第三話 『絶対音感』
いつものように高校の制服を着た男は、道を歩いていた。
ブレザーの内ポケットの中に音楽プレイヤーをいれ、ヘッドフォンを装着して街道を歩く。
男は、とある公園に立ち寄りベンチに腰を下ろして空を見た。
「……やぁ。奇遇だな」
空を見上げて男は口を開く。
「全く、人が多いところは音が多くて困る。『音酔い』というものを知っているか?読んで字の如く音に酔ってしまい、気分が悪くなることを示すのだそうだ」
この男にしては珍しく、疲れた声で顔を前に向けずに言う。
「……嗚呼、これでも俺は人が多いところに弱くてね。特に賑わうところが大嫌いなんだ。いや、昔よりかは嫌いではなかくなったのだけれども、ね」
そして、男は少し青い顔で前を見た。
「……そういえば音に関する話があった。語ろうか。いや、語らずして俺は存在しない。するさするともさせてください」
誰に言うでもなく、その男は一人でぼやきながら言葉を放つ。
「……これは、『絶対音感』を持って生まれてしまった男の話だ」
空を見上げ、懐かしむように語り始める。
「おい、あの暗い奴、お前と同じ小学校だろ?どんな奴なんだよ」
「し、知らねぇよ……!!」
中学へ入学してから二ヶ月が経った今、既に一年生の中で時の人となった人物がいる。その名は音宮という少年だ。
音宮はいつも何か悪いことを考えているのかのように暗く、そして何よりも不気味な存在だった。
小学生から中学生になりたての少年が放つ若々しさと言うものを、その少年からは微塵も感じない。
まるで、精神年齢は今の身体の年齢よりも何十歳以上年上だと言わんばかりに、音宮からは若々しさと言うものが消えていた。
「……」
「音宮」
「なんだ、竜宮か」
音宮に唯一声をかける生徒。竜宮と呼ばれる生徒は音宮にとっては珍しい存在でもなく、ましてやただの存在ではない。
常識人の皮をかぶった奇人。それが音宮の竜宮への認識だった。
「どうしてお前は関わってくる」
と問えば、
「君はどうしてそんなふうに世界を嫌う」
などと質問を質問で返してくる会話を好む人物で、もちろん成立なんてものは存在しないように見えるが、その実、彼らはそんなことはどうとでも良かった。
お互いに重要なのは互いの存在の確認。ただそれだけのために、不成立のような会話で成立する関係が互いに好きだった。
「「だから、これでいい」」
『絶対音感』の音宮と『奇怪痛快常識人』である竜宮の関係性は、誰にも揺るがない絶対的なもので確立されている。
だが、音宮には一つの悩みがあった。
それは、絶対音感ゆえの悩み。
『あのね! 今日私運勢最高だったの!』
『サッカー行こうぜサッカー!』
『昼飯購買でなんか買おうぜ』
ありふれた会話。ありふれた日常。だが、音宮の耳には言葉だけではなく音階まで理解してしまう。
話す言葉だけならばまだましなのかもしれない。しかし、椅子を後ろに引く音から歩く音、ノートを書く音までもが音階として脳内に響き渡る。
それが音宮にとってたまらなく気持ちの悪いものだった。例外なく、友人にすら苛立つ日々を過ごす。
『竜宮には絶対音感なんか関係ない』などという甘い話など存在しない。
絶対音感は通常通り、何者にも働く上に何物にも作用する。
「……音宮、大丈夫か?」
「ああ。まだ、大丈夫だ」
「無茶はするな。気分が悪いなら眠って脳を働かせない方がいい」
「……助かる」
竜宮の存在は、一種の精神安定剤に似ているものだと音宮は認識している。
不快ではあるものの、竜宮と会話する時だけ竜宮の言葉にのみ耳を傾け、周りの音を認識しないようにと無意識で行っているのだ。
人は目の前のものを認識する時、他の周りにある認識に邪魔なものを意識的に拒否をする。それは集中という言葉で表すことができ、音宮にとって竜宮は集中しやすい人間だった。
「ところで」
「あ?」
「お前っていつも不機嫌だよなぁ。なんだ?思春期か?」
「馬鹿も休み休み言え。知っているくせにそういうことを言うのは悪い癖だぞ」
「確認したいじゃないか。興味その他諸々だよ」
「逆に質問しよう。興味以外はなんだって言うんだ」
「知識欲」
「そんな知識はそこら辺の溝にでも投げいれてしまえ」
「『どぶ』じゃなくて助かるよ」
音宮の不快感は、竜宮と会話している時だけ緩和される。
消えるではなく緩和。それはお互いに理解しているところだ。
