第六話 現実
「ご馳走様でした」
食事までいただき、感謝のしようがない。
純は礼を言い、踵を返すとすみれが着物の裾を掴んできた。
「井ノ原さん」
「なんですか?」
「また、明日来てくださいね」
「……はい」
「約束ですからね」
「もちろんです」
純の答えにすみれは満足げに微笑んだ。
またどきりとした。それをごまかすように挨拶する。
「また明日」
「はい」
そっと裾から手が離れる。名残惜しそうだった。
純が、長州派派維新志士たちが身を隠している料亭に帰ったのは日が暮れた頃。
結局、すみれの茶屋を後にしてから道に迷ったのだ。甲斐か楠本どちらかに怒られる覚悟で、玄関を開けた。
「ただいま戻りました」
「純! 帰ってきたか!」
甲斐が喜び勇んで駆けてきた。
「わっ!? 甲斐さん! 抱きつかないでくださいっ!」
「どこ行ってたんだよ? 心配したんだぜ!」
わしゃわしゃと髪を撫で回してくる甲斐。
「こらっ」
「イテッ」
コツンっと甲斐の後頭部を小突いたのは眼鏡をかけた楠本だ。
「井ノ原君が困っているでしょう。離してやりなさい」
「だけどよ~。俺は心配してたんだぜ」
甲斐の文句を無視して、楠本は純に話しかける。
「申し訳ないです。せっかく共に政義を探してくれたのに」
「いいえ、迷った僕も悪いのですし」
「いいや純。浩幸にもっと言ってやれ、お前のせいで純が……」
「原因がすべて私にあるわけではないと思いますが」
楠本は眼鏡の位置を修正して、
「誰かがここにいれば、こんなことにはならなかったのですがね」
「……俺の方見て言うなよ。そんじゃあ何か? 俺が悪いのか?」
「一理ある、と言ったまでですよ」
「浩幸」
「なんですか?」
睨み合う二人。二人の目からは火花が散っているみたいに見える。
「いいじゃないですか、ほら、僕は戻りましたから」
どうしていつも自分が二人を止めているのか不思議に思う。
「……そうですね」
「純がそう言うんなら仕方ねぇな」
一件落着。純はほっと胸をなで下ろして、玄関に腰を下ろした。
「純、帰ってきたところ悪いんだが」
「はい、なんですか?」
振り返ると、甲斐は真剣な顔つきをしていた。さっき飛びついてきた表情とは違う。まるで別人だ。
甲斐は懐から書状を取り出した。
「今夜だ」
「…………」
その書状が何を意味しているのか。それは半年間やってきたこと。純の日常だ。
「頼むぜ」
純は書状を受け取って立ち上がった。
襟巻を口元まで覆う。
「わかりました」
純の瞳の色が変わった。
その日。
京の夜。
血の雨が降った。
血溜まり中、純は立っている。
目に映るのは、さきほど斬り捨てた幕府の役人。血に濡れた刀。真っ赤に染まった掌。
「お疲れさん」
後ろから声が掛かる。
甲斐だ。
「今回も上出来だな」
嬉しそうに言う甲斐。しかし純の耳には届いていない。
「おいどうした? 顔真っ青だぞ」
純の様子を変に思ったのか、甲斐が彼の顔を覗き込んだ。
「いえ、大丈夫です」
平然として刀を鞘におさめる。
「なら、いいけどよ」
甲斐は横目で純を流し、いつもどおりに『天誅』と書かれた紙を死体に寄越す。それを見届けると純は踵を返した。
「先に帰ります」
「おう、ご苦労さん」
後ろから甲斐の声が聞こえたが、最後まで聞かず歩き出した。
料亭に戻り、裏の井戸の前で純は佇んでいた。
腰の大小を立て掛けて、井戸の水を汲み上げた。
純は水を頭から被る。
まだ三月。暖かくなる頃合いだが、夜はまだ寒い。
「…………」
しかし、今の純にそんなことはどうでもよかった。
前髪から水滴が垂れてきた。
目を落とす。
着物はまだ赤かった。一度水を被っただけで血の跡も匂いもとれない。
純は膝を地面につき、そのまま井戸にもたれかかって座り込んだ。
空を見上げる。
綺麗な月が出ている。
「…………」
――現実は残酷だ。
そう思った。
甲斐に書状を見せつけられた時に、はっきりと理解した。
自分は、長州藩の人斬りだ。
普通の武士とは違う。
人を斬って、初めて価値があり、意義がある。存在することができる。
『約束ですからね』
思い出した言葉に純は目を見開いた。
彼女の言葉だ。
あの微笑んだ表情。綺麗な笑顔だった。
だけど……。
今、純はあの笑顔に答えられる気がしない。
現実は残酷だ。
純と彼女は、生きる世界が違う。
血溜まりの世界と、平和な世界……。
その現実が純の胸に深く突き刺さった。
2013年10月30日:誤字訂正
2014年8月17日:誤字修正・加筆