第三十三話 同盟
慶応二年一月の下旬。
純は甲斐に呼び出された。
京の町は相変わらずの寒さだ。純は襟巻に顔をうずめて、体を震わせながら歩いていた。
堀川通りまで来た純は、あたりを見渡す。
「甲斐さん、どこにいるんだろ?」
彼にここで待てと言われたのだ。しかし、どうして呼び出されたか知らない。
きょろきょろしていると声を掛けられた。
「なあ坊主」
「へ? はい」
間の抜けた声で振り返った。そこには侍風情の男がいた。寝癖とくせ毛が入り混じった、ぼさぼさの頭で、小汚い格好をしている。
そしてふと男の足元を見ると草履ではなく、足がすっぽりと包まれている黒い履物を履いていた。純はそれが何かわからず、首を捻った。
「おまえさん、小松っていう人の家どこか知っとるか?」
すると、男が聞いてきた。
残念ながら、純は知らないので頭を下げる。
「小松さんですか? すみません、僕は知りません」
「そうか。すまんな」
「いえ、こちらも力及ばず」
男は首をめぐらし、
「京の地理はようわからんぜよ」
と、ぼやく。
「……」
純は男を観察した。
言葉に訛りがある。西の方だろうが、純はどこの言葉かわからない。
「おっ。あん人なら知っとる! わしゃ、運がええ!」
すると、男は知り合いを見つけたらしい。
男が見やる方向を見て、純は目を剥いた。
「純!」
甲斐政義が手を振ってこちらに駆けつけた。
「おっ?」
隣にいた男が片眉を上げて純を見やった。それに純は苦笑いを返した。
「あれ、坂本さんじゃないですか」
「おお甲斐さん。お久しぶりです」
甲斐は、その男を坂本と呼んだ。
「なんや、こん坊主。甲斐さんのとこのでしたか」
坂本は笑いながら言う。
「はい」
甲斐が頷き、純を振り返った。
「悪いな、遅くなって」
「いえ。それは構わないんですけど……」
純はちらちらと坂本を見やる。視線に気づいた坂本がニカッと笑った。
「初めまして。わしは坂本龍馬。土佐出身ぜよ」
土佐という言葉に少し驚きながら純も挨拶する。
「僕は井ノ原純と言います」
「よろしくな! 純!」
「え、あ、はい……」
坂本に手を握られて、純は愛想笑いを浮かべた。なんか積極的な人だ。
「坂本さん、ここじゃあ目立つので小松殿の屋敷まで参りましょう」
「おう、そうやった」
甲斐がささやくと坂本は大仰に頷く。
「あの、甲斐さん」
呼びかけると、甲斐は笑った。
「桂さんに会えるぞ」
「え」
彼の台詞に純は言葉を失った。
一条通りまで出ると、甲斐は足を止めた。
「ここは?」
通りを入ったすぐそこの大きな屋敷を、純は見上げる。
「小松帯刀っていう人の屋敷だ」
甲斐がそっけなく答えると、坂本が純に振り返る。
「純は刀差しとらんのか?」
「あ……はい」
この二年ほど帯刀する機会がなかった。今日も、いつもの報告だと思って甲斐と待ち合わせしていたが、違ったみたいだ。
「それよりも、本当に桂さんがいるんですか?」
坂本から甲斐へ目を移し、念を押すように尋ねた。するとまた、坂本が口を挟む。
「純は桂先生の弟子なんか?」
「弟子? ……まあそうですかね」
人斬りと口外するのはいけないだろう。純は考えながら答えを出した。
「そうか。ほんならおまえさんから桂先生を説得してくれへんか?」
坂本は手を合わせて、拝むようにこんなことを言った。純は意味がわからず、きょとんとしていると、甲斐が助け舟を出す。彼は不機嫌そうに口を開いた。
「坂本さん。純は今の状況を知りません。だいたい、純を巻き込まないでほしい」
「な、何かあったんですか?」
なんだか怒っている甲斐が不安になって、純は甲斐に詰め寄る。
「悪い。桂さんに会ってからにしよう」
甲斐はそう言って小松帯刀が所有するという屋敷へと足を進めた。
それを見て坂本が肩を落とし、
「長州も薩摩も、頑固ぜよ」
そんな呟きを残した。
純はもう一度屋敷を見上げて、後に続いた。
* * *
桂小五郎は小さな応接間にいた。
甲斐と坂本、そして純が入ってくると、彼は驚愕の表情を浮かべる。
「桂さん!」
「純……どうしてここに……?」
純は笑顔で桂に駆け寄り、彼の前で正座した。
「よかったです……。ご無事で」
感動のあまり、目尻に涙が浮かぶ。純は必死に耐えて、桂を見つめた。
