第三十一話 境界
それは夕暮れ時だった。
「よう。井ノ原」
その声に純はびっくりした。店から冊子の向こうを覗くと、そこには見知った顔があった。純はそいつと目が合う。するとそいつは口角を上げた。相変わらず人を食ったような笑みだ。それを見た純は決心した。
「……」
「おい、無視かよ。ふざけんなよ!」
遠くでそんなことが聞こえる。しかし純は頑なに無視を断行した。机を綺麗に拭き取り、箒を取り出し、店を掃除し始めた。
「純さん、呼んでますよ?」
すると、今度はすみれの声が聞こえる。純はすみれに顔を向けて、笑う。
「幻聴です」
「え、いいんですか?」
「はい」
「いいわけないだろ!」
いつの間にか、そいつは店の中にいた。純は笑顔のまま、眉根を寄せる。
「狼藉者の来店はお断りしております。というか帰れ」
「お前、見ないうちに口が悪くなったな」
「あなたには負けますよ。速水さん」
純はやっとそいつに目をやった。
襟足で切られた髪に着流しと大刀。妙な格好をした男だ。しかし顔は整っており、中々の美貌をしている。それでも怪しい雰囲気は醸し出している。
速水藤真は不機嫌そうに顔をしかめる。
「偶然見かけて声を掛けてやったらこれだぜ? ふざけてんのか?」
「ふざけてるのはあなたでしょ。いきなり現れて」
「あの、お知り合いですか?」
言い合っていると、すみれが口を挟む。それに純は肩をすくめて、素っ気なく答えた。
「なんとも言えませんね」
「……?」
すみれは首を傾げた。すると速水が笑う。
「可愛いお嬢さんなことで……」
ニヤリと口元を歪める彼に、純は身構えた。そっとすみれの前へ出て、彼女を隠した。
「別に取らねーよ。そんなにそいつが大事か?」
「あなたには関係ないでしょう」
純は速水を睨みつけた。速水は純の視線を受けて、鼻で笑った。
「しかし。お前の隠れ蓑がこんなところとはな」
速水はゆっくりと店を歩き回る。幸い他に客はいない。初が奥からそっと顔を出して覗いていた。気にはするが今は速水の行動のほうが大事だ。それと余談だが、初の目が輝いていた。「ちょっとおとうさん、修羅場!」などと嬉々とした台詞が聞こえるが気にしない。
速水が手前にある椅子に座った。
純はますます眉をひそめる。
「出て行ってください。あなたは疫病神のようなものですから」
「どちらかと言うと、禍つ神だろ。俺は」
「どっちでもいいから出て行ってくださいよ」
自慢げに言う速水に、純は吐き捨てる。すると速水は考えるように左上に目を向け、やがて椅子から立ち上がった。
「悪かった、邪魔したな」
「……は?」
すんなりと引き下がる速水を眺めていると、彼は純の肩をぽんと叩いた。
「ま、しっかりやれよ」
「はぁ?」
目を丸くする純を見て笑う速水は、夕暮れの町へ出て行った。
「……」
本当に何をしに来たんだ、あの人。
困っているとすみれが微笑む。
「純さんの仲間って変わった方ばかりですね」
「あの人は友人でも仲間でもありません」
「そうなんですか?」
純は彼女へ肯定の意を示そうとしたとき、店に誰かが転がり込んで来た。それは役人のようであった。
「おい! 今ここで浪人風情を見なかったか!!」
突然のことに驚く純たち。
源造が答えた。
「見たで。南んほう行ったわ」
「そうか、かたじけない!」
四、五人の役人は頷き合い、店を出て行った。そして源造がぼやく。
「騒がしいったらありゃせーへんわ、ほんま」
「いろいろ物騒やさかいなぁ」
初も眉尻を下げて呟いた。
「……」
その中、純は速水と役人が向かった方向を見つめていた。
根拠はないが、なんだが胸騒ぎがした。
「ちょっと、出かけてきます」
「はよ帰って来いよ」
源造が純を睨む。この前のことがあったため、外出が厳しい。多分に、すみれと一緒に出かけたのが不味かったのだ。
そんな源造に純は微笑んだ。
「大丈夫です。夕飯には帰ります」
* * *
「……」
結局、速水の背中を見つけたのは、日がだいぶ落ちた時刻だった。これは少し不味いかもしれない。また、源造に叱られる。
