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毛利勅子の生涯(第八話)  作者: 木楽名優芽
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徳山へ里帰り

その頃長州では松陰の教えに、不満を募らせた若者達が賛同し、若いエネルギーを終結させつつあった。だが松陰の指揮する尊攘へ向けての画策は松陰のもくろみがことごとく裏目に出て、獄中に囚われの身となっていた。それは一つに剛直で嘘の付けない性格も災いしていた。それでもなお頑なに信じる道を貫こうとして獄中から門下生に呼び掛けるが、門下生の誰もがそれぞれの事情を抱えて足並みが揃わない。ばらばらの見切り発車では失敗は目に見えている、同じ負け戦でも犬死は御免、そう判断するのは久坂元瑞。それでも断固決行を叫び我が意を貫徹しようと意気込む松陰に従う者は純朴な貧しい母子家庭の兄弟、入江杉蔵、和作の小者以外にはいなかった。あの無鉄砲な高杉晋作でさえ時期尚早と躊躇い逡巡する計画でもあった。最も晋作には祖父の代からの高禄の家筋を重んじ常に無分別を踏み留まらせる父がいて、幼い頃より儒教の教えの孝養の徳を説いた書を見なくても諳んじられるほど学んでいるいる晋作としては、不甲斐ないと嘆きつつその父にはどうしても逆らえない事情もあった。子が父に従うのは当然であるが、人間として生まれたからには例え親に逆らうことになっても自分の信じた道を進むのが正道と、王陽明の説く陽明学を信奉しそれを推し進める松陰。だらだらと生き永らえるより信念を貫いて死ぬことになっても、その死には意味がある。さあ立ち上げれ、門下生達よ、と野山獄から賛同を呼びかけたが、やはり呼び掛けに応じたのはあの二人以外いなかった。情報の限られた獄中の松陰は、門下生は命を惜しんだと誤解し絶望する。

物事の真理を追究するため全国を駆け回ってその筋の賢者からの教えを請い、寝る間も惜しんで書物を読み漁り自分なりの解にようやく辿り着き機は熟した。今こそ世直しに向けて行動に移すべく同士に賛同を呼びかけたのだが、それに応じる者はたった二人、それが情けない。頼みにしていた者は誰も応じず、先導する者がいなければ目的は果たせずこれまで自分のしてきたことは徒労である。無為であったかと失望の極みに至る。孤立した牢では何もかも疑心暗鬼になって考えは澱み、頼みの門下生も信じられなくなっていた。松陰は絶望し生きる希望を失った。こうなるとせめて自身が身命を賭して信念を貫くしかないと悲愴な決意をする。最早自分はこれまで。これ以上生きる意味はない。

死んで我が信念の正当を訴えるしかない。その為には命も惜しまないことを、自ら実践して門下生に示すための断食を始めた。

だが獄中の松陰に外界の声が届かなかっただけで、松陰の教えは確実に門下生に育っていた。

私利私欲を捨て人々のための国づくりを志す松陰の信念は伝わっていた。それを知らせる同士がいて松陰は再び息を吹き返す。松陰の教えは生きていた。それだけで松陰は本望であった。だが皮肉にも希望を取り戻した時、井伊直弼掃部頭(かもんのかみ)により厳しい断罪を宣告される。

安政六年十一月二十一日のことであった。

今度は師の意志を継ぐ門下生達は理不尽な断罪を不服とし維新へと突き進む。しかも松陰の門下生は若者特有の血気に逸る過激派揃い、国を想う気持ちが一途で純粋なだけに無鉄砲で向う見ずで時に無分別、何を仕出かすか解らない。それを鎮撫するのが、元美のように世襲で領主となった者の役目である。俸禄という背に腹は代えられない切実な見返りのもと忠誠を誓った藩に服従は必然、いささかでも怪しい素振りを見せれば何千もの家臣が路頭に迷う。当時長州藩を牛耳っていた保守の俗論派の言うことは絶対的であった。よって元美は命令次第でどこにも出張し文字通り東奔西走の日々を送っていた。何もそう過激に事を荒立てなくても、時が来れば解決するするものは解決するのに何故若い者はそう事を逸る、吉田松陰の吹き込んだ革命思想はあまりに性急だ、ものには順序というものがある。急いては事をし損じるというのが元美の持論だ。

