第七話 来訪
純は自分の部屋で目が覚めた。
「ん……」
いつ戻ってきたかわからないが、壁にもたれかかったまま寝てしまったらしい。
寝ぼけ眼で部屋を見回す。
窓からは日が差し込んでいた。どうやら朝みたいだ。
ふと見ると、右手は刀を握っていた。とても大事そうに。
「……」
それを純は冷めきった瞳で見つめる。
「……今日はどこにもいかないや」
誰にともなく呟く。
別にいつもどこかに出かけているわけではないが、今日はいい。なんだか頭も痛い。
「あっ」
思い出した。そういえば今日は彼女との約束ある。
「…………もういいや」
純は襟巻に顔を埋めた。
約束を反故するのは悪いと思ったが、今は合わす顔がない。
「寝よ……」
そう思い、純は目を瞑った。
「…………い、……純、……なぁ」
「ん……」
何かが聞こえる。
誰かが体を揺さぶっているみたいだ。
「純! 起きろって」
「……な、に」
うっすらと目を開けると、甲斐が肩に手を置いていた。
「……甲斐さんか。何か用ですか?」
目をこすって甲斐を見ると、彼は呆れ顔だった。
「純。もう昼だぜ。そろそろ起きろよ」
「あぁ、もうそんな時間ですか……」
「……お前、寝起き悪いな」
「そう、ですか……?」
かくんと首をもたげる。それに甲斐は慌てた。
「おい寝るなよ。……それとも調子悪いのか? 昨日の晩も顔色悪かったしな」
「そんなことないですよ。大丈夫です」
昨日のことをあまり言及されたくないので、純は笑って返した。
「そうか。それならいいんだが」
甲斐は安心したように呟き、そしてニッと笑った。
「純、お前に客だ」
「…………きゃく?」
おうむ返しすると、甲斐はますます笑みを浮かべて、
「ああ。めちゃくちゃべっぴんさんだ」
「?」
意味がわからない。京に友人などいるはずもないのだが。
甲斐の文句によると女性みたいだ。純が首を傾げていると、甲斐は純の肩を叩いた。
「ほらっ、早く支度しろ。女性を待たせるなんて男のすることじゃねーぞ」
そう言い残して、上機嫌に部屋を出て行った。
純はますます首を傾げる。
何かの間違いだろうと半信半疑になりながらも、身支度をした。
「…………」
料亭の前の通りに出ると、純は固まった。
「あっ、純さん!」
その彼女はこちらを発見してこちらに駆け寄ってくる。
澄んだ漆黒の大きな瞳。くせのない艶やかな黒髪が風で揺れる。
すみれは、にこやかな笑みを純に向けてきた。
「純さん。おはよう……っていう時間じゃないか。こんにちは」
「……え。あー、こんにちは」
純は反射的に挨拶を交わす。
「純も男だな」
「ええ。井ノ原君も隅に置けませんね」
と、左右で言い合っている大人二人。
身支度を済ませた純の後を勝手についてきた甲斐。
待たせている間、すみれの話し相手だった楠本。
そんなことはどうでもいい。
「あの……すみれさん。どうして……」
たどたどしくそう聞くと、すみれは若干頬を朱に染めて、
「来ちゃいました」
恥ずかしそうに答えた。
えへへ、とすみれは笑う。
「…………」
――可愛く言われても困る。
阿呆みたいに口をぽかんと開けていると、彼女は慌てたように取り繕う。
「あっ、迷惑でしたか?」
「えっ。いや、迷惑じゃありませんが……」
純は気まずくなって視線を逸らす。
「ここまでどうやって来られたのですか?」
すみれにはここの場所を教えていないはずだ。
「えっと。町の人に聞いて回ったんですよ」
「は?」
純は間の抜けた面をさらすが、すみれは続けた。
「『私と同じくらいの年で、白い襟巻をしていて、紺色の着物を着ている小柄な男性を知りませんか?』って」
