34話 林堂 志鶴 3
「!?」
危うくファイルを取り落としそうになる。
「な、なんで……」
なんで、林堂先生の口からその名前が。
予想だにしていなかった流れに言葉が出ず、俺はただただ呆気に取られて林堂先生を見つめることしかできなかった。
そんな俺の反応をからかうように、林堂先生は目を細めた。
「ふふふ、びっくりした? 柊くんに聞いたんだよ」
「!? あいつに……?」
朝田稔の件について触れられるのを極度に嫌がっていた柊が、自主的に口を開くとも思えない。
いや、例え尋ねられたとしても意地でも喋りそうにないが。
俄かには信じられずリアクションに困っていると、林堂先生は視線を緩やかに逸らした。
「まあ、聞いたというか……詰問したというか……」
「詰問って」
「……大丈夫、ギリセーフなラインだからさ!」
「何がです!?」
晴れやかな笑顔で親指を立てる林堂先生。
生徒への行いに「ギリセーフ」という線引きの段階を設けている時点で、何も大丈夫ではないだろう。
「そんなことよりも、チェックしなくて良いの? それ」
それ、と言いながら指差したのは、俺の手元のファイル。
「……」
林堂先生への疑問は多々残るが、取り敢えず示されるままに一冊のファイルを開いてみる。
無作為に手に取ったそれは、名簿の表記によるとどうやら五年前のものらしかった。
一枚目の名簿に視線を滑らせて一通り確認するも、朝田稔の名前は見当たらなかった。
無論これは何十枚もある中の一枚なので、初っ端から見付かる確率の方が遥かに低いが、この要領で探していけばすぐに見付けられるだろう。
名簿の枚数自体は膨大だが、何もその全てに目を通す必要は無い。
朝田稔は三年生の時に自殺した。
転入などの可能性を視野に入れても、まず三年生の名簿には名前が載っているだろう。
毎年度の三年生にだけ絞って探せば良い。
それに名簿は出席番号順だ。
本腰を入れて調べれば、朝田稔が何年度の何組の生徒であったかなど、容易に分かるだろう。
分かるだろう、が──
「あの、すいません……話の本筋が見えないんですけど、これは一体何のために……?」
俺はおずおずと林堂先生に訊ねた。
こんな些細な朝田稔の情報を暴いて、何になるというのだろう。
先程「きみの助けにもなる」などと言っていたが、その辺りとの繋がりもいまいち見えてこない。
「なんだ小森くん、まだ分からねえの?」
嘲るような笑みで俺を見下す林堂先生。
少々イラッとしなくもないが、分からないのは事実なのだから仕方ない。
「はあ、まあ……分かんないですね」
「ふふーん、じゃあそんなきみに先生がヒントをやろう」
林堂先生は教壇に立つと教卓に左手をついて身を乗り出し、右手を俺に向かって突き出した。
「ヒント1!」
言いながら、人差し指を立てる。
「朝田ちゃんとやらが化けで出るようになった理由は──家族が花を供えに来なくなったからなんだよな?」
「ああ、言ってましたね」
そんなことまで柊から聞いたのか。
流石林堂先生だ。
詰問に抜かりがない。
「ヒント2!」
次いで、先生はピースサインの要領で指を二本立てた。
「私は教師だ。何年度の何年何組の生徒かさえ判れば、当時の情報くらい簡単に引っ張り出してこれる。こっそり個人プロフィールとかも持ってこれるかもしれない。朝田ちゃんの身長体重健康状態から──住所や家族構成まで」
「あっ……」
漸く林堂先生の言わんとしていることが理解できた。
先生は朝田稔が部室棟に現れるようになった理由、その根本に目を付けたのだ。
「そうか……何も朝田稔の要求を飲まなくても……」
「そ。普通に家族に来てもらえば良いじゃんって話だ。まあこんな噂を信じてくれるかも分かんないけど、家族が姿見せなくなった理由くらい、知っといて損は無いんじゃねえか?」
「な、なるほど……」
急に話のスケールが大きくなって少し戸惑いを覚えるが、確かにそれが一番合理的かもしれない。
林堂先生も言っていた通り「あなたの娘さんが化けて出て迷惑なので献花を続けてください」と家族に直談判に行くのは、確かに余り現実的な策ではないだろう。
だが、具体的な解決案も無く部室棟の出入りも禁じられた今、このまま足踏みしていてもどうにもならない。
情報を集める内に見えてくることもあるかもしれないし、何もしないよりずっとマシだろう。
「どうよ? 役立ちそうだろ?」
「はい! ありがとうございます」
教卓に肘を突いて寛ぐ林堂先生に頭を下げると、改めて手元のファイルに目を落とした。
活路が見出せたお陰か、先程までより心なしか軽く感じる。
今日これを全て持ち帰るとして――明日までにはきっと調べ終わるだろう。
考えを巡らせつつ席を立って鞄にファイルを入れようとしたとき。
「あ、ストップ」
林堂先生が掌を掲げて俺に向けた。
「?」
鞄を右手で開け、ファイルを左手に抱えたままの状態で、俺はぴたりと動きを止める。
先生は髪をかき上げながら、困ったように言った。
「忘れてたけど、その名簿持ち出されちゃ困るんだよね。バレたらまずいことになるから」
「ああ……そっか」
言われて納得する。
このファイルは言わば個人情報の塊だ。
教師が生徒の情報を勝手に流出したと知られれば、大変なことになるだろう。
「え、じゃあどうすれば……」
「うーん……」
当惑して林堂先生に視線を送ると、彼女は腕を組んで暫し考え込んだ後、吹っ切れたように言った。
「そだな、ここで全部調べちゃおうか」
「えっ……今からですか?」
訊ねながら窓の外を見れば、もう薄暗くなってきている。
