シルヴィスとリンとランディ一家
シルヴィスとリンとランディ一家
この国の建国者にして指導者であるクレイグ大佐を失ったあの反乱未遂事件から5年が経った。自分はその間、あれこれと実務と事務に明け暮れた記憶しかない。昇進はしたが、こんなに忙しくなるのであれば、あの時大尉殿の誘いを受けて傭兵に転職するべきだったのかも知れないとこの頃思うが、この国を愛し過ぎている自分に傭兵は向かないだろう。
だが、我が国を救ったあの傭兵たちの顔は、生涯忘れる事は無い。大尉殿とその仲間たちの活躍は、その後も時々だがこんな小さな国家にも噂程度に流れて来る。
自分はそんな事を考えながら、時間が許す時はこの大広間で過ごす事が多い。マイヤーズ少佐が自害した防弾ガラス製の部屋は流石に取り除いたが、自分の命令でそこには立派なテーブルと椅子4脚がそのまま5年間放置されている。掃除は時々自分がしているので、埃は被っていない。
フィルダーやウィルソン、ジョンソン、ハートキー、皆元気にしているのだろうか。
その椅子に腰かけて、大笑い、苦笑い、含み笑いした彼らの顔も印象に残っている。この首都から車で二時間程走った距離にある小さな前線基地は、傭兵たちの記念碑を建て今では観光地と化している。基地としての機能は必要なくなったので、特に問題は無い。あの時フィルダーとグリンウェルと共に乗ったジープが基地正面に飾られ、元整備班が居た倉庫はあの時使った武器や地図などが所狭しとガラスケースに入れられて展示されている。あの基地は反乱鎮圧記念ミュージアムになったのだ。国際的には無かった事になっている反乱事件は、この国の国民の心の中には深く刻まれている。犠牲者はクレイグ大佐とマイヤーズ少佐だけではなく、家族を失った者も居る。内戦でも反乱でも革命でも、歴史に名が残る死者の陰に、沢山の犠牲者が居る事を忘れてはならないだろう。彼らもまた、その思想に違いはあっても、この国の為に戦ったのだ。
自分も時々懐かしくなってあの基地に出向くが、車で二時間の距離を走っている間に、首都から連絡が入り、とんぼ返りという事の方が多い。
まだこの国が本当に安定するまでには、年月が必要だろう。
そんな事を思いながら、あの時自分が座っていた椅子に腰掛け、防弾ガラスの部屋があった位置を見ていると、そこの床の石板が微かな音を立てて上に持ち上がった。
「!!」
思わず腰の拳銃に手が伸びる。床の下に明らかに生き物がいるのだ。床板が自然に動く訳がない。
しかし、自分の考える予想を遥かに超えて、その床板の下から出て来た人物を見た時、拳銃から手を離し駆け寄っている自分が居た。
「大尉殿!?」
床下から出て来たのは間違えようも無く、シルヴィス大尉殿だった。あれから5年経っているが、見た目は殆ど変わりがない。
「よぉ、ランディ少尉。ああ、今は大尉に昇進したんだったな。元気だったか? いや、まさか出て来た瞬間にお前に会えるとは思わなかったぜ」
床板分の大きさの穴から上半身を出した大尉殿が居た。あの時より少し表情が豊かになっただろうか。
「ええ、自分は元気ですが。大尉殿、この穴はいつの間に作ったのですか?」
挨拶もなく、疑問を口にしていた。
「ああ、これは元々此処にあった首都脱出用の穴だ。クレイグ大佐が極秘に掘らせていた物でな、開通はしていなかったんだが、5年前にマイヤーズが城壁外の空井戸に繋げたのを俺は知っていた。あの野郎はいざとなったらこの穴から逃げようと思っていたらしいんだが、この床板の上にあのアホな防弾ガラス部屋を置いてしまった。彼は自分で自分の逃げ道を塞いだ、流石にバカ過ぎて俺も公式報告書に書かなかったくらいだからな」
そんな脱出経路があったとは、くまなくこの宮殿を調べたつもりになっていた自分を恥じて、赤面してしまう。
「なに、そんなに気にするな。一応誰にも知られないように俺が細工しておいたんだからな。それよりちょっと手を貸してくれ、この穴思ったより狭いんだ」
大尉殿の体格は人間離れしているので、その床穴は小さいらしい。それに、気付くと大尉殿は何処かの戦場帰りなのか、顔を含めた体全体に擦り傷や銃弾が掠った様な火傷の痕が生々しく残っていた。
自分が手を貸し、穴から大尉殿を引きずり出す。
大尉殿は自分への礼の前にその穴の入口に戻り、下に手を伸ばしていた。
「此処は大丈夫だ、さぁ、掴まれ」
自分に言った言葉ではない。
それに、その言葉は同じ我が国の言語だったのかも知れないが、何処か癖のある言葉だった。言語形態の似ている近隣諸国の言葉だろうか。
「此処は何処なの?」
穴の中から女の声がした。大尉殿に掴まり穴から出て来たのはまだあどけなさの残る少女だ。12歳くらいだろうか。それより驚くのはその格好だ。大尉殿はいつも通り何処かの軍服だが、その少女は何処かの豪邸に仕える質素なメイドの格好だったのだ。
泥と埃だらけになってはいるが、その上等なメイド服は見たところ傷んでいない。
「大尉殿?」
質問しかけた自分に、これも5年前と変わらず手を挙げて制する。よく見れば大尉殿の右足に粗末な布切れが充てられており、そこに血が滲んでいた。かなり長時間の逃亡生活であったのか、床に座り込んだ大尉殿は、暫くの間息を整えるのに時間を掛けた。
