西区太郎(独り言)
西区太郎(独り言)
素人である洋泉に少し喋り過ぎたかな。
久しぶりの同窓生との電話が終わった後、僕はリクライニングチェアにもたれながら、目を瞑りタバコを吹かしながら、そんな事を思っていた。
この場合の素人という表現が正しいかは考え物だね。
僕のように無免許の医者ではない、受刑者として収監されている六郎とも違うし、更にかなみの兄とも違う。
真っ当な商売人という意味で、洋泉は素人だろう。
しかし、数年とはいっても彼は芸能活動をしていた。結構世界の裏を見てきた筈、彼にとってはそれを見たが故にタレントとしての期間が短くなったと言って良いだろう。
洋泉からかなみの兄についての情報が漏れる事はない。僕の事も六郎の事も。洋泉はかなりのお人好しを演じられる男だね。もし誰かに漏らしたとしても、12年前の事件の再捜査は出来ない。証拠になる物は全て僕が責任を持って処分したからね。そういう意味では洋泉は素人と言うよりは、玄人寄りの素人という表現が正しいかな。まあ、中学生の頃の記憶を消されているだろうから、ああして平気な顔でいられるんだろうけれど。
一応釘を刺すつもりで用意しておいた事務所の社長殺害事件のネタも、簡単に自分から言っちゃうんだもんなぁ。だからといって洋泉の口が軽いって訳じゃない。彼は自然に危険を察知したんだろうね、隠せば僕に弱みを見せる事になる訳だから、そこは僕の会話誘導に問題があったと考えるべきだろう。失敗失敗。
中学の時から、彼は面白い男だった。単純にモノマネだったり、そのキャラクターだったりする訳だけど、その中には結構僕らに近い精神を宿していたんだよね。かなみの事件の時にあの兄は捜索に彼を加えようとしていた。まあ、当時の洋泉って話だけど。だから、何か違和感を覚えながら、彼は襲われている4ヶ月前の洋泉を助けたんだろう。
偶然に?
彼程の男が偶然に人助けをするだろうか? 襲われていたのが僕や妹のかなみであるならばまだしも、12年経って彼は完全に洋泉の事を忘れていた筈だ。しかも一銭の得にもならない。確かに僕と違い、彼は時々損得以外の事で動く事もあるけど、仲間も連れていたのに、何故皆で助けたのだろう? これは彼の不思議能力のひとつなのかも知れないな。
彼は本当に感が鋭いというか、人間の内面を見抜くのが上手というか、洋泉の人の良さと素人ではない部分をかなり見抜いていたようだねぇ。たまにしか札幌に帰って来ないのに、相変わらず事件事故は彼の周囲から無くならないな。
そう考えながら、僕はタバコに火を点ける。僕は愛煙家であるので、電話の最中もタバコを口に咥えている。健康に悪いかどうかは僕自身が決める事だから、他人にとやかく言われる筋合いはないよ。僕の両親も愛煙家だったが、世間で言われるような病気にはならなかったしね、基本的に免許を持つ医者や学者の言う事を僕は信じない。
かなみの父上も相当な愛煙家で、更に大酒飲みだったけど、死因はまったく別だったし、その息子である彼を見ていれば、禁煙や禁酒がいかに意味の無い事かがわかる。
そういえば彼は酒を飲まないな、あの父君の息子である彼がまったく一滴も飲まないのには理由があるんだろうか? 今度訊いてみよう。かなみは飲んでなくともあの通りの娘だし。
今度試しに飲ませてみようかな。
否、そんな事をしてかなみがおかしな事にでもなっては困るね。彼だけでも持て余すのに、六郎にまで命を狙われたら、いくら僕でも逃げ切るのは不可能だからな。
タバコの火を灰皿に押し付けながらもみ消し、僕は机の写真立てにあるスナップに目をやった。
そこに写っているのは僕を含めた四人。もう10年以上前の写真になったので、写真立ての中で相当日焼けしているけれど、四人で写した珍しい写真になる。かなみの兄はある意味恐ろしく無表情な男だが、この写真の彼は笑っている。ま、僕や六郎じゃなきゃ気付かない程微かにだけどね。あの事件の日までは、常にかなみの行く所には彼が居て、僕も六郎も三十朗も居た。この写真はかなみが行きたがったキャンプの時の写真だったな。