若者の、好機は今しかないという論理、解らないでもないが事を荒だてるのには反対であった。

何かと物議を醸す吉田松陰の存在はむしろ厄介なだけであった。

国の考えも一定しなければこれまた藩の考えも一定しない。亡くなった吉田松陰の提唱する、先ずは進んだ海外からの文明を取り入れ十分に学んで国力を付けた上で、それから対等に渉り合うという考えに一致する考えの長井雅樂もいるにはいたが、それが航海遠略策という一つの構想として多くの人の賛同を得るまでにはもう少し時間を要した。松陰の構想も海外の文明には食指を伸ばしながら攘夷という虫のいい策で、営利目的の諸外国がそれを認めるはずはなく現実的ではない欠点があり丸ごと受け入れるわけにはいかなかった。一つにまとまらない政策に統率力を欠く幕府、藩もまた混沌としていた。

藩の重鎮にも周布政之助のような人望篤く話のわかる人物もいたが、人間的に優れているからといって統治に手腕が発揮できるかというとそうはいかなかった。

しかしその一方で幕府が迷走しているお蔭で、江戸初期から嘆願していた長州歴代藩主の悲願であった政治堂移転の許可が下りた。

萩は交通の不便な僻地だ。謀反を恐れた幕府はだからこそそこへ遠ざけたのだが、綱紀が緩んで賄賂が効きようやく候補地の一つであった山口が認められたのである。

どさくさに紛れて勝ち取った要望であった。

藩主の敬親はこれに乗じてある策を講じた。

古いしきたりに固執する重臣達をそれぞれの領邑に戻し、この際政治堂の刷新を計ったのだ。

藩主でさえこの混沌とした情勢の中での判断を付き兼ねているのに、藩の重鎮それぞれがそれぞれの主張をしては混乱に拍車をかけるばかり、敬親はそこで小賢しい老中達を遠ざけるためにも政治堂の移転は渡りに舟であった。勿論元美も領邑厚狭への移転を余儀なくされた。

そのように実際に政治を取り仕切り日夜どっぷりつかっている男達でさえ国の舵取りは難解なのである。政治に距離を置く女に国政のことなど論じられる訳がない。しかし女にだって愛国心はある。日本を案じもするし叶うことなら関わって役に立ちたいと思う。しかも巷を飛び交う風聞は列強大国の偉大さばかり。それに対する日本はすべてに劣り歴然とある落差に歯噛みするばかりだ。

振り返れば、一八四六年六月五日蝦夷の沖でアメリカの捕鯨船が難破したことがあった。日本はその船の乗組員を抑留したものの、その奪還交渉に三年を費やしてもなお解決には至れない。この成り行きを聞いて苛立ちを覚えた東インド艦隊司令官のデビット・ガイシンガー長官は日本の国力と交渉能力に見切りを付け部下のジェームス・グリンに乗組員の救出を命じた。グリンは並み居る和船の間を和船の無力を見せつけるかのように堂々分け入り僅か十日で救出に成功する。

これにより彼等は日本が強気に弱いことを学習する。それがペリー来航の布石になったのだが、日本はそれすらも気付いていない。しかし海岸警備の重要性だけは悟った。

そこで海岸の要所要所に警備の陣を配備した。持ち場の要請は外様の長州にもあり、その時の村田清風の俊敏な出陣の指揮をかわれ親藩彦根の後を任されることになった。その任は一門八家の持ち回りで初の相模奉行には益田弾正右衛門介が任された。その後に毛利隠岐、浦靭負、毛利主計と続く。

その頃厚狭毛利は秋吉台、瀬戸崎、大津人丸社、大井の浜を受け持っていた。

一八五三年ペリー来航の脅威でようやく危機を悟った幕府は、西洋に対抗する武器の製造や操縦に目覚め洋式砲術令を布く。いち早くそこに目を付けたのが一八五七年敬親・元徳父子に同行し江戸在勤の経験もある伊佐・根越の一藩士である志道源三が砲術の火術書・兵書の専門書を書き写して独学でその使い方を教える塾を開設した。だが破壊力強大な西洋のものに匹敵する性能にはとうてい技術力が伴わない。長州も銃製造に力を入れ始める。だが日本の美学は労せず手に入るものを良しとはしない。だから飛び道具は卑怯とするその意識改革から始めねばならなかった。

それでも源三の塾は先陣を切っただけに一躍脚光を浴び、松下村塾の始祖である吉田松陰の叔父・玉木文之進が見分に訪れ、松陰選集から抜粋した文言、塾に学んで善士となり次いで一国の善士と交わり更に天下の善士を友とすべきだ、を引用して友善塾と命名するほど期待された。そして一藩士の熱心な銃陣調練に触発されたか萩藩は一八六〇年新しく明倫館に歩兵学校を創った。遅れて新設されても藩の中央だけに知識の粋は集中する、源三はそこに自ら入学して学び、そこで得た知識を友善塾の生徒に伝授した。更に子供等の士気を高めるために生徒を引率し見学させた。