「年は取りたくないものだな。俺もそろそろ傭兵は引退か。今にしてみれば、あのシルヴィス老人はよくこんな仕事を五十年以上も続けていられた物だとつくづく思う」
「大尉殿、傷を負っておられるようですが、医者を呼びますか?」
「否、それには及ばないが、出来れば綺麗な水を2リットルくらいくれ」
そう言われて、自分は走り出していた。年齢は自分の方が上で、今では同じ階級の大尉殿の命令が絶対だというのが、可笑しかった。
誰か部下を呼んでも良かったのだが、大尉殿に確認せずにこの訳ありそうな少女を他の人間に会わせる事は何故か躊躇われた。自分で走り、近くの水場から甕に水を汲む。自分で飲んで綺麗な水だと確認し、また走って広間に戻った。
大尉殿は少女の肩を借り例の椅子に腰掛ける所であった。テーブルに甕を置き、自分も大尉殿を座らせるのを手伝う。
少女は慣れた手つきで大尉殿の足の包帯を緩め、甕の水を一口含んで確認してから、傷口にかけ、綺麗に手で拭った。汚れた包帯を洗い、もう一度傷口に縛り付ける。
「ありがとう。リン。ここは安全だからお前も楽にして良いぞ。このランディ大尉はお前にとって味方ではないかも知れないが、決して敵にはならん。俺の友人だ」
その紹介の仕方はどうかと思ったが、大尉殿に友人扱いしてもらえるのが妙に嬉しかった。
そして、どうやらこの少女の名前はリンであるらしい。
「失礼しました。シルヴィスの手当てを先にさせていただきまして、自己紹介が遅れました。あたしの名はリン、13歳です。成りはこんなんですが、軍人であります」
メイド服姿の少女が自分に向かって敬礼している。一応自分も敬礼を返すが、正直メイドに敬礼されたのは軍人になって初めての出来事で戸惑った。それにしても軍人とは一体どういう意味であろうか。大尉殿に視線を向けて説明を求める。大尉殿は自分とリンの敬礼姿を見て苦笑していた。
「ああ、リンは少尉殿だ。ある国に政府軍から脱走した男が25年も立て篭もっていた館があってな。そこから各地に指示を出し政府軍と戦っていたんだが、先日その館が政府軍の急襲を受け殆ど壊滅しちまった。その男の最後の依頼で、俺はこのリンと共に逃亡しているという訳だ」
我々の国から近い場所でそんな軍事作戦が展開された情報の報告は受けていた。大尉殿はその政府軍側ではなく、反乱軍側に雇われていたという事らしい。
「では、あのヰガル元国軍中将の反乱軍に参加していたのですか?」
その元国軍中将は世界的に有名な革命家として知られ、戦災で親を失った子供を引き取り、自らの館で育てているという話も有名であった。このリンという少女もその戦災孤児の一人という事であろう。
「半ば強引に契約させられてしまってよ。そこは省くが、兎に角俺の部隊はヰガルに雇われて、3ヶ月程彼の館で過ごしていた訳だ。10日前に政府軍の急襲を受けて館は炎上。中に居た子供たちも大半が戦死しただろう。俺はたまたまその時ヰガルと接見中だったのでな、狙撃されて瀕死の重傷を負った奴に、直に依頼されてしまい、断り切れなかった。ジャングルの中を政府軍に追われながら逃げ、国境を越えて今度は山岳地帯に入り、川を遡ってこの国の国境線に着いたのが昨日だ。それまでに二つ程国はまたいだが、それも省く。歩いてこの国に入った事はなかったが、5年前に赴任した時に周辺地図は頭に入れていたのでな。特に迷う事もなく首都を目指せた。だけどよ、首都に入ったのは良いんだが、リンを連れているのでな、一応国際的には犯罪者の部下だ。人目を避けるのに最適なルートでお前の所に来たかったので、この隠し通路を使わせてもらったという訳だ」
5年前に作戦用の地図を20分程念入りに眺めていた大尉殿の姿が思い出された。
「しかし、何故自分の所に? 派遣会社に連絡は入れなくてよろしいのですか?」
「ああ、それも込みの話でな。会社からの仕事ではなかったんだ。先程省いたが、半ば強引にヰガル邸に連れて行かれたのでな。会社は厳重に抗議していた筈だが、代金の先払いで納得しちまった。まあ、抗議先のヰガルは死んでしまったのだが、その報告は途中で奪った自動車の無線から一応連絡したので、大丈夫だろう。俺は今別の仕事を個人的に受けていてな。少々急ぎなので、会社に一度戻れなくてよ。それでお前の事を思い出して此処に来た訳だ」
「そのお怪我で別の仕事ですか?」
大尉殿の足の怪我は銃弾による物であるのは明白だった。その怪我をしている状態の大尉殿に仕事の依頼をする人物とは一体どんな考えの持ち主であろうかと思案していると、大尉殿はすぐにその答えをくれた。
「依頼主は此処にいるリンだ」
「仇討ちですか?」
「ああ、まあ、有体に言えばそういう事になるな。ヰガル邸で育てられた恩を忘れた息子が一人居てな。そいつは本当の息子ではない。ヰガルは自分で育てた子供たちを、息子或いは娘と呼んでいた。リンは今回のヰガル邸襲撃にその裏切りの息子が絡んでいると主張するのだ。調べてみたら、政府軍の諜報部員に似た名前の奴が居て、そいつの出自は不明な点が多く、確かに今回の襲撃作戦の立案者でもあった。俺たち傭兵でもその地の地図を頭に入れる事はあっても外部に漏らす事はしない。信義に悖る奴は処断せねばならぬのが、俺たち傭兵の信条でもあるので、この依頼は受けなければならん。この怪我は問題ではない。それに今回の奇襲で俺の部下にも犠牲が出た」
