第八話 友人と優しさ
三月の中旬。
桜は満開とまでいかないが綺麗に咲き誇っている。春の兆しは著しく、京の町は暖かい空気に包まれていた。
「暖かくなってきましたね」
「ええ、でも夜はまだ冷えます」
純とすみれは他愛のない会話をしながら、京の町を練り歩く。
「今日はどちらに主用で?」
聞くと、すみれはふむと唸った。それに純は不思議に思って続きを促す。
「やはり昨日の買い出しへ?」
「いえ、それはもういいのです」
「え?」
「もう朝からお初さんが行ってしまいました」
「そ、それじゃあ、どうして僕の所に?」
「えっ。あ、いや……その」
すみれは目を逸らして、口籠る。
「純さんが一向に顔を出さなくて……」
「……申し訳ありません」
「それで、私は少し気が立ってまして」
「……本当に申し訳ありません」
「お初さんにこっちから行くようと言われまして。気がついたら足が運んでいました」
「そうですか」
ほとんど僕のせいじゃないか、と純はへこんだ。
「だ、だから、何も考えずに……恥ずかしいです」
すみれはうつむき加減で小さな声で答える。その頬は真っ赤に染まっていた。
「いや、そんなに思いつめなくても! これから考えていけばいいことですから」
「そう、ですか?」
「そうですよ!」
あんまり大きな声で言ったものだから、まわりの人が振り返った。
「と、とにかく、どこか行きましょう。どこがいいですか?」
「でも、純さんは京の地理はあまり知らないんじゃないんですか?」
「あ……」
張り切って言ったものの、京の地理はわからないことに気づいた。そして、それを彼女が看破したことに驚いていると、すみれは笑った。
「それでしたら、おすすめの茶菓子屋さんがあるんです。行ってみませんか?」
「すみれさんがいいんだったら、僕は構いませんよ」
「はい。行きましょう、純さん」
すみれが茶菓子屋までの道案内。昨日と同じですみれが先導する形となった。
――任せてばっかりだな。
純は己の不甲斐なさにため息が漏れた。
烏丸通りを上って行き、四条通りを少し過ぎた角ですみれは立ち止まった。
「ここです」
すみれはにこにこ笑ってそう告げる。角に居を構える和菓子屋。
純が物珍しそうに和菓子屋を見るので、すみれは可笑しかった。
「さっ、入りましょう」
「あっ、すみれちゃんやん!」
そんな彼を促し、中にはいると高い声が耳に入った。
それはすみれの知っている人の声。すみれはにこやかに答える。
「ちかちゃん。久しぶり」
人懐っこい表情を浮かべる娘はちかという。ここの看板娘だ。
「最近来いひんから愛想つかされたんやと思った」
「そんな大げさな」
ちかはからかうように笑う。すると彼女はちらっとすみれの背後を見やり、ニヤッと笑った。
「もしかして、すみれちゃんの彼氏さん?」
「えっ?」
驚いて後ろを振り返る。純もびっくりしたそうで、苦笑いを浮かべた。
「ち、違うよ? そんなの純さんに失礼だよ」
「ふーん」
慌てるこちらにちかはニヤニヤ笑っている。
「まあすみれの恋沙汰はどうでもいいわ」
「ひどっ!」
さらっと失礼なことを言うちかは、純に向き直った。
「初めまして。ちかと申します。ここの和菓子屋の娘です」
彼女は丁寧に頭を下げて名乗る。やはり刀を差しているからだろう。刀は武士だという証だから。町人より偉い。
「僕は井ノ原純と言います。刀を差していますが武家の人間ではありません。気軽に話していただいて構いませんよ」
純がにっこりと穏やかな笑みを浮かべると、ちかは驚いたような顔をした。
「そ、そうですか……。井ノ原さんは」
「名前で構いませんよ」
「え……ですが」
「さきほども言ったように気軽に接してください。僕はそんなに偉いわけでもありません」
再び笑顔で告げる彼に、ちかは顔をうつむかせた。
「は、はい。そ、それじゃあ、純さんで」
「よろしくお願いします。ちかさん」
「はい……」
答えるや否や、ちかはすみれを引っ張った。
「えっ、なに!? ちかちゃん!」
「ちょっと来なさい!」
店の隅まで引っ張られ、こそこそと言う。
「めちゃくちゃいい男やんか」
第一声がこれだった。すみれは目を見開く。
「な、なに言ってるの?」
「かっこええやん。あの笑顔は落ちるわ」
「お、落ちる……?」
すみれはぎょっとして友人の恍惚とした顔を見つめる。確かに純は整った顔立ちだ。そして嫌味を感じさせない笑みをいつも浮かべている。
「でも、あんたの彼氏さんやもんな」
黙っているとちかがそんなことをのたまった。ぼっと顔が熱くなるのがわかった。
「だ、だから違うって!」
「さすがに友達の彼氏奪うんは、このちかちゃんでも出来ひんわ」
「違うのに……」
すみれはぼそぼそと否定した。すると。
「あの、どうかしたんですか?」
「ひゃっ!」
「わっ!」
純の声に、すみれとちかは同時に振り返った。
「い、いえ。なんにもないですよ~」
「じ、純さんは何を頼みますか?」
ちかはへらへら笑い、すみれは慌てて話をそらした。
「そうですね……」
「ウチは焼き餅がおすすめですよ」
「じゃあそれにしましょうか」
「そ、それじゃあ、焼き餅二つ」
そう言って、すみれは純の横顔を見つめていた。