「心配をかけてしまったな。すまない、純」
こちらの表情を察して、桂が顔を伏せた。しかし純は笑う。
「いえ。桂さんが無事ならそれでいいんです」
「ありがとう、純」
桂は苦々しく笑った。
「すみません、桂さん。勝手なことをして」
やっと甲斐が口を開く。桂は首を横に振った。
「いや。君にも迷惑をかけた。なんと罵られようとも構わないよ」
桂が純を見つめる。
「純も無事でよかった。純がいない世を生きていてもつまらないからな」
「なんですか。それ」
「これが本心だよ。純」
桂にそう言われる照れくさい。純はくすりと笑った。
「まっ。感動の再開もそのくらいにしといてっと……」
発言したのは坂本だった。純は彼を睨んで、そして思い出した。
「桂さん。今、長州藩はどうなっているんですか?」
「そうだな。純には話さないといけないな」
桂は姿勢を正し、そして甲斐に目をやった。その視線を快く受け止めた甲斐は、身を乗り出し、話し出した。
「まず。ここは小松帯刀っていう薩摩藩士の屋敷だ」
「薩摩藩!?」
純は甲斐の言葉に驚く。薩摩藩は幕府に続く長州藩の大敵だ。八月十八日の政変、禁門の変などの事件は、裏で薩摩藩の影があったのだ。
純が腰を浮かすと、坂本が口を挟む。
「そんな驚くことかいな……」
坂本は耳をほじくりながら言った。それに桂が弁明する。
「彼は何も知りません。もちろん、あなたがどのような人物かも」
桂の言葉に、坂本はわざとらしく眉を上げて、ニッと笑った。
「ほんじゃあ、改めて自己紹介ぜよ」
坂本は純に手を伸ばした。
「わしゃ、坂本龍馬。土佐出身でな。エゲレスでいう『かんぱにー』っちゅうもんを長崎でやっとる。……他にもいろいろやっとるけどな」
「いろいろ……?」
純は握手して眉をひそめる。坂本は得意げに答えた。
「今は長州と薩摩の仲介役じゃ」
「仲介?」
再び聞くと、坂本は真剣そうに純を見つめた。
「純はこの国をどう思う?」
「え、どう思うって……」
そもそも、純には思想や主義を持っていない。いきなりそんなことを聞かれても、すぐには答えられなかった。
坂本は純を見かねたのか、自分の思いを口にした。
「わしゃ、この十年ほどでたっくさんの人と会った」
「はあ……」
「いろんな思いを見てきた。攘夷、佐幕、勤王……。この国を変えたいっていう奴らの思いを。だけど攘夷をやっても異国に勝てるはずがない。現に薩摩の長州も負けとる。そうやったら佐幕か? アホぬかすな。今の幕府に異国と渡り合える力なんぞ持ってない」
坂本は力説する。
「ほんなら尊王や。幕府を倒して新しい国創るんじゃ。だとしても藩ひとつでやるのは間違ってる。はっきり言って力がない!」
その言葉に甲斐も桂も嫌な顔をした。気にせず坂本は続ける。
「だったら手ぇ合わせて幕府を倒し、新しい国を創る! わしはそう考えた! 長州と薩摩が手を合わせたらぜったいに出来る! そう思わんか!?」
坂本は熱く語り、純の肩を揺さぶった。純はへらりと愛想笑いを浮かべた。
「坂本さん」
口を開いたのは桂だ。彼の口調は厳しかった。
「なんですか?」
「薩摩は何度、約束を破棄するおつもりか? この前もあなたが連れてくると言って、西郷殿は現れなかった」
「い、いや……」
どもる坂本に、桂が目を眇める。
「確かに今の長州藩では異国とも、幕府とも渡り合えないのは承知している。だがこれ以上、薩摩に義理立てする理由が見つからない」
「や、桂先生。もうちょっとだけ……」
坂本が正座をして桂に向き合ったとき、ふすまが開いた。
「おい、声くらいかけろ」
甲斐はふすまを開いた者に文句を言う。
「アンタにとやかく言われる筋合いはない」
しかし、闖入者は意に介さず甲斐を一瞥するだけだった。その男は髪を襟足でばっさりと切っており、大刀のみを腰帯に差していた。
「速水さん!?」
純は彼の登場に驚く。速水も純の存在に気づき、表情を崩した。
「あれ? 井ノ原じゃん、久しぶりだな」
「知り合いなのかよ」
甲斐が忌々しそうに口を挟む。
「あ、はい。まあ……」
曖昧な返事をすると、速水は合点が言ったように頷いた。
「あぁ、お前、長州の人斬りとか言ってたな」
「なっ、何でお前が知ってるんだ!?」