「大尉殿の部隊で戦死者ですか!?」
グリンウェルを除く七人の大尉殿の部下の顔が次々に頭に浮かぶ。
「ああ、お前と組んだ5年前からメンバーは数人代わっているが、グリンウェル以来誰も失っていなかった俺の部隊から犠牲が出た。単純にヰガルの仇討って訳ではなくてな。これも俺が依頼を受けた理由だ」
大尉殿の部隊の活躍は、自分が住むような小国にも情報は入っている。勿論意識して集めている情報でもあったのだが、確かに最近その情報がめっきり入らなかった。そういう事は今までも何度かあったが、大きな作戦中なのだと思っていた。事実、作戦が終わると、どこからか大尉殿の部隊の活躍の情報が流れて来ていたのだ。
「戦死者は自分も知っている方ですか?」
恐る恐る聞いてみた。
「ああ、お前も知っているな。確定情報ではウィルソンとジョンソン、ヰガル邸の残りの少年兵と共に正面の門に回って囮役をしてくれた。俺とリンはヰガルの依頼で別行動し、二人で逃げ切ったが、百人以上の少年兵を連れたウィルソンとジョンソンは貧乏くじを引いたとしか言えん。お前は知らんかも知れないが、ルーキーのウィグッスという奴と組んで殿を務めたハートキーも多分殺された。ハートキーは生きていても政府軍に捕まった可能性が高い。少年兵の幼年組を連れて逃げたフィルダー、ホッジス、オクスプリングの三人はホッジスが政府軍に捕まり、オクスプリングは頭に銃弾を受けて意識不明。ある意味無傷で逃げ切ったのは俺とフィルダーだけか。この10日で会社に連絡を入れられたのが俺とフィルダーだけなんでな。こんなに敗走したのは傭兵を始めてから初の体験だ」
オクスプリングはマイヤーズ少佐の墓に墓碑銘を掘った男で、陽気な豪州人。彼が頭に銃弾を受けて意識不明。
ウィルソン、ジョンソンの二名は確実だと大尉殿は言った。あの二人がそんな簡単に命を落とすとは思えなかったが、大尉殿の声に冗談はない。
ホッジスとハートキーが政府軍に捕まった可能性がある。
「殆ど全滅ですか」
「ああ、部隊を任される前に俺が配属された部隊が俺だけ残して全滅した事はあったが、それ以外では初の体験だな。護るべき対象者ヰガル元国軍中将も失ったし、金が前払でなかったら俺もフィルダーも会社から解雇されるような状態だ。依頼者の最後の頼みであるリンの安全確保が出来て、少数だが幼年組を保護出来た事だけが救いという状況だ。5年前と違うのは、グリンウェル一人が死んだだけで済んだのと違って殆ど全滅、そして、反撃するのは俺一人という所かな」
大尉殿は厳しい表情で語っていたが、自分に顔を向けると、少し緩んだ表情に変わった。
「まあ、悪い事ばかりじゃない。俺はこの3ヶ月程をかなり有意義に暮らしていた。ヰガルという男は大変面白い考えを持つ男でな。俺の探している答えをもう少しで聞き出せそうだったんだが、意外に意地の悪いオッサンでな。結局最後には自分で探せと言われたよ。彼なりの答えだけでも教えて欲しかったのだがな」
大尉殿が求める答えとは、自分になどは到底測れない世界の理のような物である。大尉殿は傭兵でありながら、戦争根絶を求める不思議な人だ。その為には今の世界で起きている出来事を紛争地帯の中から見出さねばならないのだそうだ。難しくて自分には理解の域を超えている。
「そういえば、大尉殿たちが契約切れで去った後、面白い人物にお会いしましたよ」
理解の域を超えているという意味では、大尉殿と対を成しそうな軍人に自分はあの後出会った。
「どこの軍人だ?」
興味を惹かれた大尉殿が身を乗り出した。
「はい、あれは今から4年10ヶ月前。実質的指導者であるクレイグ大佐と反乱前まではまともな軍人だったマイヤーズ少佐を失った我が国は疲弊しておりました。自分が軍事面のほぼ全てを任され、軍を否定的に考える精神的指導者に中央教会の神父を迎え、ごたごたした時期です。人材面の強化を図る為に自分は再度傭兵派遣会社にコンタクトを取り、大尉殿を招聘したいと願い出たのです」
「4年10ヶ月前だと、俺は休み明けすぐに次の作戦に駆り出されて、会社には居なかったかな。中東で大規模な戦闘に紛れて大統領閣下を捕縛するという大層な任務だったか」
「はい、ですから大尉殿を雇う事には失敗し、自分たちの中にある亀裂は結構深刻な度合いにまで膨らんでおりました。その時、派遣会社から連絡が来まして、ある人物を派遣する約束をいただいたのです」
「うちの会社から? そんな変わり者居たか?」
自らを変わり者だと言う大尉殿はやはり只者ではない。内心苦笑しながら、話を続ける。
「ええ、名は確か……ヤマト大佐という方でした」
「苗字か名前かはわからんが、発音的には日本人か?」
「はい。大尉殿と違い、喋る言葉は通訳を通さなければなりませんでしたが、日本人だと本人が名乗りました」
その名前を聞いても心当たりがないのか、大尉殿は考え込んでしまった。
