の幸せは掴める。多くを求めさえしなければ、ただ普通に生きていけるだけでいいのだ。
さて、今日は二人でどこへ行こうか?