なんだこれ、昨日もこんな感じだったぞ。
「だってしょーがねーじゃん……明日になったら私、多分気が変わってるぜ?」
言いながら先生は教室の灯りを点ける。
蛍光灯が光り、教室全体を明るく照らした。
ずっと居たので気付かなかったが、いつの間にか教室は相当暗くなっていたようだ。
強い光が少し眩しくて目を細める。
「ほら、それちょっと寄越せ。私も手伝ってやるから」
俺が言われるままに数冊手渡すと、林堂先生は椅子に腰掛けてファイルを捲り始めた。
どうやら俺も腹を決めるしかなさそうだ。
今日はもう色々疲れたので出来る事なら日を改めたいものだが、それまでに先生の気が変わっては困る。
彼女の言うことだ、冗談の類ではなく本当に気が変わる可能性もあるのだろう。
俺も席に座り直すと、手近なファイルを手に取った。
※
調べ始めると意外と早く進むもので、ものの十数分で俺は手元のファイルを全て確認し終えた。
だがどうやら外れだったようで、確認した名簿には朝田稔の名前は無かった。
そうすると、必然的に林堂先生の方にあることになる。
先生の様子を窺うと、まだファイルに目を通している途中だった。
手伝おうと思い声をかけようとすると、先生の手の中のファイルがぱたりと閉じられた。
顔を上げた先生が、俺の視線に気付く。
「ん? どうした小森くん。私の方には無かったけど」
「え?」
きょとんとして首を傾げる林堂先生に、首を傾げ返してしまう。
暫く二人で呆気にとられた後、林堂先生が口を開いた。
「もしかして……そっちにも無かったのか?」
「……はい」
「……」
再び沈黙が下りる。
一拍間を置いて、またも林堂先生の方が声を上げた。
「いやいやいや! 小森くん絶対見落としただけでしょ!」
びしっと指を指されて少しむっとする。
俺も負けじと言い返した。
「俺はちゃんと確認しましたよ! 先生こそ見落としたんじゃないですか?」
「は? 私に非があるってか」
「あっすいません多分俺のミスなんですぐ確認します」
一オクターブ下げた声音で凄まれ、本能的な恐怖を感じた。
素直に謝って二周目の名簿確認作業を開始する。
理不尽に屈するのも処世術の一つだ。
実際、本当に俺が見落としただけなのかもしれない。
それならそれで良い。
というかこれ以上面倒なことになるのは嫌なので、そうであって欲しい。
心の中でそう願いながら、俺は先程よりも注意深く名簿を確認する。
一周目では目を通さなかった他学年の欄や、出席番号の後半にも目を通す。
だが、俺の願いも虚しく朝田稔の名前はどこにも見当たらなかった。
「……う、すいません先生、やっぱり無いです……」
恐る恐る申告しつつ林堂先生を窺い見ると、彼女もまた二周目に突入していた。
俺の言葉の聞いて、難しい表情を浮かべている。
「……私の方にもねえな……となると、これ以前の年度の生徒か? あの部室棟ができたのは確か……」
何やら呟きながら席を立った林堂先生は、教室の段ボール箱を片っ端から開け始めた。
三箱めで目的のものを見つけたようで、一抱えほどのサイズの箱を俺のところまで運んできた。
「……更に十年遡ってみるか。あの部室棟はああ見えて二十年前に作られたもんだ。あそこで死んだってんなら、今度こそ見つかるだろ」
「十年以上前ってなると、噂とはちょっと食い違いますけど……」
「うるせぇ、現に見つかんなかったんだからしょうがねぇじゃん。あーちくしょ、下手したら朝田ちゃん年上か……」
言いながらファイルを次々引っ張り出していく林堂先生。
慌てて俺も手伝う。
朝田稔が自殺したのは、数年前という話だった。
具体的に何年前とは聞いてはいなかったが、柊が「数年前」と口にしたとき、その場にいた朝田稔本人は否定しなかった。
もちろん大して話の根幹に関わることでもないので敢えて否定する必要も無いのだが……。
それに、朝田稔の家族は月命日には必ず花を供えに来ていたという。
十年以上、毎月欠かさず?
それが、頻度が変わるわけでもなく急にぴたりと来なくなった?
引っ越しなどの止むを得ない事情があったとしても、せめて年に数回は来るだろう。
様々な違和感と嫌な予感を胸中に抱えつつも、俺は名簿の確認作業に入った。
※
嫌な予感は的中した。
過去二十年間の名簿をどれだけ調べても、朝田稔の名前が出てくることは無かった。
すっかり日が暮れた教室の中で、俺と林堂先生は放心状態で椅子に座り込んでいた。
「はぁ……なんか、無駄な時間過ごしちまったな」
気怠げに先生が呟く。
「結局あれか、ただの噂だったってことか。中学のガキの言う事を信じるもんじゃねぇな」
そう言い残すと、林堂先生は椅子から立ち上がるとトートバッグを手に教室の扉を開けた。
そして肩越しに俺を振り向く。
「悪いな、小森くん。付き合わせちまって。教室の後片付けは明日私がやっとくからさ、きみももう帰んなよ」
「…………はい」
俺が辛うじて返事を返すと、林堂先生は教室を去って行った。
静かな廊下を足音が遠ざかる。
それすらも聞こえなくなり、完全な静寂が教室を包み始めた頃、漸く頭が働き始めた。
「……ただの、噂?」
誰も居なくなった教室で、先程の先生の言葉を反芻する。
ただの噂。
そんなわけがない。
俺は実際に朝田稔に会って、話した。
俺だけじゃない、柊だってそうだ。
あれはただの噂話ではない。
あるはずがない。
それは確かだ。
確か、だが――
『朝田稔』という名前の生徒がこの学校に存在しないのも、また事実だった。