「お待たせしました」
しばらくして、ちかが焼き餅を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。ちかさん」
にっこりと微笑む純にちかがまたうつむく。
「ど、どうぞごゆっくり……」
そう言って、奥に引っ込んでしまった。
「どうしたんでしょうか。顔赤かったし、風邪でも……」
「純さんってひどいですね」
「えっ? 何が、」
「知りません」
「……?」
すみれはふいっと顔を背けた。
彼は少し天然の気があるらしい。
すみれはふくれっ面のままお茶を啜った。
「今日はありがとうございました」
すみれは純にお辞儀した。
「いえ、僕も美味しいものを紹介してもらって嬉しかったです」
純はこちらに笑って、隣にいたちかに話しかけた。
「ちかさんも美味しい焼き餅をありがとうございました。また来ますね」
ちかが純にぐっと身を寄せた。
「また。ぜったいに来てくださいねっ」
「はい」
純が頷くと、ちかは目を輝かせた。ちかが心の中で拳を突き上げているのをすみれは知っている。
「……すみれちょっと来っ」
「えっ? なに」
手招きするちかにすみれは近づいた。
ちかはこんなことをささやいた。
「あたし、純さんのこと好きかも」
「あ、うん……」
すみれは苦笑いを浮かべた。今日の言動を見てわからない人はいないだろう。
「一目惚れってやつかな~」
ちか頬を上気させ、体をくねくねさせている。
「……」
こんな嬉しそうなちかは初めてみたかもしれない。誰かを好きになると人は変わるのだろうか。
「あんたの彼氏やないんやったら、負けへんで!」
そんなことを考えていると、びしっとこちらに指差した。
「えっ!?」
狼狽えるすみれに、ちかは純の方に駆けて行く。
「純さん、これからもよろしくお願いします」
輝かんばかりの笑顔をして言うちかに純は、
「はい。こちらこそ」
負けず劣らず、彼も微笑む。
「……きゃっ」
ちかは恥ずかしそうに声を上げた。
「じ、純さん、そろそろ帰りましょう」
すみれは彼の袖を引っ張って、彼に訴えた。
「そうですね」
「毎度おおきに。ほな、また来てや」
店先で手を振るちかに純は礼をした。
陽が西に傾き始めている。
「それでは私はこれで」
鴨川まで来るとすみれは言った。
「家まで送りますよ」
「そんな……悪いです」
提案する純にすみれは首を振る。
しかし純は頑なだった。
「女性の一人歩きは危ないですよ。最近は物騒ですし、あなたのことはお初さんにも、源造さんにも言われています。何かあってからでは遅いですから」
真面目な人だなっとすみれは思ったが、初と源造に迷惑はかけたくない。
「そ、それじゃあ。お願いします」
「はい」
すみれの表情を見て、何を思ったのか純はくすっと笑った。
今度は純が先を歩くようになる。茶屋までの道は覚えているみたいだ。
黙って歩く中、すみれは純の横顔を見た。
「……」
女性に対してこのような接し方は見られない。聞けば、海の向こうの異国では女性に対して親切に振る舞うらしいが。
彼は少し変わっているのかもしれない。
すみれはそこが妙に気になる。
変わっていると言えば。
純はずっと笑った表情を浮かべている。今思えば、彼の笑っている表情しか見ていないのではないか。
――悲しいこととか、苛立つとことかないのかなぁ。
いつか、彼の怒った顔とかみたい。
そんなことを考えていたら、ふと思った。
(あれっ? なんで私、純さんに会いに行ったんだろう?)
別に用はないのに、町の人にいろいろ聞きまわって。
まるで、自分は純に会いたがっているようだ。
「えっ!?」
「どうかしたんですかっ!?」
声を上げると純が振り返った。
「い、いえ! 何でもありません!」
「……そ、そうですか」
ぶんぶんと顔を横に振った。それに首を傾げる純だが、変わらず前を向いて歩き出す。
「…………」
顔は赤くなってないだろうか? それが心配だ。
そろそろ家も近い。そして彼の隣でいると胸が痛い。
「こ、ここで大丈夫です! 家も近いですから!」
震えた声で言うと、純は納得したふうに頷く。
「そうですね。ここまで来れば安心です」
「ありがとうございました」
「いえ、どういたしまして」
すみれは礼を述べた。これ以上一緒にいたら変になりそうだったので、すみれは手早く挨拶をした。
「そ、それじゃあ、また今度。おやすみなさい」
「ええ。また今度……え?」
そう言うと、純が目を丸くした。
「え?」
すみれも目を丸くする。だがすぐに自分の言葉に気づいた。
「い、いえ! その、今のは! 言葉の綾で……その……」
慌てるすみれ。今度こそ顔は真っ赤だ。両手を振って言い訳をしていると、純は呟いた。
「か、構いませんよ」
「えっ」
すみれは純を見つめた。彼の顔もなんだか赤かった。
「だけど毎日は勘弁してください。甲斐さんに怒られてしまいます。僕もあなたと一緒に都見物したいです」
恥ずかしげにそう答える純。すみれはほっとした。
「……はい」
夕日は二人と地面を真っ赤に染めていった。
「彼氏」って言葉は昭和初期に出来た造語らしいです。
2014年8月18日:誤字修正・加筆