序
最悪の状況だ。
頬に嫌な汗を流しながら青年はそんなことを思っていた。
体力はほぼ尽きかけ、力が思うように入らない。右手に持つ鍔が奇妙な剣すら、持っているのがやっとというもの。
さらに言えば、彼の腹部にある切り傷が状況を悪化させている。
見た目の割には出血はいう程なく、命に別状はないと言えるだろう。
けれど、だからといってそれが傷であることに変わりはない。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――――――
激しい苦痛が青年の神経を襲う。
本来ならばこの程度の痛みなど耐えるべきものなのかもしれない。剣を取り、他者を傷つけ、戦うことを選択した時から覚悟が必要だったのだろう。だというのに、青年はそこを覚悟しきれていなかった。
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌いだ。できることなら、楽な道を選びたい。
そんなどこまでも甘く、短絡的な考えをしている人間が剣を持って戦えばどうなるのか、結果など言うまでもない。
息を切らす青年に対し、敵の剣戟が飛んでくる。
「――――っ!?」
一切の迷いのない剣。殺気の篭ったそれに残り少ない体力を全活用しながら素早く対処する。連続して交差する刃。しかし、やはりというべきか、相手の剣が一歩、青年の先を行く。
少年の防御の合間をまるで針に糸を通すが如く、敵の剣がすり抜けてきた
まずい、という直感が頭を横切ったと同時、青年は頭そのものを捻らせた。そしてそれは正しい。次の瞬間、相手の剣先が青年の頬を掠める。少量の血を流しながら、地面を蹴り、後方へと下がる。
危機一髪。九死に一生を得たが、しかし頬に感じる痛みが死を感じさせていた。
恐い、と感じるのは剣士としては恥じ入るべきなのだろう。だが、一人の人間としては正常と言えるものだ。自分が死ぬかもしれない……そんな状況に陥っても不安も何も感じないのはもはや狂人だ。そして、未だ青年は狂人ではなかった。
眼前にいる二本の剣を持つ男。その闘気は衰えることなく、むしろ昂ぶっている。
強者。稚拙な表現ではあるが、しかし男の実力を言葉にするのなら一番しっくりくるものだ。命を落とすかもしれない勝負で嬉々として剣を振るうことなど、自分にはできない。
けれどもだ。
自分はこのまま敗けるわけにはいかなかった。
「……っ」
ふと青年は脳裏に一人の少女の姿を映し出す。
『絶対、私は兄様と戦います。だから――――』
同時に響くのは彼女との約束の言葉。
「……ああ、そうだ……」
力が篭る。震えが止まる。どうしようもない恐怖を押さえつけながら、青年は剣を構える。
無茶かもしれない。無謀なのかもしれない。こんな自分が目の前の敵に対して勝利したいなど、おこがましいのは百も承知。
しかし、それでもだ。
「彼女と戦うまで……僕は……っ」
敗けるわけには、いかないんだ。
ただの口約束。他者からみれば何の意味もないと言われるだろう。くだらないと一蹴されてしまうのは分かっている。
けれども、小さな少女との約束を果たさんが為に青年―――アステリオス・ガーラントは前へと進んでいった。