相手を思いやる気持ちを忘れていない――――人を人と思わない状態になる一歩手前の音宮の状態だからこそとも言える――――音宮だからこそ、我慢ができる。
不快感に見舞われている音宮は、そのお見舞いに慣れてしまった。
しかし、ストレスは溜まる一方である。
慣れていると気にしないは決して結ばれないほどにイコールなどと言うもので結ばれない。
「とりあえず、保健室で寝て来い。顔色が悪すぎてみていられない」
「……そうか、そんなに悪かったか」
「お前の場合、特例過ぎて一言で通るよ。生まれ持った才能が、自分を苦しめるとは何たる皮肉だな」
「俺も、そう思うよ」
苦笑いをお互い浮かべて、音宮は保健室へと向かった。
ここまでが、ほんの序章。そして、ここからが、本編だ。
保健室へ行き、事情を説明した後に保健室に備わっているベッドに入り、脳を休める。
肉体は三時間程度の睡眠でほぼ回復するが、脳はそうはいかない。
脳は働きを行い、その疲れに際して必要な睡眠をとる。六時間以上眠るというのはそういうことも含めて、だ。
言うまでもないが、音宮の脳への負担は大きい。無意識ではあるが、脳が聴覚神経から受け取った音を全て音階として変化させるのだ。音宮の鋭敏すぎる感覚は、脳への負担が限りなく大きい。
「……」
だから、眠る。
音宮も、少しずつは慣れてきているのだが、それでも生まれてまだ十五年ちょっとしか過ごしていない人間である。一生という付き合いにしてみれば、それはまだまだ青臭い話だ。
音宮は、すぐに眠りに入った。脳が疲れているのだから、それも当たり前のことだと言える。
だからこそ、この後に音宮という男は脳の疲れが取れたがために、崩壊するのだった。
ところ変わって竜宮は教室でのんびりと過ごしていた。
ただ、つまらなさそうにのんびりと。「(音宮がいないとなぁ)」と考える。
片割れといえるほどに仲の良い音宮を、竜宮は心配しつつも少し恨む。
絶対音感がなければ音宮と過ごす時間が増えて面白いのに、と。
しかし、IFの話など現実主義者の竜宮にはどうでもいい話である。
「(だ~、暇だぁ。こう、何か、何か暇潰しを見つけないと退屈で殺されてしまう)」
安心しろ、死にはしない。
音宮がいれば、竜宮へそんなツッコミが入るのだが、生憎音宮は保健室のベッドで熟睡中だ。
脳内再生で漫才を繰り広げる現実主義者は、満足そうだったが。
「それでは、今日はここまでだ」
教師が授業を終了し、教室を出て行く。
休み時間となったが、竜宮は休んでいる気分がしなかった。否、休み時間ではなく無駄な時間、と言ったほうが正しいだろう。
することもなく、窓の外を見てボーっと過ごすだけの時間。何もしないしする気もないその時間を、無駄と言わずして何と言えば良いのか。
「音宮って、ほんと態度悪いよな」
「いっつも暗いし、保健室に行って寝てるし」
「不登校になっちまえば良いのに」
男子の、同じクラスの男子生徒の声が竜宮の耳に入る。
事情を知らない人間が、音宮を語る。
竜宮にとって、これほどまでに不快なものはなかった。
音宮がいる時に言えばいいものを、いない時に限って言うのだ。
腹が立たないわけがない。
「(聞き流そう。ストレスを溜めるのは良くない。音宮をからかって発散するのも手の一つだが、寝起きにそれはきついし失礼だろう)」
本音を言うならば、鋭いツッコミを期待できないからなのだが。
「竜宮も大変だよなぁ、あんな奴と一緒にいるなんて」
「気苦労が耐えないよな!」
「そうそう」
「聞き逃せないな、今の発言は」
立ち上がり、話をしている男子三人に言い放つ。
怒気が籠もり、荒々しくなるのを必死に押さえつけている口調。
ただの一言に、クラスの空気が一変した。
否、変えられた。ただの一言で、何もかもが変わった。
「な、なんだよ。俺たちはただ、お前が大変そうだなと思って!」
「余計なお世話だ。好き好んで接しているだけだ。それを、勝手な尺度で測るな。虫唾が走る」
「な、なんだよ!」
「黙れ。今無性に苛立ってるんだ。殴りかかりたいぐらいさ」
女子達が震えながら竜宮を見るが、そんなことは関係無いと言わんばかりに語気を荒げ続ける。
先ほどの男子生徒三人は、竜宮の意外な一面を見たと言わんばかりにほくそえむが、実質こけおどしにすら成らないほど、驚愕し、恐れていた。
「りゅ、竜宮……!抑えて……!」