時間掛かっちゃいましたけど、と笑って付け加える。
彼女の行動力に唖然とする。そこまでして自分に会いたいのか。純はため息を吐いた。
「それで、僕に何か用ですか?」
呆れて聞くと、すみれは怒ったみたいだった。
「あなたがそれを聞きますか?」
「えっ?」
目を剥くと、すみれは柳眉を逆立てた。
「もうっ。純さんって忘れっぽいんですね」
頬を膨らませつつ、すみれは真っ直ぐと純の目を見て告げた。
「昨日約束しました。付き合ってくれるって」
「お?」
「え?」
反応したのは後ろの二人。それに遅れて純は事の次第に気づいた。
「すみれさん! 言葉選んでくださいっ!」
「?」
純の抗議も虚しく、すみれはきょとんとするのみ。
「おい、じゅん~」
「な、なんですかっ」
背中が重たくなった。甲斐がのしかかってきたのだ。
「お前さ、立場わかってる?」
「わ、わかってますよ。それと何で怒ってるんですか?」
「怒ってねーよ。ハハハ」
空笑いが怖い。
「まあ、井ノ原君も男です。仕方ありませんよね?」
楠本は楠本で怖い。眼鏡の奥の瞳が暗く輝いた。
「あっ」
背中を嫌な汗が流れるのを感じていると、すみれが声を上げた。
「もしかして、一緒に旅している方たちですか?」
「ああ?」
甲斐が眉根を寄せる。
「嬢ちゃん。俺たちは長州の……うぷっ!」
慌てて純は甲斐の口を押えた。
「何するんだよ! 純」
「ちょっと黙っててください」
甲斐と楠本を道端に手招き、純は小さな声で言った。
「彼女には長州藩士だって言ってないんですよ」
「何でだ?」
「なんでって、その……」
どう答えればいいか迷っていると、
「私たちはともかく」
楠本が理解したように口を開く。
「長州藩士と言っても害はありませんが、井ノ原君は少し違いますからね」
「なるほど」
甲斐は顎に手を当てる。
「それで旅人かよ、純は嘘下手だな」
「もういいですよ、それで」
厳密に言うと、すみれが勘違いしただけなのだが。
ぶっきらぼうに言う純に甲斐は首を傾げた。
「何怒ってるんだ?」
「別に……」
「まあいいや。それなら口合わせてやるよ」
「ありがとうございます」
「いいって」
笑って言う甲斐は、さっそくすみれに近づいた。やけに気合が入った足取りだった。
「すみれさんですね?」
「はい。私、すみれと申します」
すみれがお辞儀すると、甲斐は彼女の手を取った。
「え……」
突然のことに驚くすみれ。すると甲斐は、今まで見たとこのない爽やかな微笑みを浮かべて、
「すみれさんか……。名は体を表すというが、その通りだ」
「はあ……」
「まさしく、一輪のすみれのようだ。綺麗で、可憐で、美しい」
「あ、ありがとうございます」
すみれが引きつった笑みを浮かべる。
「あ、申し遅れました。自分は甲斐……」
名乗るところで鉄拳が降ってきた。
「アデッ!!」
「政義。そのくらいにしときなさい。彼女が困っているでしょうが」
甲斐の首根っこを掴んで、楠本は笑って言う。
「それに、彼女は井ノ原君に会いに来たのですよ」
楠本はすみれに目を向ける。
「はい」
彼女が頷くと楠本はにこりと笑った。
「では、私たちは失礼しましょう、お邪魔ですからね。あとは二人でゆっくりと」
そう言って楠本は甲斐を引っ張って行ってしまった。
「面白い方たちですね」
「え、まあそうかな……」
「それでは純さん」
「ん」
「ちゃんと、付き合ってくださいね」
着物の裾を翻したすみれは、きらきらした笑顔をこちらに向けた。
「わかりました」
純は素直に頷いた。
そんな笑顔を見せられたら断れるわけがない。それに約束を無視した手前もある。
2014年8月18日:誤字修正・加筆