2話 白樺 雪 2
「なあ雪、もう無理だ」
「え……でも……」
「諦めよう」
「そ……そんなのだめ、だ」
「いや、でもなぁ……」
少し古びた木造アパート。その一室、104号室。俺と同じくこの春から一人暮らしを始めたという、雪の自室である。
そのワンルームのど真ん中で、俺と雪は向かい合って座っていた。
「雪、今日はもう学校サボろう」
「……! そ、それは……まだ入学した、ばっかりだし……」
「ああ……俺もそう思う。入学したてのこの時期に目立ったことすると教師に目を付けられる。だから俺は今日、遅刻することが無いように早起きした」
「う……うん……」
「そしてお前の家に来た……7時半にだ」
「うん……」
「そしたらお前はまだ寝てたんだったよな?」
「う……ご、ごめん……宗哉……」
「いや、その時点ではまだ時間に余裕があったから良かった。起こせば起きると思って俺はお前を起こしにかかった」
「……ぅ…………」
「だがお前は頑なに起きなかった。梃子でも動かなかった。そして時間だけが経っていった」
「……………………」
雪は申し訳なさそうに俯いて黙り込んだ。
「………今何時だ? 言ってみろ、雪」
俺の問いに、しんと室内は静まり返った。
雪は下を向いたまま何も言おうとしない。
だが、俺も引き下がるつもりは無い。
重苦しい沈黙が場を支配すること十数秒、漸く雪がおずおずと口を開いた。
「十二時、は……半……」
「そうだよ! 十二時半なんだよ! 起床から登校の準備整えるまでに何時間浪費するつもりだお前は! 今から行っても遅刻ってレベルじゃねえぞ!?」
「ご、ごめん……なさい…………その、テレビで……三時から五時まで……ホラー特集やってて…………」
「その時間帯ならもう諦めろよ! 録画しろ録画! つかテレビ局も何で四月上旬の午前三時から五時にかけてホラー特集を組んだんだ!? 客層はどこだよ!?」
ツッコミ所が多すぎて飽和状態だ。
一通り指摘しきって、ぜいぜいと肩で息をしていると、ふと気付いた。
「ん……? でもお前、五時に寝たとすると別に今の今まで寝る必要は無かったんじゃないか?」
「ああ……ぼ、僕……最低十時間、は毎日寝てるん…………だ…………zzzz……」
「寝るなぁあああ!! そして幼児の睡眠時間だそれは!」
そして俺は再び雪を叩き起こす羽目になった。
※
悪夢のような入学式から5日。見ての通り、俺と雪の距離は多いに縮まった。
友人として仲良くなった、というよりは、俺がひたすらに雪の世話を焼く形となっている。
雪は生活力の無さが尋常では無かった。朝は俺が起こしに行かない限りいつまでも寝ている。徒歩数十分の通学路でも、隙を見て寝ている。学校では常にぼーっとどこか遠くを眺めている。こんな人間に一人暮らしをさせるとは。こいつの両親は正気なのか。
学校への道を進みながら――結局雪に押し負けて午後からでも登校することになった――、俺は隣を歩く雪を見上げた。
雪は目測175cmくらいの身長で体格はやや細め。長い前髪で顔は隠れているが、なかなか整った顔立ちをしている。
対して俺は、中二から1cmも身長が伸びておらず、今現在雪との身長差はゆうに10cmを超えている。顔は……うん、垢抜けない顔だとよく言われる。
外見だけ切り取れば明らかに俺より友達が多そうだし、何ならモテそうでもあるのだが、その野生動物のような奔放な生き様のせいか、全く人が寄り付かない。
本当に変な奴だ。よく今まで生きてこれたものだ。
学校に着くと、まだギリギリ昼休みだった。俺達はいそいそとそれぞれの席に着く。
雪の席は俺の三つ前。後数分で授業が始まるとはいえ、まだ昼休み内ということもあり、教室は未だざわついている。だが、雪はそんなことを気にする様子も無く、席に座って虚空を眺めていた。
一体何が見えているというんだ。
※
放課後。
入学後5日目で大遅刻をかました俺達は、一通り担任に小言を言われてから家路に着いた。
「しかしあれだな、もっと怒られるかと思ったけどそうでもなかったな」
「………………………………(コクリ)」
「二,三分で終わったよなあ、さすが不良校だ。いちいち怒ってちゃキリが無いって事か」
「……………………………(コクリ)」
俺と雪は喋りながら(と言うか一方的に語りかけながら)帰り道を歩いていた。
午後四時、閑静な住宅街。ここに越してきてまだ日は浅いが、なかなか住みよい街だ。静かで、こんな時間帯でも聞こえてくる音は、鴉の鳴き声と車の走行音、それと何処か遠くで走る電車の音くらいのもので――――
…………?
俺は言い知れぬ違和感を覚え、ふと足を止めた。
最初は耳鳴りのようなものだった。
だが、徐々にそれは大きく、明瞭になって行く。
……泣き声、だった。
子供の泣き声が聞こえてきたのだ。
少女の声だと、何故か直感的に分かった。
「……どうしたんだろうな?」
「? ……何、が?」
雪は突然足を止めた俺を、不思議がるように見ていた。
「泣き声だよ。聞こえるだろ?」
雪は耳を澄ませるように目を瞑り、暫く黙った後、ゆっくりと首を横に振った。
「……聞こえ、ない……」
「……!」
口の中に何か苦いものが広がった。
雪には聞こえない声。俺にしか、聞こえない声。
それらが指す事実は、一つ。
この声の主は、生きている人間ではない。
……正直、聞かなかった事にして帰りたかった。
響いてくる声は、どこまでも暗く、悲しそうで、聞くに堪えない。
だが――
『可哀そうな人たちを助けてあげて』
――見捨てられるほど、俺の心は強くなかった。
「……宗哉……?」
雪が訝し気に俺の顔を覗き込む。
「悪い、雪。先帰っててくれ」
俺は雪の返事を待たず、声のする方向に向けて駆け出した。