こうして昔を懐かしんでいるのも楽しい時間だけど、僕には結構やる事が多い。タバコを一本箱から出し火を点ける。30秒の禁煙タイム終了。
机の上のほぼ全てを占領しているコンピュータの電源を入れ、僕はタバコを吹かしながら起動までの時間を有意義にリクライニングチェアにもたれたまま、その場でクルクル椅子を回して遊ぶ。これは僕の癖のひとつかな。
コンピュータの起動を確認し、電子メールを起動。宛先は無限に登録されているけど、彼にメールを打つ場合は僕の頭の中にあるアドレスを使う。まだ人数は少ないけれど、他人のコンピュータから情報を盗む輩が最近増えだしたから、最大の防御は自分の頭の中に全ての文字を入れてしまう事だ。彼宛てのアドレスは約5時間ごとに更新され、最重要機密のアドレスは30分ごとに更新される。僕個人とのやり取りに使われるアドレスは1時間ごとの更新。今日は最重要機密のアドレスを使う。
内容はかなみの事。
彼と僕のメール内容は簡単な報告形式だけど、彼の家族に関する事は最重要に位置する。彼の職業上、最も漏れていけない事は家族の構成なんだよね。札幌に居る限り、もう12年前のようにかなみを誘拐したり人質にしたりは出来ないと思うけど、家族の事はなるべく伏せるのが、彼の仕事上では重要なんだよね。
一方の彼が登録されている派遣会社の機密が漏れても、あの会社はあまり気にしない、勿論セキュリティもかなり力を入れているけどね。
僕らが重要視する情報は、世間一般に考えられる類の物じゃない事くらいは理解出来ているさ。
机の引き出しを開けると、中にキーボードが入っている。引き出しの横の取手を回すと、引き出しの底がせり上がる仕組み。この机は彼の父君が僕の要望に応え作ってくれたオールオーダーメイドの机なんだ。彼の父君は器用な人だった。キーボードの位置を調整し終わった僕は、いつも通り時計に目をやり時間を確認してから、彼宛ての最重要機密に類するアドレスを打ち込んだ。
一度何も内容を打たずに送信。それから今打った空のメールを完全に削除。数秒で返信が来る。向こうが暇じゃない時はこの返信に40秒くらい掛るので、その場合は、今日はもうメールを打たない。
返信で使用された向こうからのアドレスにいくつかの記号を足し、最重要機密メールを打てるって仕組みなんだよ。
面倒な仕組みだけど、これが最も安全なメールの方法なんだから仕方がないよね。
タイトルはかなみの就職の件。これで通じるだろう。
洋泉は信頼出来る男で、かなみに危害を加えるような輩は客には居ないであろうと推測出来る事。また、そういう客が居た場合は僕が全力で排除する事。
かなみの今年の誕生日には、仕事を入れずに一度帰国して欲しいという要望。
六郎の最近の手紙から受ける僕の印象と精神状態の推測。
次に彼に回ってきそうな仕事に関する情報。
これらを簡潔に記し、送信ボタンを押す。
15秒で返信が来た。
『就職の件、御苦労様。考慮する。六郎は元気そうで何より。情報感謝する。』
終わり。直接会う時以外の彼の電子メールはいつもこの調子、今何処に居るのかさえ書いていない。今回の返事で珍しいのは『考慮する』って書いてある事、彼は判断のハッキリした男なので、曖昧な表現を使うのは珍しいんだ。
かなみの誕生日の件についての返答は毎年結構曖昧かも知れないけど、ここまで曖昧なのは久し振りだった。まあ、今年の誕生日はかなみの17歳の誕生日だからね。感慨もひとしおって所なんだろう。
ふうん、彼にしては珍しく前向きな方向だね。まあ、見た目から彼が後ろ向きだと考える人は多いけど、結構前向きな性格ではあるんだよね。そうでなくては『傭兵』なんて職業やってられないもんね。
4ヶ月程前、洋泉が路上強盗に会う一週間前の大仕事、大規模軍事作戦に紛れ現地兵士に化け、独裁者を暗殺する事に成功した彼の顔を知る者は仲間と僕以外には殆ど居ない。実績を作った彼に次回って来る仕事の予想はし易いんだ。ま、その間にも部隊行動ではなく単独でのスパイ紛いの仕事が数件入っていたし、短期契約の傭兵仕事も入っていたんだけど、彼にはそんなの仕事の内にも入らない。僕の情報が無くともこなせる仕事って訳さ。でも、今赴任している国の建国30周年式典は何やら怪しい情報が飛び回っているけどね。まあ、それに備えた情報は前に送ってあるから、これも彼なら難無くこなすだろう。噂話程度の情報は返って邪魔になるから僕は送らない。