女子の一人が竜宮を静止にかかる。
当たり前だ。竜宮は、音宮もしくは自分自身の友情にかかわる男子の次の言葉で、確実に殴りかかるだろう。
「今回は、聞き逃しってことにしてやるが、次何か言ったら殴るからな」
「ど、度胸もないくせに言ってんじゃねーよ!」
「見栄張りと言いたいのか。そうかそうか。見せしめが必要かな」
酷く凶悪な笑みを浮かべる竜宮が、教室を支配していた。
いきなりだが、この頃の竜宮を語るならば、平穏の二文字が相応しい。
この状況下で平穏などという言葉が上げられる時点でおかしいのかもしれないが、実際に、平穏だったのだ。
小学生の頃は、一人に対していじめを犯したクラスの人間に反抗して、言いがかりをつける奴等は殴り倒していたし、その恨みで殴ろうとしてきた人間を返り討ちにしていた。正義を気取った物言いが気に入らなかった。いじめていたくせにそんなこと言う上に殴りかかるから殴り返してやった。
全て、反省はしていない。
そんな、人間だった。現在我慢できている時点で、知っている人間からしたら奇跡に近い。
そんな竜宮を一年という短い月日で六年分の荒んだ心を豊かにした人物が、音宮だった。
同じクラス、たまたま席が近かっただけ。それだけだ。
竜宮と話す機会など殆どなかったのだが、音宮の行動はいつもの如く、変わらず、授業中でもところかまわず、空を見上げることだった。
雨の日も、曇りの日も、快晴でも、千変万化する空を見上げること。
バカみたいに、一つ覚えのように空を見上げる。
だから、聞いた。「どうして、空を見ているんだ?」と。
音宮の反応は、面倒くさそうだが律儀に、真面目に答えた。
「空ってさ、こんな五月蠅いところよりも静かそうでいいじゃん」
小学生みたいな理由だった。
事実、このときの竜宮は音宮の絶対音感のことなど知っているはずもなく、純粋に、初対面に近しい状態で話しかけた。
だが、その返答は竜宮のツボにはまったらしく。
「あはは!なんだその理由!」
「五月蠅い。しかたないだろ。本当にそう思っただけなんだから」
「小学生でも、思わないぞ!あっはっは!!」
「最近まで小学生だった奴が言う台詞かよ……」
「おま、お前って、面白いなぁ!」
「そうか?」
「そーだよ」
単純明快な答えにしてメルヘンチックながらもリアリストのような空へのこだわりは、竜宮の予想の遥か斜めだったそうで、音宮への興味を掻き立てた。
稀に見る人間性。それが、竜宮の心に種をまくのだった。
そんな邂逅をし、お互いに仲のいい関係を築いてきた。
しかしながら、竜宮の本質はまるで変わってはいない。
『友人、または陰口のような腹の立つ行為は許さない』という、陰湿で卑劣で下劣な行為を、竜宮は許さない。正義なんて崇高なものではなく、悪を許さないだけ。
正面向かって堂々の喧嘩ならば竜宮は止めることも言うこともない。お互いに望んで行ったことなのだから。そこに、正義などという傲慢さを持ち込むことは正気の沙汰ではない。無論、教師は別。
「やめておけ」
だが、ただ一人、この空間支配を止めることのできる人間がいることを理解していない、竜宮ではなかったわけだが。
「……音宮か。なんだ、もう帰ってきたのか」
「五十分だがいい休養になった。で、どーやら俺の陰口を叩いていたみたいだが」
「その通り。そして『殴る度胸もないくせに!』などと言われては、殴りたくなるだろう?」
「わからなくはないが、やめておけ。そもそも、俺の問題だ」
「……ちっ。舐められっぱなしは趣味じゃない」
「趣味ですらないだろ、それ……」
「あやだよ、言葉のあや」
「わーってるよ。で、この三人だが」
「なんだよ!もとはといえばお前が!!」
「五月蠅い黙ってろ」
「がっ!」
殴った。五月蠅いという理由で何の躊躇いもなく殴った。
脳天を突き刺すような鋭い拳骨は、黙らせるのに文句なしの一撃。
「今スッキリしていてこれで竜宮となんのストレスもなく話せるかもなーとか思ってるところにぐちぐちぐちぐち五月蠅い手前らの台詞聞いてたら、またダウンするわ」
一息で、捲くし立てる所か竜宮の代わりに教室を恐怖で支配するものが現れたことを理解させるために言い放つ。もちろん、怒気は出血大サービス中と言えば親しみやすく且つ分かりやすいだろう。
「な、殴りやがったな!」
「……音宮、『理不尽』という言葉を知っているかい?」
