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9/9

第9話 庭の記憶 落ち着く場所、震える手のひら

引き続き、また今後も絵文字を sprout で代用してます 

 9回目の土曜日。朝から落ち着かなかった。


 理由は管理局からの連絡。水曜日に澤村さんから電話が来た。


「柏木さん、今週の土曜に見学者が来ます。3名。管理局が手配した小規模ツアーです」


「ツアー? 俺の庭に?」


「庭というか、セーフエリアC-7の視察です。でも堅苦しいものじゃないですよ。あのエリアの空間安定度が話題になっていて、実際に見たいという問い合わせが増えているので」


「3人?」


「最大3人、30分まで。配信前の時間帯でお願いします。柏木さんの庭いじりの邪魔にはしません」


 断る理由はなかった。でも不思議だ。6畳の庭を見に来る人がいるなんて。


 †


 土曜日。昼の2時。ゲートを通った。


 セーフエリアC-7。いつもの景色。でも9週間前とは別の場所みたいだ。


 バジ太郎が中央に座っている。葉の数はもう数えていない。数え始めた頃が懐かしい。6枚、8枚と1枚ずつ報告していた頃。今は茂っている。小さな木に見える。


 トマ次郎の実。先週は緑色の小さな球だった。今日見ると、表面にうっすらとオレンジ色が滲んでいる。まだ全体は緑だけど、日がよく当たる側から、じわじわと色が差してきている。


「色が変わってる」


 声に出した。1人だから、声が小さい。


 手を伸ばして触ろうとして、やめた。表面の皮が、まだ硬い。指先に伝わる緊張みたいなものがあって、「今はまだ」と言われた気がした。自分のタイミングで熟してくれ。


 ミン三郎は相変わらず壁の中で暴れている。でもちゃんと壁の中にいる。壁を35センチまで深くしたのが効いている。ラベンダーの苗は根づいた。紫色の蕾が三つ。緑の中にぽつぽつと濃い紫が浮かんでいる。まだ閉じているけれど、今にもほぐれそうな張りがある。


 石のベンチ。俺が魔力で地面の石を寄せ集めて作ったもの。3人分くらい座れる。普段は俺しか使わないけど、今日は来客がある。


 カケルとチビケルが境界の向こうにいた。チビケルが体長30センチを超えた。もうチビとは呼べないサイズだが、名前は変わらない。名前というのはそういうものだ。


 †


 2時半。澤村さんが3人を連れてきた。


 四十代の女性。スーツ。覚醒者管理の関連団体の人。三十代の男性。メガネ。研究者っぽい。もう1人は六十代の女性。白髪交じり。服装はカジュアル。管理局の元職員だと澤村さんが紹介した。


「柏木さん、こちらの方々です。30分ほどご案内をお願いします」


「はい。えーと、ここがセーフエリアC-7です。6畳くらいの広さで、3ヶ月前から庭を作っています」


 3人が入ってきた。最初に反応したのは六十代の女性だった。


「あら」


 立ち止まった。ゲートから三歩。土の上。


「……なんだろう、ここ」


「何かありましたか」


「落ち着く」


 女性がそう言った。理由を探すような目で周囲を見回して、首を傾げた。


「ダンジョンの中なのに。なんでこんなに落ち着くのかしら」


 その「落ち着く」という一言が、その場の空気を少し柔らかくした。俺がコメント欄で何度も見てきた言葉を、ダンジョンの中で、初めて会う人が口にした。


 四十代の女性もうなずいた。「確かに。空気が違いますね。胸のあたりがふっと軽くなる感じがします」


 三十代の男性は分析器を取り出して数値を測っていたが、途中で手を止めて、ゆっくりとベンチに歩いていった。


「……いいベンチですね」


「魔力で石を寄せて作りました。座り心地は悪いと思いますけど」


「いえ。ちょうどいいです。座ったとたん、力が抜ける感じがして。データ取る前に、一息つきたくなってしまった」


 研究者が分析より先に、座ることを選んだ。仕事より「ここに留まること」を優先した。その事実が、少しだけ怖くて、少しだけ誇らしかった。


 30分。3人は庭を見て回った。


「これがバジ太郎です。最初に植えたバジル。198円。サミットで買いました」


「サミットって、スーパーの?」


「はい。新宿のサミットです」


 六十代の女性が笑った。温かい笑い方だった。「スーパーの苗がダンジョンで育ってるの。すごいわね」


「すごくはないです。普通のバジルです。ダンジョンの土がたまたま合っていただけで」


 トマ次郎の実を見せた。緑からオレンジに変わりかけている小さな球。三十代の男性がメガネの奥で目を細めた。


「ダンジョン内で果実形成まで到達した記録は初めてです。論文になりますよ、これ」


「論文ですか。248円の苗の論文」


「価格は関係ありません。ここで起きていることが重要なんです。緑からオレンジに変わる、その一段階ごとに、環境との相互作用が刻まれているんですから」


 ミン三郎のエリアを案内した。壁の中のミント。暴走の歴史。初めて壁を突破したときの話。チビケルがまだチビだった頃の話。カケルが最初はバジルを食べようとした敵だった話。