今回送った情報は多分大仕事になるだろうって、僕が勝手に思い込んでいるだけなんだけど、僕の予想は結構当たる。
中東のある国で作ってもいない細菌兵器の噂を流されている国があるんだけど、噂の出所が世界の警察を名乗る国家からだから、多分近い内に戦争するつもりなんだろう。困った国だけど、彼の所属する派遣会社はその国と懇意にしている。基本的に頼まれればブッキングしない限りは仕事を受けてしまう会社だから、彼がどちらの陣営に所属しても問題ないように僕は情報を送る。二次大戦以降、独裁国家は悪だというレッテルが世界中に貼られているので、基本的に今回彼の仕事になるのはそっちだろう。半年前の実績があるからね。中東の国は結構安穏としていて、諜報戦には長けていないから、多分敵視はしていても自国が攻められる可能性については低いと見ているんじゃないかな。だから傭兵なんて雇う気も無い。ついでに言うと彼らは自分たちの国の兵力が最も強いと思っているのも事実だ。だから彼に依頼が来る可能性は低い。
一方の世界の警察さんは、表裏がくっきりと分かれた国で、彼に仕事を依頼する可能性が高い。表立っての軍事行動に紛れ、指導者の暗殺を企てるのは結構よくある話。
前回もそうだったしね。
前回失敗だったのは、暗殺が表に出てしまった事くらいだね。本当は空爆に紛れ、戦死した事にする手筈だったんだけど、彼の仕事が早過ぎて、首都空爆が間に合わなかったんだよね。
だから今回は慎重に事を進めるだろう。世界の警察さんもバカじゃないから。しかし、独裁者の生け捕りなんて彼に出来るだろうか、だって彼は強過ぎるからね。
僕の集めた情報は簡単に言うと中東の国の詳細な地図と、市街地の地図、独裁者さんの住む宮殿の詳細な設計図と出身地の地図、あとは宮殿内の人員配置と見張りの交代時間、彼の傍にいつも居る用心棒的な兵士の特徴と所有武器の種類。これくらいの情報だけど、彼には充分だろう。なんといっても彼は戦闘に関してはプロ中のプロだからね。
ついでに独裁者さんが懇意にしている国のプロフィールと同宗教の構成員の多い組織の人員表も送った。コンピュータが発達してくれたお陰で、結構この手の情報は簡単に掴めるようになったのは、僕にとっては有難い事だ、調べ事が殆ど自宅で出来るようになったからね。10年前は自分の足で情報を稼がなくちゃいけなかったから、大変だったんだよ。5年間世界中放浪する羽目になったし、結構危ない目にもあったもの。それでいて帰って来てかなみの看病もしなきゃならなかったから、そりゃあ大変だったのさ。体が三つくらい欲しかった時期もあったんだよね。
彼の勤める会社はかなり業界でも出来る方なんだけど、彼自身が欲しい情報に関しては結構曖昧な所もあるので、結局僕が自分で調べた情報を渡すのが主流になってしまった。迂闊にコンピュータなど学ぶ物ではないよね。期待されるのは嬉しいけど、僕もこの家の留守を護らなければならないから、彼程ではないけど、足で情報稼ぎをしている時は忙しくて嫌だったなぁ。
5年程前、彼がある有名な傭兵から名前を受け継いでからは、かなり楽になったけどね。その有名な傭兵が使っていた情報網がそのまんま使えたからさ。だから今は僕の情報は彼がその情報の確認作業に使うくらいにまでレベルが下がったから、調度良い具合に諜報活動は暇になったんだ。
かなみの状態もかなり良くなったしね。