「まあ、うちの会社も臨時雇いの傭兵が居るからな。しかし、日本人だったとして、日本名をそのまま名乗る傭兵はあまり居らんがな。日本人は二次大戦で敗戦しているから、なかなか認めて貰えないのがこの世界の掟みたいなもんだ。中には日本人も居るが、真っ黒に日焼けしてアジア人だという事以外分からなくしたり、髪の毛を染める者がいたりするくらいだからな。俺も最初に傭兵になった時は驚いた物だ。30年以上も前の戦争の敗戦を未だにこの業界は引き摺っているのだからな。まあ、それは良い。それで、そのヤマト大佐という人物は一体この国で何をしたのだ?」
「はい、分裂しかけていた軍部と教会の橋渡し役をしてくれ、更にはちょっとした憲法の骨子まで作成してくれました。これが無ければ我が国は空中分解し、未だに内戦が頻発する国になっていたでしょう。その功績が認められて、外国人でありながら、我が国の指導者になってくれまいかと軍部も教会も頼みに行ったくらいの人物です」
これは事実だった。自分もその為に何度か彼の下を訪ね、説得に当たったので、よく覚えていた。
「へぇ、そんな大物がこの国に来ていたのか。しかし、ヤマト大佐と言ったか? そいつは自分で大佐と名乗っていたのか?」
「ええ、彼の部下も数十人規模で駐留しておりましたが、皆そのように呼んでおりました」
大尉殿の疑問は多分その階級が現在の日本には存在しないという事である。確か自分の覚えが正しければ、日本という国にある自衛隊という名の組織では、大佐ではなく一佐と呼ぶ筈だからだろう。
「まあ、その大佐殿には何処かで会ったら礼を言っておくさ。お前の国を助けてくれたのは、今の俺が逃げ込む場所を確保してくれたみたいなものだからな。そうでなければ俺はリンを連れてあと10日程掛けて日本まで戻らねばならない所だったぜ。そうなると次の動きにまた時間が掛り、依頼されている奴を逃がしてしまうかも知れないからな。それに、どうせなら生きている可能性のある仲間も救出したい」
「ヤマト大佐は神出鬼没だと聞きましたので、この世界で会えるかはわかりませんが、自分はこの国を離れる気はありませんので、もし出会った場合はよろしくお願いいたします。しかし、これからお一人であの国に戻られるのですか?」
依頼を受けた大尉殿がそれを曲げる事をしないのは充分承知しているが、やはり負傷しているのが心配だった。
「ああ、俺は一人で動くのが本来の姿でな。お前と組んだ5年程前から結構実績を残してしまったので部隊指揮官が多くなってしまったが、俺が目指しているのは世界の真理であって、昇進ではないのは前にも言ったな」
大尉殿は勿論傭兵派遣会社には登録されていたが、グリンウェルたちの部隊指揮官になる前は基本的に一人で紛争地帯に赴く事にしていたのだそうだ。それは前にも確かに聞いた。
「だから、このリンを一週間程預かってくれないか? 仕事に連れて歩くにはこいつは若過ぎるんだ」
リンは不服そうだったが、確かに子供を連れての行軍は部隊行動より難しい。それで大尉殿は我が国に来るまで10日も掛ってしまっている。本来なら歩きでも大尉殿の足なら5日もあればあの国から此処に辿り着けるだろう。大尉殿は怪我のせいもあるだろうが、かなりこのリンという子供に併せていたのは明白だ。しかも、戦闘能力という意味では、この娘がいくら軍人だと言った所で、大尉殿の戦闘能力に適うべくも無く、サポートに徹するにしても心許無い。
「俺はこの娘の依頼を片付け、部下を救出してここに戻る。それまでの間で良いのだが、頼めないか?」
自分に断る理由は無い。しかし、隣接していないとは言っても近くの国だ。この娘を預かる事で国際問題になりかねない事だけは頭に入れておかなければならない。なんと言っても元国軍中将にして、大量虐殺の疑いも国際法的には掛けられているヰガルの娘だ。死んだヰガルに全ての罪を着せるのは簡単だろうが、彼女もゲリラ側に加担していた事に違いは無い。自分の部下を呼ばずに正解だった。
「判りました。10日間預かります。しかし、この宮殿からはリン少尉を出さないでいただきたい。国際紛争の元を抱えるのは我が国の利益にはなりませんから。暫くは宮殿内にある自分の私邸に居て貰います。妻と子供には説明さえしておけば問題にならないでしょう。手伝いの中には教会からのスパイ疑惑の掛る者も居ますので、少し早い夏の休暇を明日から取らせます。それなら10日くらいは稼げるでしょう。しかし、自分も今では国軍の半数を預かる身ですので、国を割るような事や国際紛争に巻き込まれる様な事態にはしたくありません」
「ああ、判っている。仕事自体は7日も掛らんと思うが、予備日としてそれくらい期間が必要なんだ。10日もあれば俺は仕事を終えてもう一度この緊急脱出穴を逆流してこの国に戻る。フィルダーに増援を派遣するように頼んであるので、もし怪我人を抱えていてもそちらに引き渡せるからな。ホッジスとハートキーが死んでいなければの話だ。死んだかも知れない。そうであれば俺はもっと早くに仕事を片付けて戻れるだろう。あの国の軍に俺以上の国軍兵士も傭兵も入っていないのは確認してあるからな。俺が失敗して死ぬ事になるような事態は起きないと断言できるが、もしもの時は、フィルダーに迎えに来させる」