甲斐は目を見開き、立ち上がった。驚愕の表情に速水は鼻で笑った。
「教えねぇよ」
「速水さん。……甲斐さんも落ち着ていください」
純が甲斐をなだめるが、彼は不満そうな顔で、どかっと畳に腰を下ろす。
「何か用事かね?」
桂が言った。しかしその声音は震えている。彼も純の存在を知っている速水に、少なからず驚いているようだ。
「あぁ、そうそう……」
速水は思い出したように坂本を見やった。
「西郷のだんながいらしたぞ」
「なにっ!?」
速水の言葉に坂本はすぐさま部屋を飛び出して行った。坂本の後ろ姿を見つめながら、速水が笑う。
「あの男も大変だな」
「速水さんはどうしてここに?」
純がそう尋ねると、彼は露骨に顔をしかめた。
「あ? お前の脳みそは空っぽかよ。俺は薩摩藩士だ」
「そう言えばそうでしたね」
「そう言えばそうでしたね」
「覚えておけ。馬鹿」
「馬鹿ってなんですか。たまたま忘れていただけです」
「ハッ。どうだか」
速水は吐き捨てる。そして桂を見やった。
「坂本は、この国を良くするために動いているんだぜ?」
「……それはわかっている」
「だったら薩摩藩と同盟結んでもいいじゃねーか?」
桂が睨みつけるような視線を彼に送った。
「ならば、何故この前の会談に来なかった?」
「さあな。西郷のだんなに直接聞けよ。今から」
速水はニヤリと笑って、坂本の向かった方角を顎で指した。
桂が瞠目した。速水は、坂本に声を掛けると同時に、桂を西郷に会わせるために部屋へやって来たのだ。
「君は意外と策士だな」
桂は苦々しく笑って、腰を上げた。
「ならば行こうか」
「桂さん……」
「ここで籠もっていても何も変わらない。長州は強くならないといけない」
凛とした表情をして、速水に向かった。
「案内頼むよ」
「お前、人は斬っているのか?」
「は?」
突然、速水にとんでもない質問をぶつけられた。その質問に驚くのは純だけではない。前を行く甲斐は嫌悪の感情を剥き出し、速水に突っかかった。
「さっきから礼儀のなってないな。お前?」
「甲斐さん!」
純は止めに入るが、甲斐は止まらない。速水の胸倉を掴んだ。
「調子に乗るなよ、田舎者風情が!」
「風情呼ばわりとは……面白いな、お前」
「黙れよ」
甲斐は鬼の形相で速水を睨む。
「言っとくが、俺は薩摩なんて大っ嫌いだ! 浩幸の敵と仲良くしてなんかしてらんねぇよ!」
「甲斐さん……」
楠本浩幸は禁門の変のときに、戦死した。甲斐をかばって。大切な親友を失った思いは変わらないのだ。
「政義、やめろ」
桂の厳しい声。甲斐はやっと速水から手を離した。忌々しそうに舌打ちして、そっぽを向いた。
「桂先生! こっちです、はよ来てください!」
廊下の向こうで坂本の嬉々とした声が聞こえた。桂は一瞬だけ目を向け、そして甲斐と純に言った。
「政義、行こう。純、彼の質問に答えてやってやれ」
「は、はい」
頷くと、桂は笑顔で歩を進めた。
「短気な奴だな」
しばらくして、速水が呟いた。それに純は苛立ちを覚えた。
「あなたは、人の思いを考えないのですか?」
「思い? そんなこと考えても他人のことなんてわかりゃあしねぇよ」
「感情は大切です。それを失えば、ただのからくりです」
「だったら、俺はからくりだな」
「えっ」
速水は冷たい目をして、吐き捨てた。
「俺はお前のように、誰かに尽くしたいなんて思ったことがないからな。俺はこれからも藩に従うさ」
彼の横顔は少し暗かった。しかしそれも一瞬で、いつもみたく口元を吊り上げる。
「ま、お前には関係ないことだな」
そう言って桂たちがいる方向とは逆へ歩き出す。
「速水さん」
「ん?」
その後ろ姿に、純は声を掛けた。
「さっきの質問ですが……。今は肯定も否定もできません。まだ戦いは終わってませんから。だけど、これが終わったら……」
「勝手にしろ。俺には関係のないことだ」
速水はこちらの言葉を遮り、それだけを言って立ち去った。
そして――。
慶応二年一月二十一日。
土佐藩の、坂本龍馬の仲介によって議論された末、京都の小松帯刀邸で長州藩と薩摩藩は、軍事的な同盟を結んだ。
俗に言う薩長同盟が締結された。
これにより、倒幕への道が大きく前進した。
2014年10月5日:誤字修正・加筆