よく勘違いされるけど、僕はかなみの頭の内容を診察している訳ではないよ。調べてはいるけどね。主に僕が診ているのは彼女の体。12年前の事件の時にこれ以上ないくらい壊れたのは体の方だったんだよね。かなみの頭の中身は確かに迷宮レベルだけど、実は僕より頭が良いくらいなんだ。普段の言動や表情からはまったく理解できないだろうけど、彼女は普通の高校を首席で卒業している。中学の進路指導の先生が、かなみを特別学級に編入しようとした時は怒ったものだ。結局反対を押し切って受験した道内屈指の私立女子高に一発で合格したしね。僕が後で調べたら、受験用の難問テストが全て満点だったくらいだからね。金銭的には余裕もあったから、裏口入学でも構わなかったんだけど、彼女は勉強させたら誰にも負けない。だから大学も考えたんだけど、本人が女の子は高卒で良いって言うから、行かせなかっただけだからね。僕の生涯の研究テーマが彼女の頭の中の詳細に決まったのもこの頃かな。洋泉の所に持って行かせた履歴書を見れば、字は相変わらず苦手みたいだけど、テストの解答用紙に書く時と普段の字がまったく別だというのも、かなり不思議な現象だけどね。かなみの中ではテストと普段は別の世界らしいよ。
新入生がいきなり生徒会長になったのも、あの学校始まって以来の事だったかな。
そう言えば、かなみと同じ学年に居たあの和菓子みたいな名前の女の子は元気だろうか。帰国子女で見た目自体が秀才で、実際勉強も出来て、かなみのライバルだった娘だ。かなみは最初から友達だと言っていたけどね。彼女たちが高校二年の時に起きた事件であの娘は結局かなみに助けられているし、調べてみたらその兄である彼にも一度命を救われているんだったな。あの兄妹に助けられた人間はその後結構幸せに暮らしている人が多いけど、彼女はどうなったのかな。今度調べてみよう。
暫くコンピュータの画面を見つめていたけど、これ以上彼からの返信は無さそうだ。先程の情報分と返信分を削除して、彼との今日の仕事は終わり。
回線を遮断しながら、今晩のおかずについて考える。かなみは料理というものがまったく出来ないから、必然的に食事の用意は僕がする事になる。この家にはお手伝いさんはいないからね。
お手伝いさんか。
それも良い手だな。今度彼に相談してみよう。かなみの世話をするのに雇うと言えば、彼も文句は無いだろうし、僕が楽をしたいからだとバレなければ問題ないさ。
僕が面倒なのも確かだけど、かなみも年齢的には大人だし、同性の友人が欲しいだろう。どうせ僕とかなみだけしかこの家には住んでいないのだし、部屋も空いているから、なんなら住み込みの家政婦さんが良いな。
なんて考えていても、突然実現する訳もないので、僕は諦めてリクライニングチェアから立ち上がり、冷蔵庫の中身を確かめる為に台所に向かう。冷凍庫のドアを開けて、中から袋に入った味付けジンギスカンを出す。北海道の人間がそんなに新鮮な羊肉ばかり食べている訳ではないって事。僕はもっぱらこの冷凍味付けジンギスカンだ。ジンギスカン用のタレに浸かっている肉が袋詰めされているんだけど、製造会社によっては結構美味しい。
野菜も一緒に炒めれば、味付けも要らないから、かなり便利。言っておくけど、僕は男だからね。料理に関しては大雑把な人間だよ。
シンクに伏せてあったタライに水を張り、袋のまま入れる、お湯は使わない。しばらく放置すれば解凍完了。その間に冷蔵庫から野菜を出して切る。僕も一応男なんでね、切り方が歪なのはご勘弁。ニンジン、玉ねぎ、ピーマン、モヤシ、後はカボチャ、ザクザク切って鍋に放り込む。水は少な目弱火で下茹でし、ザルに開けておく。これにトウモロコシを切って一緒に焼くのをよく見掛けるけど、僕には意味がわからない。トウモロコシは茹でるのが一番美味しいと僕が思っているからだけどね。ちなみにタレを付けて焼いた物が売っているけど、あれの意味もよくわからないな、とうもろこし自体の味が死んでいる気がするので、僕はあれも嫌いだ。
ジンギスカン用の鍋も勿論あるんだけど、あれは洗うのが手間でね。僕はフライパンで焼く、肉を焼く前に野菜を入れ、解凍した袋から肉を出さずにタレだけフライパンに入れて焼く、殆ど煮ていると言ってもいいかな。水分が飛んだら肉を入れてフライパンの中で野菜と一緒に踊らせる。あんまり火を通し過ぎると堅くて嫌なので、これは僕の好みだが、肉はさらっと焼く。