リンが少し不貞腐れた顔から不安の表情に変わった。それはそうだろう。大尉殿の事はある程度信頼しているかも知れないが、自分とは今会ったばかりだし、此処に一人で残されるのだから、急激に不安に苛まれるのは当然と言える。
しかし、少なくともフィルダーが来るまでは自分が責任を持って面倒を見よう。
「フィルダーはあの国に直接増援を送るのですか?」
「否、それをやったら隠密行動の意味があるまい。俺はリンからの依頼を片付け、ハートキーたちを救出し、国境付近に展開するフィルダーたちと合流する予定だ。何度か俺の方が仕事が早くて増援が間に合わずに事が明るみに出てしまった事もあるのでな、今回は慎重に仕事をさせて貰うさ。それで、もう一つ頼みなんだがな」
「コンピュータですね?」
流石に大尉殿の次に要求する物が判った。大尉殿は依頼の次に仲間を重要視し、その次に敵の情報を重視する、その次は武器のレベルだろう。コンピュータが大分発達して、個人でも持てるようになったので、大尉殿は仕事がし易くなったと言っていたのを思い出した。それに、コンピュータがあれば大尉殿の信頼する情報源の人と連絡が出来るのだろう。その人が送って来る情報はほぼ完璧だと言って良い。何しろ敵兵の配置まで送って来る人だし、地図も何処で入手するのかこちらが知りたくなる程詳細だ。5年前のマイヤーズ少佐反乱未遂事件の時もその人の情報にはお世話になっている。
「おう、頼む。コンピュータの用意が出来るまで少し休ませてくれ」
そう言うと大尉殿はテーブルに突っ伏して眠ってしまった。
大尉殿はベッドを使わない。眠る時は常に座った状態。これは置き上がる時間を短縮し、いつ敵が来ても良いように常に備えているそうだが、流石に自分は真似できないと思った。
気付くとリンはその大尉殿の横の椅子に座り、大尉殿の膝を枕にして眠っている。余程疲れていたのだろう。しかし、大尉殿の膝上は傷口の真上だが、大尉殿は痛さを我慢しているのだろうか。起きた時に訊いてみよう。
自分はなるべく彼らを休ませる為にも、ゆっくり静かにコンピュータの機材を一人で此処まで運んで来る事にする。大広間は中二階も含めて誰も通る事はない。この5年間自分以外にこの場所で休憩する人間には一人も会っていないから大丈夫だろう。今日に限って誰かが通る偶然は無いと思う。
宮殿内には自分の住まいもあるので、寄って妻と子供に詳細を話し、明日付で手伝いの者たちに夏の休暇に入って貰えるように手配した。息子は13歳のリンという娘が来る事に興味津々だ。兄弟が居ない息子は兄や姉という物に憧れているらしい。
自分は九人兄弟の末っ子だったので、兄や姉という存在は鬱陶しかった記憶しかないが、極端に数の少ない子供も考え物だ。今度妻と相談してみよう。
台車にコンピュータの機材を乗せてゆっくり進む。これは大尉殿たちに気を遣っているのではなく、コンピュータを落とさないようにする為である、通路は石畳で古い、お世辞にも平らとは言い難いのだ。この宮殿が建てられた年代を考えれば当たり前かも知れない。
それでも情報の重要性を大尉殿に説かれた自分は感銘を受け、多少の反対を押し切ってコンピュータの為の回線を宮殿中に巡らせてある。大広間にも回線の端子を挿す口があるので、これは準備しておいて正解だったようだ。
自分はあまりコンピュータには詳しくないが、線を繋ぐくらいなら出来るようにはなった。なるべく音を立てないように運び、テーブルの上でセッティングを済ませた。
「大尉殿、準備が出来ましたよ」
そっと声を掛けると、突っ伏した姿勢だった大尉殿は何事も無かったように起きた。寝覚めはかなり良い。
「おう。キーボードくれるか?」
そう言うと自分が差し出したキーボードに向かって何か打ち込み始めた。体同様にかなり無骨な指を持つ大尉殿のキーボードさばきはなかなかの速さだ。
「ところで、今何時だ?」
キーボードを打つ手を休める事無く大尉殿に訊かれた。自分の腕時計を見て時間を教える。
「まあ、起きている時間だろう。会社の方は24時間交代で誰かが受け答えしてくれるんだが、情報屋の方はそうも行かないんでな。連絡時間と時差は常に頭に入れておかなければならないんだが、ちょっと俺の頭がまだ眠っているらしい」
キーボードを打ち終わって暫くの間返信を待つ。手持無沙汰なのか大尉殿は右手で眠っているリンの頭を撫でていた。こうして見ると愛情たっぷりの親子にも見えるが、大尉殿とリンは他人だ、これは男女の関係に発展するのだろうかと、自分は非常識な事を考えた。大尉殿は確か35歳、リンは13歳、リンが成人する頃には大尉殿は50歳の方が近くなっている年齢だ。そこまでの年の差での婚姻はこの国では認められていないからそう考えてしまうのだろうか。
「大尉殿、怪我をした足の上で眠られて痛くはないのですか?」
頭の中で考えた事を振り払う為に訊いてみた。
「ああ、こいつの頭は調度良い重さがあってな、傷口に押し当てていると止血に良い。たまに寝返りを打つので完全な止血にならないのが良いんだ。昔は漬物石とか使っていたんだが、リンの頭は調度良い重さなんでな。それに、こう言うのはどうかと思うが、痛みが無くなったらその部分は死んだも同じだ、怪我が完治するまでは当然痛い」
