さん話 人一人の生涯にわたる野良猫とのエンカウント率を統計学的に調査した論文とかあれば超読みたい
つまるところ、猫は百万回生きたのだ。
無論、百万回というのはものの喩えであり、回数の甚だしさを表現したに過ぎないのだが。
それでも猫は、数限りなく生きたのだ。
「あたし、化け猫なんだ」
何やら照れ臭そうに仔猫は言った。なるほどそれは一目瞭然の事実であるので、今更名乗るのも恥ずかしかったのだろう。
「いつからこうなったのかは、もうあんまり覚えてない。気付いたら死んで生きて、また死んでっていうのを繰り返してた。生まれてすぐ死ぬこともあったし、人の家で飼われてそこで一生を終えたこともあった」
転生輪廻の思想は――概念と噛み砕いて表してもいいが――仏教に留まらず、また洋の東西すら問わず世界中に数多く伝承されているそうだ。
前世があり今生があり、そして来世へと訪れる。衆生とはそうした仕組みの中で営まれているのだと、比較的すんなり得心は及んだ。理解など、程遠いが。純粋な求道者に非ぬ己では到達出来ない。大悟の境地。あるいは、修験の極み。
半端者が、山伏陣左衛門などが、どうしてその奥境を知れよう。知る筈がない。知らしめてくれる人は……既にいない。
閑話休題。
人は、あらゆる生き物は本来、輪廻という世の機構を自覚することなく生きて、死んでいく。前世をほんの僅か覚えていることさえ極々、本当に稀な事態であろう。
それが自然。というより、その方がいいのだ。
何故なら、前世から記憶を継承し今世に新生するということはつまり――死すらも新たにせねばならないのだから。
その苦しみや、痛みや、恐怖は、想像を絶している。尋常に生きる者にはどう足掻こうと出来ない。死とは一度限りの通過儀礼。一個の生物に許された死は一度だけだ。滅びゆく肉体と共にその実感は消え去り、霊魂は因果を連れて次の生を受ける。
その自然が、その必然が、この一匹の仔猫には与えられなかった。
「……一体、どれだけ」
「わかんない。随分前から数えるのやめちゃったから」
「……」
不完全に人型を真似る化生。自身を妖怪と言って恥じらうこの黒猫を、どうしてか。
どうしてか、ちらとも疑う気にならない。仔猫が語るその境遇も。
「辛かったろう」
「えへへ、結構ね」
……寂しげに呟かれた悲哀も。
ああ、全て本当のことなのだと。
驚くほどすんなりと己は受け入れていた。信じられた。
これは思考の投げ捨てというやつだろうか。それとも、相手の正体が小動物である為に疑心も甘く解かれてしまったのか。
どうも違うらしい。他者の機微に敏いなどと嘯くことすら憚られる粗忽者な我が身だが、これは違った。
膝の上で丸くなる半人半獣、その頭をそっと撫でて、黒毛を梳いた。
「んにゃ?」
「……」
「にゃに? 心配してくれんの?」
「しちゃ悪いかね」
「んふふふっ、んーん」
この手触りに覚えはない。記憶野のどの部分も刺激されることはない。初めて触れて、初めて感じた。
けれど。
己を見上げるその瞳。その眼差しは。
「灰色縞の猫だった。柿の木の枝を折って、その家の爺様にこっぴどく叱られた」
「! そう……そうだった。甘くて良い匂いで、思わず登っちゃったけどそのまま木から降りられなくなったあたしを、陣左が……助けてくれたの」
「キジトラのまだ若い猫だ。近所の家の犬にちょっかい掛けて、鎖が抜けて追い回されてた」
「だってあのブル! 小さい仔猫とか人の子供とか、弱そうなやつにだけ吠えて脅かして面白がるんだよ? 陣左がひょいってあたしを抱き上げてそのままブルも追い払って、助けてくれた」
「長毛種のノルウェージャンフォレストの老猫。よぉく覚えてるよ……お前さん抱えて保健所の職員撒くのは苦労したぞ」
「やー、歳取るとやっぱり逃げ足も付いてこなくってさ。抱っこっていうか最後は負ぶさってたね、あたし。にひひひ……でも、やっぱり助けてくれた」
思い返せば猫、猫、猫。改めて記憶の箱の蓋を開けてみればどうだ、山伏陣左衛門の人生は矢鱈滅多に猫と縁深い。
猫の知り合いは何匹か……先刻、そんなようなことを考えた気がする。だが実態は、目の前に一匹。
この眼差しを知っている。
「あの猫全部、お前さんかよ」
「そだよ。ぜーんぶあたし」
ぴこぴこと耳を瞬てて、嬉しそうに目尻を下げる。
人がましさというならこれが最たるものだろう。表情の移り変わり、感情の種類を顔の様相で表現する。おそらく人間の特技と言って差し支えないものを、この化け猫は完璧に体得していた。
だからこんなにも分かり易い。
「何度も出会った。出会う度に助けてくれた。陣左はいつだって、優しくしてくれた」
するすると体の向きを変えて、黒猫は今度は己の胸に頬を寄り添えた。かと思えば、ぐいぐいと頭といわず体といわず、自分自身を矢鱈に擦り付けてくる。
ごろごろと低く響く。仔猫は喉を鳴らした。
「人の言葉も覚えたし、変化もたくさん練習した……まだこんな、下手くそだけど……でもその内ちゃんと人間になれるようにする。これからも一杯練習する! だから! ……だから、あたしを飼ってよ」
言葉とは裏腹に弱々しく、語尾は空気に消え入りそうなほどだった。耳は力無く垂れ、尻尾は股下に引っ込んでしまった。
うん、実に分かり易い。
「か、飼ってくれなきゃ酷いんだからね! あたし生きた年月は相当だから力は結構ある方だよ! ほら、今朝陣左捕まえた結界術とか」
「あれか、ありゃ確かに面食らった」
「あ、あ、あと呪術! 猫の恨みは深いよ! 呪うのも祟るのも大得意! 七代くらいじゃ済まさないもん!」
それはかの名高い先達の専売特許だろうに。そして自信満々に胸を張ることでもない。
五指の爪も露に両手を広げ、脅し掛けるようにこちらを睨め上げる細く絞られた虹彩、猫目。
「だ、だから……だから、陣左……」
その虚勢はすぐに剥がれて落ちた。元の消沈した仔猫が現れる。
結論は出ていた。かなり前から。具体的に言うとおよそ十三時間前に遡る。
「このアパートはペット禁止でな」
「っ!」
瞳が揺らぎ、滲み、光を失くす。水晶球のようだった美しい瞳が、まるで泥濘のように。
絶望の深さを物語って。
早とちりめ。
「バレねぇように用心してくれ。俺もそうするからよ」
なるべく下品に、口端を歪め、歯を見せて笑む。
別に照れ隠しって訳じゃない。勿論違うとも。ただ、世間様が定めるマナーだルールだを今日から破ろうというのだから、悪ぶった方が筋合いも取れる。そう思っただけだ。
そんな己の言い訳と屁理屈など、猫には知ったことではないらしい。
花が咲くように、日輪が雲間から現れるように、その笑顔が視界一杯を埋め尽くした。
「陣左っ!!」
「いででででっ!? 爪! 爪食い込んどる! ざっくりいっとる! 骨までいっとる! 嬉しいのはわかった! わかったからとりあえず爪仕舞ってくれ!」
「むり! あたし仔猫だもん!」