第三十四話 約束
長州藩と薩摩藩は軍事同盟を結んだ。
これにより、国は大きく揺れ動く。
慶応二年六月七日に第二次長州征討が開始された。しかし、江戸幕府第十四代将軍徳川家茂の急死により、幕府軍は動揺。第二次長州征討は幕府軍の大敗に終わった。
この敗北は幕府の権威を落とす決定打となる。
家茂公の死去に続き、孝明天皇が崩御。公武合体派の中心だった人物が続けざまに亡くなった。これは幕府側にとって大きな打撃だった。
およそ二六○年続いた大樹が大きく傾いだのは、このときだっただろう。
* * *
慶応三年。三月。
純はすみれに会いに行った。
長州と薩摩が同盟を結んでからというものの、純は長州藩のことで手いっぱいで、すみれに会える時間がなかった。
久しぶりにすみれと会える。
そう思うと純の胸が高鳴った。
そして伝えなければならないことがある。それは彼女にとって酷だろう。しかし伝える。もう彼女の前で惨めな姿は見せない。
純は、すみれの育て親が営む茶屋に顔を出した。
「お久しぶりです、すみれさん」
「純さん?」
すみれが目を瞬く。純はいつものようににっこりと笑った瞬間。
「純さん!」
「わっ!?」
すみれが飛びついてきた。純はびっくりして彼女を受け止めきれず、尻餅をついた。すみれは純の胸の上で、がばっと顔を上げた。その表情は輝いていた。
「おかえりなさい」
「……た、ただいま戻りました」
純は苦笑いを浮かべた。
「すみれさん。その、退いてくれませんか?」
「へ?」
すみれは一瞬だけできょとんとしたが、今の自分の様子を見て、顔を真っ赤にした。
「すすす、すいませんっ!」
顔を真っ赤にして飛び退く彼女は、なんとも可愛らしかった。純は笑いながら、立ち上がり、着物を叩く。
「すみれさん」
「な、なんですか?」
「少しお話があります」
純は笑顔でそう告げた。
場所は変わって、三条大橋。
純は橋をゆっくりと歩く。その後ろからすみれがついて来る。ふと、鴨川に目をやった。
「ここで、あなたと初めて会いました」
「……そうですね」
不思議そうな顔をいたすみれは頷く。
彼女と出会ったのはちょうど三年前。浪士に襲われていた彼女を助けたのがきっかけだ。純は欄干に腕を置く。懐かしむように視線を川に向けた。
「あなたのおかげで、僕はいろいろなことを知りました」
純は腰の刀に触れた。
「僕は剣として生きていけばいい。そう思っていた。誰かを助ける剣に……」
自分は剣として生を全うする。役に立たなければ、死んでいいと思っていた。
「だけど、生きたいって思える理由が出来たのは、あなたのおかげです」
振り返って、すみれに笑いかける。彼女は首を傾げていた。
「純さん?」
「……」
たくさんの死を見てきた。いつ死ぬかもわからない自分が、生きたいと思えたのだ。純は胸に手を当てる。
「あなたのことが大切で、愛おしくて……。こんな気持ちは生まれて初めてでした」
「はい……」
すみれは少しだけ目を伏せる。彼女の頬に赤みが差した。
純はそのまま続けた。
「これから、長州藩には大きな戦いが待っています」
そう告げるとすみれが息を飲んだ。
「当分、あなたに会うことはできなくなります」
「嫌です!」
すみれが金切り声で叫んだ。
「またお別れですか! またそんなこと言うんですか!」
髪を振り乱すすみれに、純はゆっくりと近づいた。
「純さんに何度言ったらわかるんですか。私は嫌――っ!」
「誰もそんなこと言いませんよ」
「……っ」
純はすみれを優しく抱きしめた。
「もうあなたを悲しませるのは懲り懲りです。僕は、当分会えなくなると言っただけですよ。これが終わったら、必ずあなたに会いに行きます」
「……」
こちらを見上げる彼女の瞳は潤んでいる。また不安にさせてしまったのか。不器用な自分が恨めしい。
だから純はすみれをぎゅっと抱きしめる。