「俺が一生付き合う言葉だ」
「そういうことを言ったのではないが……。まあいいだろう」
何がいいのかは良く分からないが、音宮は満足そうだった。
「おい竜宮。この三人、殴り倒していいか?」
「かまわない。むしろ願ったり叶ったりだ」
「そうかそうか。まぁ、そうだな。俺の悪口を竜宮に聞かれた時点で運が『悪』かったな。どこぞの人間よろしく、俺は悪を見逃すことはできないんだ」
「君、今確実に友人の『悪』口を言ったな」
「当たり前だ」
「これが終わったらしばく」
「マジで!?」
その後、二人は教室で大暴れし、当たり前だが教師に怒られた。が、相手にも非があったことをクラスの女子が立証した。竜宮からの制裁はされることはなかったことが、音宮の唯一の救いとなったことを教師は知らない。
後に、この二人は悪名をとどろかせる存在となるが、それはまた別の話だ。
少し満足げに、ブレザーを着ている男は空を見る。
「何が起こるかわからない。が、絶対音感など彼の個性のひとつでしかない。否、そもそも特技なんてものは個性であり、主張するべきものだ」
微笑を浮かべ、空を仰ぎ見る。
「ちょうどこんな感じの空だ。あの日ほど、清清しいと感じる時はなかったらしい」
「隣、失礼して良いかな?」
「どーぞ」
空を見ながら、ベンチの端に寄って一人座れるスペースを作る。
「君、正義って信じるかい?」
「信じない主義だ」
「なら、悪は?」
「存在している派だ」
「そう。悪を許せる?」
「正義の味方の勧誘ならお断りだ。性に合わない」
「そのようだね。ところで、先ほど口から洩れていた物語なのだが」
「おや、聞いていたのか?困ったものだ。最近、独り言が多くなって困る」
「絶対音感は関係ないのではないかな?」
「甘いなぁ。関係あるよ」
どんな風にと聞く隣に座る人を横目で見て、溜息混じりに言った。
「それがなければ、友人と出会えず友人すら出来ない寂しい男の物語になるだろう?」
「……そうかな?」
「そうさ。不幸な星の下に生まれた男の個性が、友人の氷のような心を溶かす。いい話じゃないか」
「ふぅん。そうかいそうかい」
なにやら嬉しそうな笑い声が男の耳に聞こえる。
面白さのかけらもなく、落ちすらないこの話のどこに面白さがあるのだろうと、男は思った。
「悩み苦しむ話だと思っていた」
「そうかい。それは勘違いだ。今回の話は『個性は大切であり、それに関して起こる不幸などちっぽけなものだ。悩むだけ損』という主題の話なのだが」
「中学で広まった噂のひとつ、『「絶対音感」と「奇人変人」』の話だっけ」
「よく知っているな。どう見ても高校生の癖に」
「君だって、高校生だろう?それに、中学ならちょっと前の話だ」
その通りだなと男は言いながら欠伸を一つ。眠そうだった。
「それにしては、チョイスがおかしいね」
「どーして?」
「それなら、もっと感動する話にすればよかったのに」
「ああ。俺が音酔いしたから音に関する話を思い出して、個性の大切さを語っただけだ」
「ふうん。君、なんでそのクラスの女子が大暴れした二人の行動を庇ったか知ってる?」
「さあ」
男は、雲を見ながらどーでも良いように言う。
本当に、気にもかけていないようだった。
「おや、知っていると思ったのだが。そこまで詳しいのなら」
「知らないものは知らない」
「そうかいそうかい。ついでにお土産と思って聞いておけ」
そういいながら、その女子は空を見上げる男の背もたれ側に立って、男の顔を覗き込みながら言った。
「そいつはね、庇ってくれた人たちと同じ性別だったのさ」
「……マジで?」
「マジで」
「意外、過ぎてつまらないな」
「あっはっは!まぁ、現実そのようなものさ。そしてね、陰口を言っていた男たちはその女子によって制圧され、二度と悪口を言えない身体にされたらしいよ」
「……怖いっす」
「慕われている女性は、まぁそのクラスの女子筆頭みたいな立場になったそうだ」
適当な相槌を返す男の額に、女性はデコピンをした。
なかなかの快音が、二人の間で広がる。
「何しやがる」
「制裁」
嬉しそうに、その女性は笑った。
暗い話ばかり書くと思ったら大間違いさ!シリアスだけだと、僕の気が滅入ってしまうので。
感想などなどお待ちしております。
次回は「未定」です。なにか「こんなのを書いて欲しい!」と思うものがあれば書きますので、感想に書いてください。