ペリー来航以来、通商条約を楯に西欧列強は日本の海を頻繁に堂々通航して日本から金を吸い上げていく。通商条約が不平等だったことはたちまち庶民にも喧伝されて、それを指をくわえて見ていることしか出来ない日本国民としては忌々しいことこの上ない。一泡吹かせてやりたい気持ちは源三のみならず日本国民なら皆思うことで、それには先ず富国強兵の構想を実現させることが必須で、日本の各所で友善塾のような兵の養成所が開設された。砲術の扱い方、大砲で捌き切れなかった敵に対し槍で対抗する訓練、それらすべて戦闘訓練を目的とする学校であった。源三は文盲では理解力に劣るのでそこへ通う生徒達に素読も学ばせた。文武両道の嚆矢こうしである。この生徒達が後に草莽(そうもう)の士の基となる。

そしてその評判は藩主の耳にも届き、その年藩主の見学に先立ち本藩の重鎮・周布政之助が訪れ、後に藩主も見分したのだった。若殿も見学に訪れ入れ替わり立ち代り藩の重鎮の見分により友善塾はやがて藩で一目置かれる存在となった。それには源三のひた向きな努力が欠かせない。実戦で役立つ最新の戦術を自ら書物を書き写して読み回ししたり、萩への出仕要請のない時は、出仕した同僚から最新の情報を得る。

日記には時には兵学以外のニュースも混じる。よほど衝撃的な大事件だったのであろう。

一八六〇年三月三日、あの井伊直弼襲撃事件を源三はまるで見ていたかのように伝え聞いたことを書き記している。

掃部頭様 登城の途上、松平市正の屋敷の門前で、浪人二十人が駕籠の前の警護に切り掛かり、さらに制止する駕籠左右脇の警護を切り付け即死。それを大男が払い除け駕籠へ抜き身を突っ込み、ついに駕籠の戸を開け掃部頭を引き摺り出した。その頭を土足で押さえて首を切り落し高声にて、

”本望をとげた”と時の声を上げる。抜き身の一人の後を三人が抜き身で貫通した首を肩にかけ

”掃部頭様を打ち取りそうろう”と日比谷の方へと向かった。日比谷方向には細川家がある。

日比谷では辻番が声を掛けたが大雪で声は届かない。桜田門は長州が借りて住んでいる松平家とは目と鼻の先だが何せ武家屋敷は広い、井伊家は長州の隣でも騒動に気付くのに時間が掛かるのだ。

やっと井伊家から数人が出て浪人を追いかけ、振り向いた一人と切り合いになって殺すのがやっとであった。浪人のうち四人は細川家に駆け込み二人は脇坂家に、そして両人は岡山邸の堀の端で切腹、一人は龍之口石橋脇にて切腹、今一人は首を尻に敷いて自殺しかけたが腰巻が皮製で刀が通らず生き延びてしまい実に筆舌に尽くし難き騒動とある。大雪で非番となった長州藩士が、長州が借りて住まいにしている松平市正家の道沿いの長屋に閉じこもって本を読んでいたら、生け捕りにした生首を刀に刺して持って歩くのを窓から見たという記述があった。想像するだけでもおぞましい光景である。それが節句三日のこと、十四日遅れで十七日に長州在住の伊佐の源三に届いた。

日記にはその日藩主の敬親は登城の予定はなく知らないで良かったとある。この時代でもこうしたショッキングなニュースは遅ればせながらも日本全国津々浦々まで知れ渡っていたのである。その後ニュースは水戸藩の脱藩者で細川家に駆け込んだ狼藉物の名まで判明し記されていた。

そのニュースを源三が次に彦七から聞いた時は話の内容がそっくりそのままではない。掃部頭(かもんのかみ)は駕籠の中で既に拳銃で撃たれ引き摺り出された時は息絶え絶えであったとある。いずれにせよ、遅れても江戸の事件はこうして端々に伝わったのである。源三が事件は将軍の後継者問題に端を発したことや勅許無くして開国を推し進めたこと、それに強引な安政の大獄で怨みを買ったことなどに触れてはいない。だが物騒な世である。死をも恐れない輩の暴力の応酬は止まるところを知らず、反対勢力は死を持って排除し水戸藩の浪人達は大老の井伊直弼をも抹殺した。