その会話の間に返信の電子メールが届いた。
大尉殿は熱心に画面上の文字を読む。それからキーボードにまた何かを打ち込み送信する。
そのやり取りが数回続いた。
「今年はハムの優勝か、意外な所が来たな。まだ優勝が決まる時期ではないと思っていたが」
これは大尉殿の独り言だろう。
「ハムが優勝……ですか?」
「ああ、スマン。暫く日本にも帰っていないしな。新聞すら読んでいなかったので、そういう情報も貰うんだ。ちなみにハムはプロスポーツチームの名前だ。作戦行動上は何の利も無いけどな。まあ、くだらない情報は案外役に立つ時もあると一応言っておかないとならんかな、折角くれた情報屋に失礼になるからよ。それに、少しくらいの遊びがないとこっちもやってられない時があるんだぜ」
そう言いながら画面上に映し出された何処かの建物の図面を熱心に見つめている。
自分は行った事がないが、映し出されている図面は明らかに何処かの国の軍事拠点の設計図だ。
「よし、大体の事は判った。後は現地調達で良かろう」
そう言ってもう一度返信してからコンピュータの電源を落とした。
「スマンがこのコンピュータはもう接続しないでくれ。出来れば分解して捨てるのが得策だと思う。ハートキーが生きていて連れて帰れれば中身の消去が出来るんだが、俺はそこまで詳しくない」
リンの頭をそっとずらして他の椅子の上に寝かせながら、大尉殿は首をグルグル回した。足の傷を確認して、それから腰にある拳銃をチェックする。
「もう出立なさる気ですか? せめて今日一日くらいは休まれてはどうです?」
「ああ、俺もその方が楽なんだろうが、俺の部下が拷問でもされていると思うとよく眠る事も出来ないんでな。さっさと済ませてから実家に帰ってゆっくり寝る事にした。ランディ、リンの事を頼むぞ」
そう言い残すと大尉殿はまた脱出用の穴の中に消えた。
大尉殿を見送って暫くその穴を眺めていたが、ふと視線を受けている事に気付いて振り返ると、リンが椅子の上で胡坐をかいて座っていた。子供とは言っても女の子がそんな座り方をしてはいけない。メイド服のスカート丈は君が思っているより短い。
「起きたのかい?」
大尉殿が居なくとも言葉が通じるのは有難い。
「ええ、あたしが寝ていないとシルヴィスは出撃しないから、10分程本気で眠って後は起きていました。狸寝入りという奴ね、ヰガル様に教えていただいたの」
その元国軍中将は、何を教えているんだ。
「あら、意外でしたか? ヰガル様はいつも先程のシルヴィスのように浅い眠りを5分程しかとらない方でした、二十五年間ずっとそれを続けられるあの方は偉大な方でした」
一日に5分しか眠らないというのか。なんという精神力だろう、自分ならば三日も続かない事だ。そう言えば大尉殿と行動した五年前も、大尉殿がマイヤーズを追い詰めてからの三日間で大尉殿が眠っている姿は見なかった。ずっと今リンが座っている椅子に座って、時々目を瞑るくらいだった。大尉殿もそのヰガル元国軍中将と同じだと言っているらしい。そしてこの少女もまた、眠らない修行をしている。
「あたしはまだ子供ですから、最低でも一日3時間は眠らないと成長に支障をきたすのでいけないと言われていますけど、10歳になった日からあたしも一日1時間にしています。ヰガル様の身の回りの世話をする兵士が、主人が起きている時間に眠るのは失礼かと思いまして、それでも流石に一週間も続けると体に力が入らなくなります。昨日までは一睡もしていなかったので、流石に疲れました」
そう言ってリンは胡坐をかいた姿勢のままで目を瞑る。成程、大尉殿の真似をしようとはしているものの、まだ子供だと言う事だ。この娘はまだ可能性があるのだろうな。自分が今からそれをしてみせろと言われても、多分真似出来まい。人間一度決まった睡眠時間に慣れてしまえば、ほぼ一生変わる事はないだろう。
しかし、一週間眠らないで大尉殿に付き合えるというのは大尉殿がリンに併せていたのもあるのだろうが、なかなか凄い事だ。
15分程してリンが目を覚ましたので、自邸に連れて行く事にする。途中で他の兵士や政府高官と出会わないように細心の注意は払った。
「ランディ大尉にはご家族がいらっしゃるのですか?」
「ああ、居るよ。妻と息子が一人。自分は九人兄弟の末っ子だから、親戚の子供も含めると結構な数になる。内戦中に兄二人と姉一人は失ったがね。いまから行く自分の家には妻と息子だけだよ」
「へぇ、あたしは本当に血の繋がった兄さんとか姉さんとか弟とか妹とか居ないから、凄く羨ましいですね」
「あまり家族が多いのも考え物だけどね。自分は末っ子だったから、兄や姉に食事を盗られて、小さい時は泣き叫んでばかりだったな。着る物もお下がりばかりだったし」
この娘と話をするのは新鮮な気持ちになる。何故だか判らないがすらすら自分の過去について話をしてしまう。
大尉殿の力量であればリンを連れていても暗殺と救出くらいは出来そうな気もするのだが、大尉殿もそういう気分を味わっていたのだろうか。家族の事をこんなに話すのは久し振りだった。