 チビケルが最初、バジルの葉を丸呑みして喉を詰まらせたこと。次の週には、カケルの食べ方をまねして、葉の端をちぎるようになったこと。ミントの地下茎が壁を避けて伸びたこと。そういう細かいことまで、自然に口からこぼれた。


 説明しながら気づいた。俺はこの庭のことをよく知っている。9週間分の記憶がある。どの植物がいつ来て、いつ花を咲かせて、いつ問題を起こしたか。どの鳥がどの動きをして、いつから食べ方が変わったか。全部覚えている。ガイドのように話している自分に驚いた。いつの間にか、この6畳の空間が俺の知り尽くした場所になっていた。


 四十代の女性がしゃがんで土に触れた。


「本当だ。温かい。ダンジョンの中なのに」


「脈動、感じますか」


「脈動……? ああ、何か、微かに。心臓みたいな」


「それが毎週強くなってるんです。最初はかすかだったのが、今は手のひら全体に伝わってくる」


 女性が手を土から離した。不思議そうに自分の手のひらを見ていた。手のひらをぎゅっと握って、また開いて、「変な言い方だけど、本能が安心する感じがします」と小さくつぶやいた。


 六十代の女性が帰り際に言った。


「また来てもいいですか」


「管理局に聞いてください。でも俺は毎週土曜にいます」


「毎週。偉いわね」


「偉くはないです。好きでやってるだけなので」


「好きでやれることがあるのは、10分偉いわよ」


 3人が去った。


 俺は石のベンチに座った。まだ温かい。誰かが座った温もりが残っている。


 「落ち着く」と言ってくれた。理由もわからないのに。ダンジョンの中の6畳の空間が、初めて来た人を落ち着かせている。


 不思議だ。俺は土壌のpHを調整しただけだ。水分量を管理しただけだ。根止め壁を作っただけだ。それだけで、人が「落ち着く」場所になるのか。


 A級やS級の覚醒者は、ダンジョンの中で戦って、モンスターを倒して、人々を守っている。俺にはそれができない。D級だから。でも「落ち着く場所を作る」ことなら、もしかしたらできているのかもしれない。それが何の役に立つのかはわからないけれど。


 †


「第9回、ダンジョン庭いじり配信です」


「視聴者数……1,200人。四桁が当たり前になってきました。先週から常連コーナーも始めたので、今日もやります」


(Comments)

【sprout_常連A】1,200人!

【sprout_gardenFan_03】四桁がデフォになってきたな

【sprout_カンナ先輩】今日もよろしくお願いします

【sprout_毒舌キノコ】四桁が日常になったな。あの8人時代が懐かしい

【sprout_常連B】古参の誇り

【sprout_GreenThumb】Good afternoon, everyone. Let's see the garden.(皆さんこんにちは。庭を見てみましょう)

【新規31】初見です! クリップ見てきました

【新規32】初見。海外スレで話題になってて


「今日は配信前に見学者が来てました。管理局が手配した小規模ツアー。3人。30分」


(Comments)

【sprout_常連B】ツアー!?

【sprout_gardenFan_03】庭にツアー客が来る時代

【sprout_毒舌キノコ】D級の6畳庭園にツアー。冗談みたいだ

【sprout_カンナ先輩】見学者の感想が気になります


「1人の方が入ってすぐに『落ち着く』って言ってくれた。理由はわからないけど落ち着くって。ダンジョンの中なのにって不思議そうにしてた。研究者の人は、測定の途中で分析器置いてベンチに座ってました。データより先に、座るほうを選んじゃうくらい」


(Comments)

【sprout_GreenThumb】Of course they did. This place has a presence. You've made something real here.(当然そうなりますよ。この場所には存在感がある。あなたは本物のものを作ったんです)

【sprout_カンナ先輩】空間安定度が高いから、体感的にも穏やかに感じるのかもしれません

【sprout_毒舌キノコ】D級が作った空間がS級を超える快適さ。評価基準の欠陥だろ

【sprout_gardenFan_03】俺も行きたい


「今日の庭の報告です。まずバジ太郎。もう葉の数は数えません。茂ってます。分析器で見ると、EM値が1.28。先週の1.23から微増」


「トマ次郎。見てください」


 カメラを寄せた。


「実の色が変わってます。先週は緑だったのが、今日はオレンジが入ってる。光がよく当たる側から、じわっと色が乗ってきてます。熟し始めてる」


(Comments)

【sprout_常連A】色変わってる!!

【sprout_常連B】オレンジだ!