だが、今の純にそんなことを考える余裕はなかった。
狭い路地。京市中から離れた場所。ここなら人目にもつかないし、夜の闇に紛れて行動することができるのだ。
頭が真っ白になって、頬に濡れた水滴に触れる。
指先に付着するそれは赤い。血だ。
足元まで続く血河。それは路地の奥から出来上がっている。路地の闇は深く、最奥まで見えない。
鉄の匂いがあたりを埋め尽くしている。思わず吐きそうだった。
「あれ、井ノ原? 何してんだ?」
声とともに月光に輝く銀色が現れた。
速水藤真は、不思議そうに純に訊ねた。
彼が歩くたびに、地面からぴしゃっと音が撥ねる。速水は足の感触が気持ち悪くないのだろうか。現実から逃げるように、純はそんなことを考える。
純は青ざめた表情で、速水を見つめた。
彼の背後には血の海が出来ていた。そこには当然死体が浮かんでいた。暗くてよくわからないが、恐らく、さきほど速水を追いかけていた役人だろう。
「どうした? 顔真っ青だぞ?」
なんともないように速水はこちらの顔を覗き込む。彼の端正な顔も血に汚れていた。
純は彼を見上げる。
「なにを……、なにをしたんですか?」
震えた声で問うと、速水は肩をすくめた。
「ちょっとしくじってな。標的は一人だけだったんだが、いつの間にかわらわらと溢れて来てさ……、仕方ねーよな」
「……っ」
――何が仕方ないのだ?
純の言葉は外に出なかった。
こちらの戸惑いには気づかず、速水は納刀する。
「ま、仕事は終わり。今回もつまんなかったぜ」
そんなことをのたまう。
――つまらない?
この男は人を斬殺してつまらない、そう吐き捨てたのだ。
「お前、なんて顔してんだよ?」
すると速水が忌々しげに言った。
「お前も同類だろ。それとも何か? 一年も刀握ってなくておかしくなったか?」
「……」
放心状態の純は答えない。久しぶりに死体を見たのだ。本当に一年ぶりだろう。そんなこちらが速水にはどのように映ったのか。
突然、襟を掴まれ、板塀に叩きつけられた。
「っ!」
背中に痛みが走る。目を開けると、速水の憤然とした表情があった。
「お前さ、本当に腑抜けになったか?」
「な、なにを……」
「一年も人斬ってなかったらみんなそうなるのか? ええ?」
速水はこれまで見たこともない形相で、問い詰める。本気で怒りを感じているようだ。
「あんな小さな茶屋に潜んで、あまつさえ女に現を抜かすときた。これが腑抜けてなくてなんなんだよ?」
息が詰まって声が出せない。
速水は構わず続け、そして吐き捨てた。
「お前が、人を斬る感覚を忘れたって言うんなら、思い出させてやろうか? ……そうだな、あの茶屋の――」
「やめろッ!」
速水が何を言おうとしているのかわかった。その瞬間、純は叫び、彼を突き飛ばす。速水は反動で一歩下がった。
純は彼を睨みつけた。その瞳は怒りに燃えていた。
「馬鹿なことを言うな! あの人たちは関係ない、彼女を巻き込むことは、僕が許さない!」
「……」
激昂するこちらを速水が冷たい目で見下ろす。
「お前を見ているとイライラするな」
そう呟く。純は自虐的に笑った。
「それ、誰かにも言われました」
「あの連中を巻き込みたくなかったら、どうして動かない? ぬるま湯につかるのも大概にしろよ。そうしたないと……」
――取り返しのつかないことになるぞ。
速水は断言した。
「……」
返す言葉がなかった。
純は黙ったまま赤い地面を見つめた。
「あれも欲しいこれも欲しいじゃ前に進まないぞ、井ノ原」
速水は最後にそれだけ言い、この場を去った。
残ったのは死体と純だけ。
生ぬるい夜風が吹きつける路地。
返り血が足に付着している。それはまるで純を拘束するように。
脳裏に思い浮かべるのは、いつか感じた境界線。
平和な世界と、血溜まりの世界。
光があれば闇がある。
自分はどちらの人間なのだろうか。
――そんなことは分かりきっている。
純は月のない夜空を見上げた。
2014年10月5日:誤字修正・加筆