「本当ですか?」
すみれが掠れた声でそう聞く。
「はい、約束です」
強く頷くと、すみれが純の拘束から離れた。そして自分の髪に手を当てる。
「でしたら、これを貸します」
「え……?」
彼女は髪から簪を抜き、純に差し出した。
「貸すって……。それはすみれさんの大切なものでしょ」
その金色の簪は、すみれが母親の形見で身に着けているものだ。純は戸惑った。
「それに借りたところで僕に……」
「いいから借りてください!」
「は、はいっ!」
すみれの剣幕に負けて、純は受け取った。首を捻る純にすみれは言う。
「いいですか? あくまで貸すだけですから、ちゃんと返してくださいねっ」
「……」
「絶対に、返してくださいね」
強く推す彼女に、純は合点がいった。少し呆れたように微笑む。
「わかりました。必ず、返しに来ます」
「よし」
その答えに満足したのか、すみれは満面の笑みを浮かべた。
「御両人。お熱いことで」
「純もやるな」
「はぁっ!?」
声に振り返る純は奇声を上げる。すみれがびっくりして小さく悲鳴を上げた。
背後には甲斐と桂がニヤニヤ笑いながら立っていた。
「なんで二人しているんですか!?」
「いやー、おじさんは感激したよ。純も大人になって行くんだなぁ」
肩に手を回して涙ぐむ真似をする甲斐。純は硬直したまま、目を見開いていた。それはすみれも同じだった。そんな彼女に桂は近づく。
「すみれさんだね?」
「え、はい」
「初めまして。私は桂小五郎。純の上役をやっている」
桂は笑顔で挨拶した。すみれも礼儀として名乗る。
「私はすみれと申します」
「政義から聞いているよ。……君には悪いことだが、」
桂は腰をかがめて、すみれの漆黒の瞳を見つめた。
「今はまだ、純の力がいる。純を使うことを、許してくれるだろうか?」
「それは純さんが決めることであって……私は……」
すみれは甲斐を睨む純を目に入れた。そして微笑む。
「純さんが帰ってくるなら……」
桂はこちらの表情を窺いつつ、答えた。
「そうか。なら、純を今少し借りるよ」
桂はすみれの髪を撫でた。
「……あ」
その触れ方は純によく似ていた。桂小五郎は、純の育ての親は誠実で賢い。すみれはそんな印象を受けた。すると純が唸り声を上げた。
「どうしたんだ? 純」
桂を睨む純。その視線に気づいた桂は首を傾げた。
「どうしてあなたがこんな場所にいるのですか? 危険です」
「おいおい。男の嫉妬は見苦しいぜ、純」
「な、なななにを言ってるんですか!」
純は慌てた様子で反論し、明後日の方向に目を見やった。相変わらずニヤニヤする甲斐と、微笑む桂。すみれは首を傾げた。
「と、とにかくっ。桂さんはどっか行ってください!」
「そうだな。長居をしていては純の言う通り危険だ。政義、君はどうする?」
「そりゃあ、もう少し……」
「帰ってくださいッ!!」
純は甲斐に叫んだ。甲斐はうるさいと言わんばかりに耳を塞ぐ。
「わかったよ……ったく」
甲斐は不服そうだったが桂とともに去った。
「はぁ……」
純が疲れたようにため息を吐く。その隣ですみれはくすくすと笑った。
「やっぱり、純さんの周りの人って面白いですね」
「疲れますよ、まったく……」
肩を落として言う純と目が合った。優しく輝く瞳にすみれは吸い込まれそうになる。彼はじっとこちらを見つめた。
「……約束は守ります」
するとそんなことを言う。目を瞬くこちらに、純は微笑んだ。
「必ずあなたの元へ帰ってきますから、待っててください」
純は真っ直ぐとすみれを見つめて言った。
「純さん」
すみれは嬉しくてまた目が潤む。
純の澄んだ瞳を見て、思った。
彼と出会って三年。今まで以上に胸の高鳴りは激しい。胸が暖かく包まれる。彼と一緒にいるだけで幸せになれる。
どうして?
愚問だ。
彼を愛しているから。
2014年10月5日:誤字修正・加筆




