第二十五話 告白
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
純は鴨川の土手に座っていた。
薩摩藩士の、速水藤真という男が消えてからずっと鴨川を眺めていた。
「長州は間違ったのかな……」
純はぽつりと呟いた。
速水は、長州藩が無くなると予想した。御所に討ち入ったのは事実。それ相応の罰を受けるのは当然。現に長州藩は朝敵だと町中で囁かれている。
間違いを理解するのは簡単のようで難しい。
これからどうなるのか。
純は空を見上げた。太陽は西に傾きつつあった。
「あ、桂さんに報告しないと」
純は思い出した。速水藤真という男が接近してきたことを、一応報告しておかねばならない。
「でも、相手は薩摩なんだよな」
薩摩藩は禁門の変で会津藩に味方し、長州藩を倒したらしい。蛤御門での戦闘の勝敗は、薩摩藩の介入で決まったようなものだった。
「怒られないかな」
ぽりぽりと後頭部を掻く。
純は敵と接触して話を聞いただけだった。他の長州藩士なら怪しんで無視するか、その場で斬るくらいのことはしたはず。それに、何故速水が純に近寄ったのかも疑問だ。薩摩に長州の情報が漏れている可能性だってある。それならそれで、なおさら報告するべきか……。
「……でもあの人は関係ないのかな」
速水は、人斬りを楽しんでいるように見えた。剣を振るうことこそが、彼の人生みたいだった。そんな人が薩摩藩のために何かするのだろうか。
「はぁ……」
純は深くため息を吐いた。
考えても答えは出てこない。それなら正直に桂に報告した方がいい。
そう判断したとき。
「純さんっ!」
大きな声で名前を呼ばれた。
慌てて振り返って道を見上げると、見知った顔があった。
「……すみれさん?」
彼女の姿を見て純は目を丸くした。すみれがは道の悪い土手の坂道を危なっかしく駆け下り、純を笑顔で見下ろした。心なしか息が荒れていた。
「やっと、お会いできました」
「どうして、ここに……?」
「探していたんです。純さんのこと」
「え?」
すみれは一度息を吸った。頬を軽く上気させて、純を真っ直ぐと見つめた。
「教えてください。あなたのこと」
純は目を剥いた。
「この前に言ってくれました、全部教えると。私は純さんのことが知りたいです」
「……」
彼女の瞳は真摯に輝いており、そしてわずかに揺れていた。純の話を聞くことをためらっているみたいだ。それでも、どんな答えが返って来ようと受け止める。そう物語っていた。
純は少し顔を綻ばせた。
「そうでしたね。話しましょうか」
「はい」
笑顔のすみれを見て、純は決心した。
純とすみれは土手に二人並んで座った。隣にすみれがいるだけで胸がトクトクと鳴る。なんだか気恥ずかしい。
鴨川は相変わらず陽光で綺麗に輝いており、遠くで白鷺が川に立っていた。
「ちかさんはどうしてますか?」
純は鴨川に目を向けたまま尋ねた。その問いにすみれが驚くように顔を上げたが、すぐに答える。
「……ちかは家に居ます」
「そうですか」
「まだ、調子は良くないです」
「……」
それは当然である。まだ三日しか経ってない。どんな言葉を掛けるべきかわからない純はちかに会いに行っていない。それに、顔を出しても何も出来ない気がする。ちかの両親が亡くなった原因をつくった人間だ。おいそれと彼女の前に顔を出すわけにもいかない。
純は眉尻を下げていると、すみれが続ける。
「甲斐さんは家にいますよ」
「えっ?」
彼女の言葉に耳を疑った。すみれがにこりと笑う。
「甲斐さんは家に通ってくれています。朝から日が暮れるまでずっと居てくれていますよ? 『朝から体が痛い』、『来る途中こんなことがあった』……。他愛のない話をするだけですが、甲斐さんは私たちに笑って話してくれます」
「あの人らしいか」
純はくすりと笑った。
甲斐は誠実な人間だ。贖罪のつもりかは知らないが、彼は彼なりにちかを慮っているのだろう。少しでもちかに元気を出してほしい一心で。
「そうですね」
すみれも笑った。
「……」
「……」
そこで会話が途切れた。
喉が渇く。
そんなに暑くもないのに額から汗が出た。
「……」
すみれは待っていてくれているのだろう。純が自分から話し出してくれることを。どちらにしろ、ちゃんと話すと言ったのは純だ。こちらから話すのは道理である。
純は大きく息を吸った。
――打ち明けるんだ。
彼女に、自分がどういった立ち位置にいるのかを。
純は口を開いた。今度はすみれを見つめて。
「僕は、あなたに嘘を吐いていました」
息を飲む音がした。
「……はい」
少し遅れてすみれは頷いた。その解答は予想通りだ。禁門の変のときに、ちかにほとんどばれてしまったことが影響している。
純は続けた。
「僕は旅人ではありません」
「はい」
「……僕は長州の人間です」
すみれの瞳が戸惑いの色を示していた。それを見るだけで純の心は痛む。さっきから心臓がうるさい。黙れ、と押し付けるように彼は胸元に拳を作った。
「それと……」
再び口を開くと、すみれが大きく目を見開く。
まだすべてを話し終えてはいない。これは一番秘匿しなければならない情報だ。長州藩内でも、ごく一部の人間しか知らないことだ。だが、すべて教えると言った。
だから……。
ごくりと唾を飲んだ。
「僕は、長州藩の人斬りです」
「ひと、きり……?」
すみれの顔は引きつった。
