歯車は狂えど友情は途絶えず。
人は老いるほどに懐疑的、利己的になりがち。
でもそれは外的な環境や世の中の悪習に毒されて毒付けになるから。
人は終りを予期すると、それらの身の穢れを振り払って無垢な魂に成らんとする。
でも毒付けな時点でも家に帰り独りで自分を省みる時に、無垢な自分の心の声を聞ける場合がある。
悪逆非道と伝え聞く、 “アドルフ・ヒトラー” の心音が育んでいた誰も知らない仄かな友情。
それには “アドルフヒトラー” との友情があった。
ヒトラーは最初から狂人であったわけではない。
権力が集中して誇大化すると取り巻きの影響、体制の維持、様々な要因で人は変わってしまう。
それは歴史が物語る。
でも心を通じた相手や直感的にシンパシーのフィーリングが同調した同志の友情は目に見えない同じ同一線上で繋がり続ける。
《好き》という感情がある。
恋愛とか、同性であれば同性愛とかすぐに枠を決めたがるが実際《好き》《好ましい》《空気感が合う》など枠なんかに収められる単純なものではない。
広域に考えるとそれは人の数だけ種類があるものかも知れない。
当事者からすればそんな大雑把な枠の先入観の定義に収められては心外であるだろう。
遠距離であろうと直接会話せずとも本物は継続する。
大雑把な枠で決着している程度は崩壊する。
ただ二人各々の環境は変化し続け立場上、加担する組織上、大局を見据えて本意でない行動を行わざる負えなくなる場合もある。
西郷隆盛と大久保利通の様に双方が目指す大局の為に途切れる事無き友情に涙で蓋をして戦い合う構図もある。
“アドルフ・ヒトラー” と “エルヴィン・ロンメル” も同じく、若かりし頃にランデブーした瞬間から尊敬・敬意・憧れと様々な意識が目に見えない糸で紡がれ繋がった。
“アドルフ・ヒトラー” の爆殺未遂事件を調査する線上に状況証拠的に “ロンメル” の名が浮上し、大局的に死刑としなければ収まらない状況下、“アドルフ・ヒトラー” 自ら死刑を言い渡す事になったのかも知れない。
大罪を積み重ねた“アドルフ・ヒトラー”にもあの若かりし頃の二人の空気は今も変わらず流れていたかも知れない。
その証拠が今現在目の前に存在する “エルヴィン・ロンメル” その人の存在となる。
敵方の連合国の将兵からも尊敬される騎士道精神を持つ “エルヴィン・ロンメル” 誰でも好きという感情を持ち得た。
あのアドルフだって例外ではなかった。




