第四話 彼女と彼
「ここまで来れば安心か……」
三条大橋から少し離れた路地で、純は橋の様子を眺めた。橋は捕り物騒ぎで浅葱色の羽織が目立った。
純は安堵して家屋の壁に身を預ける。。
危ないところだった。長州藩お抱えの人斬りの自分が、新選組と顔を会わせるのは都合が悪い。長州藩も大事な時期だ。大事を起こすわけにはいかない。
「あ、あの……」
声が聞こえたので己の左隣を見やる。目の端で黒髪が揺れて、視界に入ったのは今さっき助けた娘だ。
「あっ」
忘れていた。彼女は困ったような顔をしてこちらを見上げている。わずかだが、頬も赤い。ここまで走らせてしまったからだろうか。
「すみません。こちらにもいろいろとありまして……」
苦笑いで返して、髪を掻こうと左手を上げると。
「……?」
何故か、彼女の右手も上がった。不思議と彼女と繋がった手を見つめる。今思えば、ここまで手を繋いで走って来たのだ。
それを理解して、純は我に返った。
「あ、ああっ! すみません!」
「い、いえっ!」
ばっと手を離すと、彼女も慌てて目を背けた。
「……あの、」
気まずい空気が流れる中、彼女が言った。
「……さきほどは、助けていただきありがとうございました」
こちらに向かって、お辞儀をする。
「いや僕の方こそ、いきなり走ってすいません」
純も謝った。すると、彼女はふふっと笑って、
「あなたが謝る必要なんてないんですよ。助けてくれたんですから」
「……」
そのとき、純はしっかりと彼女を眺めた。
端正な顔立ち。漆黒の瞳に、それと同じ色の艶やかな髪。
――綺麗だ。
「名前、まだ名乗っていませんでしたね。私はすみれと申します。祇園の方の茶屋で働かせてもらっています」
すみれはにこっと笑って答える。
「あ……。僕は、井ノ原純といいます」
彼女に見惚れていたため、純は遅れて反応した。
「武家の方ですか?」
すみれが純の左腰を見て聞いてきた。
「いや、僕は……」
答えようとして口を閉じた。自分は長州の人間。それも人斬りだ。そんなことを彼女に教えてはならない。
「井ノ原さん?」
黙っているこちらを不思議に思ったのか、すみれは可愛らしく小首を傾げた。
「僕は、その……えーと……」
必死になって頭を巡らせたが、良い言い訳が出てこない。
「あっ。わかりました」
「えっ!?」
すみれがぽんと手を打つ。純は目を見張った。
そして、すみれはずばりと答えた。
「剣術修行の旅、でしょ?」
「……」
呆れた。いや、ここは救われたと言っていいのか。
「あ、そうなんですよ。ハハハ……」
とりあえず笑って返しておいた。するとすみれは答えを当てたのが嬉しかったのか、表情を輝かせた。
「やっぱり! 京にはいつまでいるのですか?」
「当分は京にいますよ。長州……いや、一緒に旅している人がえらく気に入りましたから」
「そうなんですか」
すみれは頷いたあと、何か思案するような顔つきだ。
「あの、井ノ原さん」
「な、なんですか?」
すみれは胸元に両手を重ねて、上目遣い。純は彼女の表情にどぎまぎした。
「よければ、助けてくれたお礼に家の茶屋に、寄っていきませんか?」
「え……」
「お礼です。それにもうお昼ですし……」
言われてみれば、太陽は天高く昇っていた。
小腹が空いたのは確かだ。
別に用事はないし、夕刻にまで帰れば甲斐にも怒られはしないだろう。
「あっ」
「どうしました?」
そういえば、楠本に言われて甲斐を探していた途中だった。だけどもう昼だ。甲斐は見つかっているだろう。
「なんでもないですよ。そうですね、お腹も空いたし」
微笑むと、すみれは表情を輝かせた。
「それじゃ案内しますね!」
「はい、よろしくお願いします」
甲斐のことは帰るまでに言い訳を考えておこう。
純はそう思いながらすみれの後を追いかけた。
時は少し戻り。
純とすみれが三条大橋から立ち去ったあと。
浅葱色の羽織を着た、武士が数名いた。
新選組だ。
京の治安を守るために結成された浪士隊である。
さきほど、橋は騒然としていた。聞くところによると、不逞浪士が女性にちょっかいをかけていたらしく、それを通りすがりの少年が助けたらしい。
しかし新選組隊士が駆けつけたときに、その女性と少年はいなかった。あったのは昏倒した浪士二人だけである。
「ほら、さっさと歩け」
仕方ないので、その二人を縄に掛けて屯所に連行する。
「……」
その様子を彼は見ていた。
若い男だ。細身で、髪の毛がところどころぼさぼさと跳ねている。
彼は沖田総司という。新選組一番隊組長だ。
沖田は、連行される浪士を見飽きたのか、彼はすっと目を離す。
見つめるのは、純とすみれが逃げた方向だった。
「おい総司、早く帰ろうぜ」
「ん」
声に沖田は振り返った。
声を掛けたのは、新選組の二番隊組長の永倉新八だ。がたいが良い男で、愛想のよさそうな顔をしてこちらへ近づいてくる。
「ねぇ、新八さん」
「なんだよ? 帰ろうぜ、腹減った」
「……浪士はさ、女の子に嫌がらせしてたんだよね?」
永倉の食い気は無視して、沖田は聞いた。
「あ? あぁ、見物してた連中はそう言ってるぜ」
永倉は少し眉をひそめて答える。彼は沖田の言いたいことがわかっていないらしい。
沖田はそんなことを気にせず、続けた。
「だったら、その彼女はどこ行ったの?」
彼の疑問はそれだった。
「そういえばそうだな。ちょっとくらい事情聞きたかったな……」
永倉が思い出したかのように呟いた。
「それと、」
「まだあんのか?」
顔に早く帰りたいと書いてあったが、沖田は気にしない。
「女の子を助けた少年は?」
「そっちもいねぇのな。まったく……」
新選組がそんなに怖いかね、と永倉はぼやく。
――そんなことはどうだっていい。
沖田は少し目を細めた。
二人はどこに行ったのか? それが沖田の疑問だ。
別に逃げる必要はないはずだ。女性ならその場を逃げ出しても分からなくもないが、介入した少年は刀を帯びていたと聞いている。
少年には逃げる理由があったと考えていいだろう。新選組を見て。
鴨川から風が吹いてきた。
沖田の前髪が揺れる。彼は誰に聞かせるわけでもなく、呟いた。
「……血の匂いがする」
それを拾った永倉が笑った。
「それはお前、最近斬りすぎなんじゃねーの?」
沖田は苦笑交じりに永倉を促した。
「帰ろっか」
「おいなんだ、その憐れむような目は!」
「なんでもないよ」
「おい、総司。待てよ」
追いかけてくる永倉を見て、沖田は肩を揺らして歩いた。
2014年8月17日:誤字修正・加筆