自邸では妻が気を利かせて既に手伝いの者たちに休暇を出していた。これで堂々とリンを招き入れられる。妻の自慢などしても気恥ずかしいだけだが、妻は自分には勿体ない程の出来た女性だ。
「リンです。お世話になります」
挨拶するリンを見た妻は挨拶もそこそこに、早速風呂に連れて行きリンの服を脱がせて風呂に入るように言い、着ていたメイド服を広げて眺め、汚れ以外に修復する場所が無い事を確かめてから洗濯場に向かう。息子は暫く家の中にある観賞植物の鉢の陰に隠れていたが、リンが風呂に入っている間に出て来て、ソファの上に自分を誘って遊んでくれとせがむ。遊び相手をしながら思っていた事は、自分の息子がリンのような境遇で育たなくて良かったという事だった。息子は今9歳になったばかり、リンは10歳から眠らない修練をしているという。自分の息子にそんな修行だけはさせたくないと思った。
五年前、グリンウェルに救われなければ無かった命である。その為にグリンウェルはマイヤーズに捕まり、結果殺されてしまった。大尉殿のオフィスで娘からの手紙を見ながら娘の自慢をしていたグリンウェルの顔が浮かぶ。その後、自分はグリンウェルの娘に手紙を書いて送った。彼女の父親は自分の妻と息子を助ける為に捕まった事を伝え、感謝すると共に残念な結果になってしまった事を詫び、出来る限り詳細に書いた。グリンウェルが彼女に送ろうとしていて結果発送されなかった荷物も同封した。あの時大尉殿宛てで送られて来た香水も一緒に送り、暫く経つと返信が来た。丁寧な英文で書かれた手書きの手紙。
父親の最後を教えてくれた二番目の親切な方へ。というタイトルだった。報告自体は大尉殿が手紙を送っていたのだろうが、詳しい内容までは教えられなかったようだ。
傭兵としては残念な死に方だったが、父親として誇りに思える死に方だと気丈にも彼女はグリンウェルを讃え、彼女自身が将来傭兵か軍隊に入隊して跡を継ぎたい意思も書かれていた。
「お前は自分の跡を継いで軍隊に入るのか?」
自分の息子に問いかける。息子は自分の膝の上でおもちゃを振り回していたが、少し大人しくなり、首を振った。
「僕は母のようになります。軍人は国を救う大事なお仕事だけど、市民を救うのは市民だからです」
立派な答えだ。自分が9歳の頃には出していなかったであろう未来への答えを息子は既に持っていた。
「4歳で無くす所だった命を救ってくれた傭兵さんには感謝していますし、ある程度の憧れもありますが、僕は戦いに向いていません」
そうかも知れない。息子の頭を撫でているとリンが風呂から出て来た。
妻の服しか女物はないので、それを着て出て来たが、サイズは合っていない。バスタオルで頭髪の水分を拭き取り、裾と袖を捲り上げた。
そこに息子が近付き、手を差し出した。
「僕はランディの息子です。短い期間ですけどよろしくお願いいたします」
差し出された手を暫く眺めたリンだったが、バスタオルから手を離して握り返す。
「リンよ。大尉の息子さんは立派な男の子ね」
そう言って頭を撫でる。
成程、こんな姉なら居ても良いと思えた。息子はリンに興味を持っているが、それは年上の異性という意味ではなく、家族として居た場合の事を指している。リンは自分たちと同じ民族から分派した民族の子供なので、言葉も通じるし、顔立ちも我々に近い。息子には馴染みやすいのだろう。
「ランディ大尉。先程風呂から出て体を拭きながら聞いてしまったのですが、この国は職業選択の自由があるのですね」
息子と一緒に向かいのソファに座りながらリンが言う。革命家の家に引き取られたリンに職業を選択する自由は確かに無かっただろう。
「ああ、あるよ。この国も変わりつつあるからね。自分が子供の頃は軍人になるか農夫になるかくらいしか選べなかったが、今では様々な職業を選ぶ権利がある。この三十五年で作られたシステムだよ。建国の指導者クレイグ大佐が目指した国造りを自分たちはようやく実践出来ているという実感がある。それは五年前に大尉殿たち傭兵がこの国の膿を出し尽くしてくれた結果でもある。シルヴィス・ウィンザール名誉大尉殿には本当に感謝しているよ。この国の民でもない傭兵の手を借りてでも、今の平和が来るならばやらなければならない事だったんだ」
リンはその言葉を口の中で反芻しながら、少し遠い目をした。彼女の居た場所ではそれが出来ずに二十五年もの間内戦が続き、革命指導者ヰガル元国軍中将を失った今でもジャングルの中や高山地帯では政府軍とゲリラが戦い続けている。
「平和。本の中でしか知らない言葉ですけど、シルヴィスに出会って色々話を聞く間にあたしの中でもそれは目指すべき最終目標なんだと思い始めていました。本当はあたしが国際的犯罪者の娘でなければ、この国の今の姿を目に焼き付けたいと思いますけど、それは適いませんよね」
13歳にしては大人びた憂いを宿した少女リンは、溜息をついた。
そこに妻が戻って来る。妻は駆け寄る息子を抱き上げ、頭を撫でた。
「でも、私はあなたが羨ましいわ」
妻はリンのメイド服を洗濯しながら今の会話を聞いていたようだ。
「羨ましいですか?」
リンはちょっと唇を尖らせる。妻は微笑んでそのリンの頭を撫でる。