”攘夷”という言葉はこの頃、聞けば泣く子も黙る恐怖の代名詞であった。

攘夷が日本にとって得か損かは難しくて良く解らないが、通商条約が日本にとって不利だったことだけは誰にも解っていた。こと金勘定に関しては呑み込みは早く、海外では金銀の交換比率が金一枚につき十五枚なのに対し、日本では銀五枚、それも言い出したのは日本で列強は交換するだけで暴利を貪れるこの成約に味をしめた。無知な日本はこれにより膨大な金を流出させた。その結果物価は高騰、そしてそのことばかりが誇張されて、苛立ちの矛先は西洋人に向かった。西洋人なら誰も皆同じであった。

だから一八六一年五月二十八日イギリス人が気まぐれで兵庫の港から船を降りて陸路を行くと言い出した時、危険だからと止めたにもかかわらず馬で街道を行き始め、それを水戸の浪人達が公使館のある東禅寺まで付けて襲う事件まで起こった。するとイギリス側は日本人が手引きしたなどと言いがかりをつけるし、日本側は日本人同士がイギリス人のために殺し合うのはナンセンスだと憤慨する。事態が複雑化すると幕府に事態の収拾をする能力はなく、金で解決する手っ取り早い方法しか思い付かなかった。だからイギリス人刃傷事件も多額の金で片付けた。頼みの綱の幕府は統率力もなければ的確に処置する能力にも欠けていた。そうなると寄る辺のない民は不安だ。不安は疑心暗鬼を生み右往左往する。将来性のない明日のためにこつこつと農耕に精を出すような建設的な気分にはとてもなれない。負の連鎖である。ことに収穫まで半年は掛かる米の生産を放棄すれば、農民の暮らしはますます困窮を極めて生活は荒み、老いも若きも捨て鉢になった。もう戦うしか打開策は考えられなかった。誰が言い出すともなく戦いに備えて兵器が揃えられ弾薬が準備される。果ては子供を集め生兵(なまびょう)の訓練をする。代官所日記には捨て子の記事に借り米の記事の無い日はない。志道源三日記にも銀を借りて返せない延引の文字が頻出する。領主とて、その余波を全く受けないわけにはいかない。

家臣の生計を背負っているのだ。下世話な話、領主が動けば家臣の弁当も領主持ちなのである。庶民とは異なる大きなお金の工面に頭を痛めた。直接その収支に関わることはないにしても無尽蔵にある収入から出費していくのとはやはり違う。連日掃き出されていく寺社への先祖供養の香奠(こうでん)も馬鹿にならない。倹約したいが何百年にわたって執行されてきた慣習を止めて思わぬ祟りにでも遭遇すれば後に這う。しかも寺は武家の娘の恰好の嫁ぎ先、勅子の同腹の姉を始め親類縁者の収入源にメスを入れることにもなりこれに手を付けるのは最後の手段だ。真っ先害をこうむる者が裏から政治堂に手を回して咎を受け兼ねない。結局元美に出来ることは本藩に泣き付くことしか方策はなかった。

演説と題し所帯難渋の儀は今に始まったことではないがと前置きしたうえで、普請に掛かる費用のこと、折からの災害のこと、地形が海陸の咽喉にあたる場所に位置するため昨今の異船の警備にかかる費用と、それに備えて銃器を整える費用、もう売り捌ける家財は売り尽くしたこと等、窮状を訴える書状を直目付梨羽直衛に宛て菓子折りを添えて提出した。窮状を訴える書状を送る藩は厚狭のみではない。毛利出雲も厚狭に先立ち送っていた。所帯の遣り繰りに難渋する元美の傍らにいる勅子とて、胸を痛めずにはいられない。慢性的所帯難渋は今に始まったことではないにしても心塞ぐ問題である。

そんな鬱々としている勅子に降って湧いたような話が持ち上がった。

以前から一目会いたいという徳山の父(兵庫頭)のたっての願いをのらりくらりと交わしていたが、老齢で弱気になった父が今生の別れになるかも知れないなどと泣き付いてきては、勅子も里が無性に恋しくなって矢も楯もいられなくなった。里帰りを思い立ったものの一人では決めかね二十五日夜こっそり同じ堀内に住む兄・越後を訪ねて相談すると、会えるうちに会っておいた方がいいと勧める。

そこで元美に相談を持ち掛けたのだが、あまり色よい返事ではない。八月二十一日に元美は藩に財政事情の内実を切々と訴える書状をしたため送ったばかり、もう当役の益田弾正に届いているはずで、その舌の根も乾かないうちに、物入りの許可を得るなどとても厚顔過ぎて言い出し難い。お忍びと言いながら御用人始め医師まで含めば総勢五十七人の行列である。ものものしい行列は富海までで屋敷を夜に出て宿泊はせず、行列の面々も富海で解散しその後勅子に仕える女中は四人に絞って船に乗り換え、その夜の内に徳山に着く予定とはいえ、半ば見栄を張った出で立ちはどう見たって大散財の様相を呈していていくら控えたと言い訳しても物入りは確かで矛盾は隠し覆えない。銀の工面も勅子の御納戸で賄うというのだが時期が悪い、二十一日に窮状を訴えて演説の書を送ったばかり、勅子に意には添いたいが常識人の元美とすれば辻褄が合わないのではと腰が退ける。だからと言って勅子の頼みも無碍には断れない。