見た目はチンジャオロースーみたいなジンギスカン出来上がり。とうもろこしの味付きは嫌なんだけど、カボチャはちょっと浸み過ぎなくらいが僕の好みだ。
かなみが帰って来るまでの時間を見計らい、電気炊飯器でお米を炊く。その間にジャガイモの皮を剝いて、これも適当な大きさに切る。鍋で味噌を溶きながら、崩れない程度にジャガイモを煮込む。この前患者さんに貰った乾燥ワカメがあったので、最後に放り込んで、味噌汁完成。
適当な皿にジンギスカンをドッサリ盛り、これも洗い物を少なくするために一皿。二人分の箸を用意して、あとはかなみが帰るのを待つ。
換気扇を回して臭いを外に出す。煙らない様にしているつもりでも、このジンギスカンという奴は結構煙る。これを良い匂いと思う人間も居れば、臭いという人間も居る、僕らは生まれた時から北海道に住んでいるから、何も感じないけどね。
作り終わってから思ったんだけど、かなみは早ければ明日から仕事を始める事になるんだよね、洋泉がそんなに性急な男とも思わないけど、かなみのやる気を尊重するならば、明日からがベストだろう、その前日にジンギスカンは不味かったかな。それに、お祝いは必要だろう。
そんなしょうもない事を思いながら、電話に手が伸びる。近所の花屋と洋菓子屋に電話し、花を洋泉の店に送る手配をし、ケーキをワンホールこの家に配達するよう依頼した。
両隣の知り合いと斜向かいの六郎の兄に電話し、かなみの就職祝いをやるので、今晩の予定を開けてくれるように頼む。台所に戻って別の料理を作り始める、人数が増えた分、料理も増やさなきゃ。
ニンジンの皮を剝いている最中にもう一つ思い出し、電話する。僕とかなみは殆ど酒を飲まないけど、呼んだ人々は飲むから、酒屋にビール1ダース、日本酒一升、ウィスキー一瓶、ワインの上等なのがあれば5本、焼酎は飲む人が居ないので頼まない。つまみに鮭とばを一本頼み、ビールの銘柄はサッポロ黒でよろしく。
冷凍庫の製氷皿をチェックして、足りないようなので、新しく作る。
リクライニングチェアを奥の座敷に片付け、コンピュータの乗った机を壁際に寄せてピアノ用の布を掛ける。奥の座敷に置いてある来客用のテーブルを運んで、ソファも座敷から運ぶ、5,6人用の我が家の態勢はこれで完了。台所に戻り、先程のジンギスカンを運び、箸は割り箸に変更。鮭とばだけではつまみに不安があるので、ソーセージを茹で、ついでにジャガイモとニンジンを付け合わせる。味噌汁は明日の朝用に変更。鶏肉を捌いて唐揚げを作る準備。そんな事をしている間に洋菓子屋の配達が到着、近所だから早い。続いて酒屋がアルバイトの少年と共に現れ、注文通りの品を玄関に置いて行く。これも近所の酒屋だから顔見知りで、僕の注文にはかなりの優先権が発動される。
本当は彼が居れば良いのだけど、彼は日本から遠く離れた空の下だからね。札幌の澄んだ空とは違う、火薬と爆煙の匂い漂う戦場の只中、或いは戦闘の収まった夜間の狭いテントの中かも知れない。
鍋に油を多目に敷き、温めながら、キャベツを千切り。
近所に住む連中は殆ど肉食獣なので、野菜はかなり少な目に調節、残ったらもったいないからね。
唐揚げが終わった時点でこれまた近所の寿司屋に電話、かなみの好きなネタだけ多目に、八人前注文。
あらかた準備を終え、時計に目をやると夕方5時、多分面接後街中で買い物しまくって大変な量の服を買ったかなみがそろそろ帰って来るだろうから、それを迎えに近所のバス停まで行く。
よく僕の事を引き籠りだと言う人がいるけど、僕は外に出ない訳じゃないよ。極力出ないだけさ。情報を求めて世界中を飛び回った5年間で僕の外出用のスキルは殆ど使い果たされちゃったんだよね。そう言うと皆笑うけど、本当に大変だったんだよ、特に紛争地帯の下見はね。あれはもうこりごりだよ。
かなみは両腕に持ち切れない程の袋を抱え、バスから降りて来た。
半分程持ち、自宅に戻ると、呼んでおいた近所の人間が既に玄関先に集まり始めていた。
僕は彼に感謝の意を込めながら呟く。なんといっても彼の稼いだお金の殆どを僕とかなみが使っているのだからね。
「シルヴィス、君に幸あれ」