「そうよ。息子はまだわからないけど、私と夫はこの国から出て他の国を見る事も出来ないわ。それなりの地位に夫がなってしまったし、今この国を出る時でもないと思うから。だけど、あなたはこれから沢山の国を見て回れるわ。だってあなたはあのシルヴィス大尉に付いて回るのでしょう? 危険も沢山あるだろうけど、見聞を広める事もまた可能な筈よ。彼は傭兵だけど、他の方とは違う物を感じたわ」
「シルヴィスを知っているんですか?」
「ええ、この国に住む人間なら誰でも知っている傭兵よ。でも、実際に会って話をさせてもらった人間は少ないでしょうね。彼に会って話を出来た事は私にとって生涯の宝になるでしょうね」
妻は五年前の大尉殿に会っている。マイヤーズの処分が終わった後、ささやかな戦勝パーティを我が家で開いたのだ。グリンウェルが妻と息子を救った時の様子を大尉殿が聞きたがった為でもある。グリンウェルの娘に大尉殿がどんな報告をしたのかまでは判らないが、大尉殿も戦死した傭兵の家族になるべく美談を送りたいと思ったからだろう。民間人を救って盾になって死んだのであれば、家族に報告し易いのも確かだ。自分も部下を無くした時は部下の家族に手紙を書いて報告するが、そういう時は誰でも悩む物だ。
「彼は強いだけの兵士ではないわ。勿論その強さは私の夫よりも断然上だし、行動力も並みの人間ではないわ」
夫を目の前にして事実ではあるが、なんという酷い事を言う。
「あなたは彼とどんな事を話すの?」
「え、普通にあたしの育った土地の話とか、ヰガル様の事とか、あたしの知っている事は何でもです」
「彼は全てを受け入れる人でしょ? 聞き流す事をしない。そしてヰガル元国軍中将の最後の依頼はあなたを無事に逃がす事だったわね?」
「ええ」
少しヰガルの名が出るとリンの顔が曇る。敬愛する主人を失ったのはまだ十一日前だ。
「ではあなたの未来は彼と共にある。ヰガル元国軍中将もお人が悪いわ。だってあなたを無事に逃がすという事は、あなたと最後まで一緒に居てくれと頼んだのと同じ意味よ?」
リンがハッとした顔をして妻の顔を見上げる。
「彼があなたの事をどう思っているかは知らないけど、少なくともその人間の最後の頼みを無碍にする人ではないわ。彼は責任感の強い人。そしてあなたの養父の依頼を受けた。だからあなたはもう彼の家族なのよ。私が羨ましいと言っているのはその事も含めてなの。この際血の繋がりは無意味よ。あなたは元々血の繋がりの無い父親である元国軍中将の元で育てられたのだしね」
「シルヴィスがあたしの家族……」
妻の考えは少々飛躍している気もしたが、大尉殿の性格上そういう考えになるだろう。確かにヰガルは最後まで策士だったようだ。
「でも、シルヴィスには本当に血の繋がりがある妹さんが居るわ。あたしが居たら邪魔なんじゃないかな?」
「彼は既にその妹さんを安全な場所に置いて活動しているのでしょう? だから、後はあなたがどう思うかだけよ」
「シルヴィスがあたしの家族……」
リンはもう一度そう呟いて黙り込んだ。
優しくリンの頭を撫でている妻は本当によく出来た人間だ。こんな紛争地帯の首都に生まれ育ったにしては考え方に偏りが無く、聡明だ。
息子がリンの頭ばかり撫でるのを快く思わなかったらしく、頭を突き出して母親の掌のぬくもりを求めている。この微笑ましい光景も大尉殿が居なければ成立しなかったと自分は思う。建国30周年式典前後の事件は自分の中での人生の転機だった、あの時クレイグ大佐が自分に大尉殿たちの世話役を任じなければ、自分がこうして家族と再会し、一緒に暮らす事も、政府軍の半数を預かるような大任に就く事も無かっただろう。
「努力してみるしかないわ。あたしに頼れるのはもうシルヴィスしか居ないし、先ずはその妹さんに会って認めてもらわなくちゃ。ランディ大尉、この国に日本語の資料はありませんか? 言葉が通じなければコミュニケーションもへったくれもないでしょうから」
その後、自分は国立図書館に出向き、リンの為に日本語の勉強になりそうな物を借りて来て渡す事になった。リンはこの家に最低でも一週間は居なければならないから、勉強期間にするのも良いだろう。
「だが、リン。ひとつ約束してくれないか?」
「なんです?」
「此処にいる間は君も我が家の一員だ。そして家族を護るのは自分の仕事だから、此処に敵が来る事は無い、だから安心して寝なさい」
これは自分のささやかな願いだった。こんな少女までが戦場に出る世界、気を張って眠らない状況にある世界は、少なくとも今のこの国にあってはならない。
「ええ、ありがとうございます。少しあたしも無理していたみたいだから、この家に居る間はそうさせて貰います。シルヴィスと旅をするのは楽しいけど、かなりの強行軍なので、此処で体力を温存しないといけませんからね」
大尉殿は確かにこの国から日本まで十日で行くと言っていた。飛行機を使わずに日本に行くには普通一ヶ月近く掛るだろう。しかもリンは逃亡者なので匿いながらとなると、十日はかなりの速さと言える。リンからの依頼を果たした大尉殿がこの家に戻って来るまでの間、ゆっくり休むと良い。
リンが去ってから五年後、リンはその答えとも言える招待状を自分と妻と息子宛てに寄越した。彼女は大尉殿の家族になれたのだ。