思わず目を逸らしかけた。だがここで逸らしたらいけない。真っ直ぐと彼女を見つめて、伝えるのだ。
「……すみれさんには馴染みのない言葉でしょう。言葉通りの意味です。僕は人を斬っています。長州藩のために。この刀で」
純は右に置いてある刀を叩いた。
「……」
すみれの大きな瞳がますます大きく開いていく。
純は唇を噛んだ。絶対に顔に出すな、自分にそう言い聞かせた。
「京に来てもう一年です。去年から人斬りとして働いています」
「……どうして」
すみれは震えた声で尋ねる。
「どうして、そんなことを?」
「……以前、稲荷大社に出かけたときを覚えていますか?」
すみれがこくりと頷く。
「そのときに、僕を助けてくれた方の話をしました。覚えていますか?」
「え……?」
すみれが目を瞬く。その表情に純は思わず笑った。
「僕が孤児だっていうのは本当ですよ」
「い、いえ……疑ったわけじゃないんです。……すみません」
すみれは申し訳ななそうに顔を伏せた。別に彼女に非があるわけではない。純は笑って許した。
「その人は桂という方でして」
純は微笑みながら続ける。
「その人は今の長州藩の、指導者です。僕はその人に助けられました。読み書き、剣術も教えていただき、名前も桂さんにもらいました。だから、僕は桂さんに恩を返しています。桂さんのためなら何だってできます。だから、人斬りをやっています」
「……」
純の思いをすみれは黙って聞いてくれた。
「これは言い訳にしかならないことはわかっています。でも信じてほしいです」
純は力強く発言した。
「あなたを騙すつもりはなかった」
「……」
「あなたを巻き込みたくなかった。僕が長州派志士だと知れば、あなたに迷惑が掛かる。命を狙われる可能性だってある。そんなのは駄目だ。すみれさんは、大切な人なんだから」
その言葉を聞いてすみれが目を瞬いた。しかし純は気づかず顔をうつむかせる。
「だけど。今回のことで、すみれさんにも、ちかさんにも迷惑が掛かった……」
悔しくて唇を噛み締める。
「これから長州がどうなるのかわからない。僕はこういう身です。いつ死ぬかもわかりません。あなたを悲しませたくない、傷つけたくない。そんなことは、もうたくさんです……」
「純さん」
純はゆっくりとすみれを見つめた。彼女は戸惑った様子でこちらを見つめている。
川のせせらぎが耳に障った。
純は乾いた笑みを浮かべて、告げた。
「――だからお別れです」
そう伝えた瞬間、すみれが目を見張る。目尻には涙が溜まっていた。それに気づかないふりをして、純は顔を背ける。これ以上、彼女の表情を見ていると、決心が揺らぎそうだったからだ。
「……それでは」
純は立ち上がろうした。それをすみれが必死に止めに入った。
「待って――っ!」
すみれが身を乗り出したとき、
「きゃっ」
彼女は純の刀の鞘に手をとられた。
「あっ!」
びっくりした純は彼女を支えようとして手を伸ばし、そのまま地面に背中から倒れた。草のおかげで大して痛みはなかった。
「大丈夫ですかっ?」
そう彼女に聞いた。刀で手を滑らせたのだ。刃でどこか切っていないか純は不安になった。
声を掛けた途端、純の頬に水滴が落ちた。驚いて目を見開く。
「すみれさん……」
彼女は泣いていた。濡れた漆黒の瞳から涙が落ちていく。
「……いやです」
すみれが小さく呟く。純は聞き取れなかった。
「え?」
「お別れなんて言わないでください!」
止めどなく涙が溢れる。すみれの震える手がぎゅっと純の着物を握り締めた。
「私はあなたと離れたくないです! もっと一緒に居たいです!」
すみれは純の胸に顔を埋めた。
純は歯噛みした。
「僕もあなたと離れたくないです。だけど……!」
自分は長州藩士で人斬りだ。彼女とは相容れない存在。だからこそこちらから引くべきであり、彼女の幸せを考えるのなら当然だ。
「そんなことどうだって構いません!」
聞いたこともない大きな声に、純は驚いた。すみれが顔を上げる。涙で濡れた顔だが、せいいっぱい笑っていた
「たとえ、あなたがどんな人あろうと、私の思いは変わりません」
「……すみれさん」
純は彼女の名前しか呟けなかった。
すみれは涙声で続ける。
「だから! お別れなんて、悲しいこと言わないで……っ!」
「……」
彼女が悲しんでいる。悲しませたくないなんて言っておいて、すぐにこのざまだ。
ぽたぽたと着物に染みをつくる暖かい涙。
答えはすぐに出た。
「すみれさん、僕はあなたの悲しむ顔を見たくない」
純はすみれの体を抱きすくめた。彼女の体がビクリと震えた。そんなことは気にしなかった。純はぎゅっとすみれを抱きしめる。
「僕もあなたと離れたくない」
耳元でそう囁く。
「あなたが傍に居てもいいと言うなら、僕は傍に居ます」
その言葉にすみれが首を縦に振った。抱きしめているから声が出せないのだろう。純は腕の力を緩め、顔を上げたすみれを見つめた。その表情は嬉しそうだった。
「いや……」
純は首を振る。淡く笑い、すみれを言う。
「相手に答えを求めるのはずるいですよね」
「……」
純ははっきりとした声ですみれに告げた。
「僕は、あなたと一緒に居たい」
彼女の頬を流れる涙を拭う。
「できれば、ずっと……」
優しく微笑むと、すみれの瞳から涙が溢れた。だけど懸命に堪えて笑って返してくれた。
「はい」
元治元年晩夏。
人斬りの彼と、町娘の彼女は。
激しく動き出す時代に、二人は誓い合った――。
2014年10月1日:誤字修正・加筆




