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一般向けのエッセイ

綿矢りさと太宰治

 


 綿矢りさ原作のドラマが公開される関係だからだろうが、ヤフーのトップで綿矢りさのインタビューを二回くらい読んだ。


 綿矢りさという作家は、いい作家とも言えるし、それほどでもないと言えるし、どっちにしろ破綻する事が不可能な作家に見える。破綻する、大きく挫折するというのにも大きな才能がいるかもしれない。綿矢りさは、インタビューの中で影響を受けた作家として太宰の名を上げていた。ちょっと引用してみよう。


 「太宰は家庭が幸福で小説が書けるわけない、というスタンスだったので、私はどうしたらいいのかわかりません(笑い)。30代で結婚して子供ができて、今がすごく幸せなので、小説を書きながら長生きしたいですね」


 このインタビュー、この会話、こうした言葉というものには裏というものがない。素直な言葉だ。だから、僕のようにひねくれた人間はついその後ろを覗いてしまいたくなるが、実際にはそこには何もない。


 太宰治は晩年、「家庭の幸福は諸悪の基」という極端な倫理を打ち出した。これは太宰らしい逆説的な言葉だが、本音でもあっただろう。通常、こういう事は常識人は問題にしない。一般常識に抵触するから。


 僕は作家というものは、一般の人が無視したり、軽蔑したり、唾棄したりするものに価値を見出すのが仕事の一つではないかと思っている。が、今の文学は健全化した。綿矢りさはその流れにいる。だから、こういう時、綿矢りさは太宰治を対岸の人とみなす。そして僕たちはどちらかと言えば、綿矢りさの側につく。対岸の火事を見るような気分で、自分はああなりたくはない、たとえ平凡(才能がなくても)でも幸福でありたいと願う。


 「家庭の幸福は諸悪の基」とは家族的エゴイズムの問題を指している。僕の見る所では、裏側からこの問題を宮沢賢治も志向していた。宮沢にとっても、太宰にとっても問題は「神」であり、家族ではないのだった。そして家族と神、個人的な情愛と、神への愛ーーすなわち、人類共同の精神、愛、そういう大きなものと小さな、個人的な情愛を天秤にかけた時、彼らは(おそらく)苦渋の決断を持って神を選んだ。婚約者を捨てて神に服したキルケゴールなどにもそうした問題があったと思う。


 家族的情愛はたやすく、家族的エゴイズムへと変化する。そこで、川におぼれている自分の子供と、よその子供、どっちか一人を助けられるならどっちを助けるかかという原始的な問いが舞い戻ってくる。家族は素晴らしい、家族は大切だというのは容易い。しかし、では家族以外の人間に対してはいかに事に当たるのか、家族のために家族外の人間を犠牲にしてもいいのか、という問いが次に出て来る。こういう問題を常識は掘り下げない。綿矢りさも掘り下げない。


 苦悩とか悲惨を「外」において、「内」のみが幸福であればいいのか、という問いは作家を苦しい場所に置く。伊藤計劃もまた、消費社会の「外」を絶えずイメージしていた。内の世界の安定が計られるために、外の世界を滅茶苦茶にしても良いのかどうか。ここでは作家的想像力は、人間の生ーー集団と個との関係ーー一般常識では計られない倫理ーーを計量するために用いられていた。人間の極限を志向するために、文体や想像力は用いられた。


 こういう場合、「内部」にいて、外を志向しない作家には、そもそも「外」という言葉の意味自体がわからない。だから、彼らの作品は外部を欠いているが、それは彼らの作品に欠如感を与えない。彼らは満足している。「30代で結婚して子供ができて、今がすごく幸せなので、小説を書きながら長生きしたいですね」という以上の言葉は出てこない。内部にいて、内部から一度も出た事がなく、外部の意味も、世界の臨界点も想定されない意識には、世界は完全なものとしてある。彼らに少しも物欲しそうな所がないという事が、彼らの才能の所在を示しているのだろう。世界に穴は空いていない。「世界」と想定するような事すらない。ただ、日常がある。自分がいて、家族がある。テロはどっかの誰かが何とかしてくれればいいし、後は知ったことではない。だが、残念なのは、「知ったことではない」と捨て台詞を吐く事すらできないほど緊縛された精神の有り様だ。


 綿矢りさが太宰治に影響を受けたーーと出ているので太宰と比較するが、そうなると、綿矢りさという人は幸福で、太宰治という人は不幸な人生を送った(ている)と、言えてしまうだろう。元々、太宰には不幸な自意識があって、彼は絶えず、自分の中の不幸、欠如感と戦っていた。それが、彼以外の人間にも影響を及ぼす事になったのだが、綿矢りさはそうではない。ここでの違いを考えてみると、作家としての才能の違いというより、自己というものが比較的安定している少女がある時を契機に「文学」に触れてみたという才能の有り様と、自分そのものが常に崩れかかった弱小の男がなんとか自分を文学で成り立たせようとしているーーそういう違いなのではないかという気がしてくる。


 幸不幸という問題は、いずれは思想に行き着き、最終的には信仰の問題に絡んでくる。現実は、現実に埋没している限り問題とならないが、それについて考えだすと、ただ現実のみにとどまらない事柄となっていく。しかし、今は思想も信仰も、神も必要とはされていない。現代は瞬間の自分、日常の自己を神とした時代であるから、作家もそれを無条件に受け取り、執筆活動をする。綿矢りさにとって全てである事は、太宰にとっては全てではなかった。だからこそ、太宰の意識は「不幸」に導かれるわけだが、それを説明する事は難しいだろう。ただ、僕はそこに精神の量の差異を見たい。偉大さがよく不幸な現実とともに現れてくるのは、彼らに欠乏があったからではなく、むしろ、現実の総量を上回る精神があったからだと感じる。今では、そんな精神は現れ得ない。なぜなら、この世界は世界として、絶えず、外部を排除する意向に満ちているからだ。綿矢りさはそんな意向に沿って作家活動をしている。彼女はこれまでもこれからも幸福であり続けるだろう。そして、太宰治や宮沢賢治は永遠に、対岸の出来事として縁遠いものに映るだろう。

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