元美は窮地に立たされると考えを整理するため川漁に出掛けた。地上がどんなに暑く蒸していても、着物の裾をたくし上げ川のせせらぎに足を浸し流されないようどっかと腰に力を入れて、如何に漁を成功させるかに思考を集中させて網を投じていれば、世俗の憂さは吹き飛んだ。万一獲物が獲れたなら賄い方を喜ばせられたし獲れなくてもそれはそれで次への期待につながった。とにかく投網を操っている間だけは時間が経つのも忘れられた。それに旅じたくに余念のない勅子の喧騒から少し距離を置けば気持ちの折り合いもついた。緊縮財政の解消には遠く及ばないが納戸を助けている気にもなった。

そうして心穏やかに心身を落ち着けていると、網にそこそこの大きさのボラが入っていることもあり、早速帰り掛けまだぴちぴち跳ねて活きのいいのを益田弾正に届けて機嫌を取って置けば多少なりとも気は楽になった。すると懐事情はどの家も同じ。同病相哀れむで許可を与える側の気持ちもほぐれ、弾正は若いだけに純真で公へのあたりに変化があった。生まれながらにその辺のツボを心得て心配りする公に対外的摩擦は和らいだ。

勅子にそのような持ち合わせはない。

こうして勅子は徳山の実家へ旅立ったのであった。公然と帰郷するのは久しぶりということもあって、先ずは挨拶回りから始めなければならなかった。親戚筋への挨拶回りに、神社仏閣への参詣かたがた挨拶をして回れば一日は瞬く間に過ぎてしまう。実家だからといってのんびり手足を伸ばしている間はない。一か月余りの滞在はあっという間であった。しかしながらやはり実家は(くつろ)げた。

我がルーツここにありと思えば感慨深いものがあった。今はいないあの顔この顔が浮かんだ。同時に若い頃の溌剌(はつらつ)として華やかだった頃が彷彿とした。何の屈託もなくただ溢れる夢の真っ只中にいた。あの木、あの井戸、あの小屋、菊まで同じところに咲いていてひとつ残らずあの頃のままだった。昔日が愛おしかった。何もかもが懐かしかった。そうして無心に浸っている徳山を流れる時間の速いこと。

このままいつまでもあの頃の思い出に浸って名残りは尽きないというのに帰らなくてはならない日は刻々と近付いて、十月の終わりようやく帰る決断をし、臣下に十一月に返る算段をするように言い付けたのであった。

重い腰はようやく上がった。勅子が決断さえすれば事は早い。舟は予定通り三日に徳山港を離れた。

五日萩に到着。しかし予定していた陸路は萩の表玄関である金谷天満宮で秋の祭りに先駆けた角力興行が行われていると言う報せが入った。その混雑を避けるため勅子一行は急遽陸路を諦め、そのまま川伝いに舟で家路に着いた。

二ヶ月ぶりの四本松であった。二か月にわたった里帰りであったが終わってみれば夢のようであった。萩に返れば浮かれてばかりはいられない。勅子には正室としての務めが待っていた。これまで通り前例に準じ秩序を質しての責任ある立場に戻らねばならない。先ずは萩へ帰って着た報告の挨拶回りからである。

しかしながら里帰りは何時の時でも勅子に心からの休息を与えた。

老いてはいたが父もまだ矍鑠(かくしゃく)として元気で、それを自分の目で確かめられたことが何より収穫であった。それからも厳しい節約令のお達しは間を置かず頻繁に出されてこの機会を逃しては到底旅に出るなど出来なかったであろう。貧窮する民衆は鬱積する怒りの捌け口を求め、その怒りの矛先を海外列強に向け殺気立っていた。その余波を道中で受けないとも限らない。昨今富に増えた海峡を通過する異船が皆日本から金を掠め取って行く故物価が暴騰し生活が苦しいのだと思えば海外列強は忌々しい限りだ。隙を見て異船を襲えば腹は癒える、それを虎視眈々(こしたんたん)と狙う輩がいて彼等を取り巻く連中も向こう意気が荒く何を仕出かすか解らない、且つまたそれに便乗し旅人を襲って金品を奪う狼藉者もいて、陸路も海路も旅をするのに安全とは言えなくなっていた。

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