第二話 元治元年三月
翌朝。
井ノ原純は長州藩士たちが身を隠している料亭で寝起きをしている。朝起きて、布団をたたみ、身支度をする。
京に来て半年。普段と変わらない。
支度を済ますと、純はふと自分の掌を見た。
「……」
近頃、血の匂いが染みついている。そう思うようになった。昨夜もきちんと身を清めたが、匂いがしてはたまらない。だからと言って、町を出歩くことはあまりないのだが。
「ま、いいか」
気にする必要なんてない。自分は人斬りだ。血の匂いがするのは当たり前。長州のために命を懸ける、とまでの思いは純ににないが、今はやるべきことをやるのみだ。
そう思い、部屋を出た。
朝食をとるため、広間に向かっている途中に声を掛けられた。
「お早うございます。井ノ原君」
「楠本さん、おはようございます」
彼は楠本浩幸。眼鏡を掛けた誠実な人物であるが、純にとって、彼は不思議な雰囲気を持った人物だ。しかし人斬りである自分に声を掛けてくれるから良い人なのだろう。
「井ノ原君。政義を見ませんでしたか?」
そんなことを考えていると、楠本が質問をしてきた。
「いえ。昨夜の検分の時から見ていません」
「あの馬鹿。またどこかで酔い潰れているな……まったく」
「何か用事ですか?」
廊下を歩き、楠本の話を聞いた。
「そうですね。今日は藩邸に赴き、桂先生にお目通りする予定でしたが……どこで何をしているのか」
はぁと重く息を吐いた。
その様子から心底呆れている。
甲斐と楠本はよき好敵手であり親友である。桂小五郎の下で行動する中、いがみ合いが多いが、それは相手をよく知っているからこそできるものだ。
「朝餉が終わったあと、探しましょうか」
純はそう提案した。すると、楠本は眼鏡の奥の瞳を丸くして、
「いや、井ノ原君の手を煩わせるわけにはいきません」
「構いませんよ、どうせ暇ですから。それに昨夜勝手に帰ってきた僕のせいかもしれませんし」
あのとき一緒に帰っていれば、楠本も困らなかったはずだ。
彼は思案顔だったが、やがてにこりと笑った。
「それでは言葉に甘えて。申し訳ないですが、朝餉の後に探しましょうか」
「はい」
純は了解した。
朝食を済ませ、料亭を出る。
二手に分かれて甲斐を捜索することになった。これは楠本が言い出したことだ。そうすると、楠本は島原の方に行ってしまった。
「どうせあの男のことです。色町でさぼっているのでしょう」
別れる前にそんなことを言っていた。確かに甲斐ならそうかもしれない。
純は楠本を見送り、料亭の前で唸った。
「……はて、どこを探そうか」
はっきり言って純は京の地理に疎い。半年も住んでいるのだからいい加減覚えなくてはならないのだが、いかんせん京というのはどの曲がり角も同じように見える。
「今僕がいるのは七条だから……向こうを行ったら、鴨川かな?」
曖昧な記憶を辿りながら考える。
「河原町に出ると、長州藩藩邸があるけど……」
これは覚えていた。甲斐に散々言われたからだ。訪れたのはほんの数回だが。
「そっちに行ってみようかな」
楠本は長州藩藩邸に用があると言っていた。もしかしたら甲斐はもう向かっているかもしれない。
「それがないから楠本さんは島原のほう行ったんだけど」
自然とため息が出た。甲斐も少しは志士らしくしたらいいのと思う。
しかし純に選択肢はない。確実に知っている場所がそこしかないのだから。
そんな軽い気持ちで、純は歩を進めた。
結局迷った。
鴨川まで出たのがいいが、河原町に行くにはどう行けばいいのかわからくなった。仕方なく、京の人に道を聞いた。
「坊、河原町なら鴨川を上がっていくんやで。そしたら三条大橋があるさかい、そこまで行けたら大丈夫やろ」
「すみません。ありがとうございます」
純は礼を言って、鴨川を上って行った。
「いないな、甲斐さん」
三条大橋のまわりを歩いてみるが、甲斐の姿はなかった。
「楠本さんがあたりかな?」
もしそうならば、いつかここらを楠本と甲斐が通る。
いずれにしても、暇な純は彼らが来るのを待つことにした。どこか休めるところがないかと茶屋を探す。
そのとき――。
「やめてください!」
その声に純は振り返った。
2014年8月17日:誤字修正・加筆