【sprout_カンナ先輩】着色が始まってますね。あと1、2週間で赤くなるかも

【sprout_gardenFan_03】ダンジョン産ミニトマト、ついに……

【sprout_GreenThumb】The color change looks healthy. Good carotenoid development.(色の変化が健康的に見えますね。カロテノイドの発達が良好です)

【sprout_毒舌キノコ】カロテノイドって言葉をコメント欄で見る日が来るとは


「カロテノイドの発達が順調だとGreenThumbさんが。ありがとうございます。俺にはオレンジ色が綺麗だということしかわかりません。でも、このオレンジを見てると、赤くなった姿が頭の中で勝手に想像されて、ちょっとドキドキします」


「ミン三郎は壁の中。今日は大人しい。たまにこういう日がある。暴走しない日。根が伸びてない。休憩中かもしれない。ミントにも休みは必要だ」


「ラベンダーの蕾が三つ。まだ咲いてない。咲いたら庭にいい匂いが増える。バジルとラベンダーの匂いが混ざったらどうなるんだろう」


(Comments)

【sprout_カンナ先輩】ラベンダーの香りにはリラックス効果がありますよ。見学者が落ち着いた原因の一つかも

【sprout_毒舌キノコ】アロマテラピーをダンジョンでやる男。ジャンルが迷子だ

【sprout_GreenThumb】Lavender and basil together is a classic companion planting combination.(ラベンダーとバジルの組み合わせは定番のコンパニオンプランツです)


「カケルとチビケル。チビケルが30センチ超えました。もうチビじゃない。でもチビケルはチビケルです。俺がつけた名前だから」


 バジルの葉を投げた。5枚。カケルが3枚、チビケルが2枚。チビケルの食べ方がカケルに似てきた。くちばしで葉の端を挟んで、細かくちぎって、少しずつ飲み込む。最初の頃は丸呑みして喉に詰まらせていたのに。今は、まず一度だけ葉を軽くつついて、カケルのほうを見る。それから同じようにちぎり始める。完全に、真似をしている。


(Comments)

【sprout_カンナ先輩】チビケルの食べ方がカケルに似てきましたね

【sprout_gardenFan_03】親の背中を見て育つグラスバード

【sprout_毒舌キノコ】ダンジョンの鳥にも教育があるのか。進化論が揺らぐ

【sprout_GreenThumb】Learned behavior in dungeon fauna. Cultured behavior, even. Fascinating.(ダンジョン動物の学習行動ですね。ちょっとした文化の芽生えかもしれない。興味深い)


「さて、今日のメインは土壌の全域チェックです。GreenThumbさんの分析器で庭全体を測ります」


 分析器を持って庭を歩いた。端から端まで。6畳。でも6畳にしては歩きでがある。9週間の手入れで、それぞれのエリアに個性が出ている。


 バジ太郎のエリアは温かい。トマ次郎のエリアは乾燥気味。ミン三郎のエリアは湿っている。ラベンダーのエリアはまだ馴染んでいない。石のベンチの下は冷たい。


 歩きながら、無意識に鼻から空気が抜けた。メロディになっていると気づいたのは、二周目に入った頃だった。


 バジ太郎の近くで三拍。トマ次郎の前で一拍伸ばし。ミン三郎のエリアでテンポが少し速くなる。ラベンダーの前でまたゆっくりに戻る。じょうろで水をやるときのリズムに、なぜかぴったり合っていた。手のひらで土をトントンするときの間合いとも、同じだった。


 手を土に当てた。脈動。いつもの温かさ。でも今日はちょっと違う。


「……あれ」


(Comments)

【sprout_常連A】あれ?

【sprout_毒舌キノコ】お前の「あれ」はだいたい何か見つけたときだ


「脈動の位置が変わってる。今まで庭の中央、バジ太郎の下あたりが一番強かったんですけど、今日は……庭全体から感じる。端っこのラベンダーの下からも。石のベンチの下からも」


 手のひらに伝わるリズムが、バラバラじゃなくなっていた。どこに手を置いても、同じテンポで、同じ強さで、同じ方向に向かって脈打っている。土が一枚の毛布みたいに、庭全体を包んでいる感覚。


(Comments)

【sprout_GreenThumb】The resonance is spreading. Your magic has permeated the entire safe area now.(共鳴が広がっています。あなたの魔力がセーフエリア全体に浸透したんですね)

【sprout_GreenThumb】I'll be honest — where I am, dungeons feel like a sandstorm. Noise everywhere. But your stream is the only one where the image is perfectly clear. Like 4K in the middle of static. It's not just your camera. It's the space itself.(正直に言いますね。私のいる場所では、ダンジョンは砂嵐みたいなものです。ノイズだらけ。でもあなたの配信だけは映像が完璧にクリアなんです。ノイズの中の4K画質。カメラの問題じゃない。空間そのものです)

【sprout_カンナ先輩】庭全体に魔力が行き渡ったということですか

【sprout_毒舌キノコ】9週間かけて土に魔力を浸透させた。執念だな

【sprout_gardenFan_03】GreenThumbさんの「私のいる場所」ってどこなんだ……ダンジョン関係者?


「執念っていうか……毎週来てただけですよ。手を当てて、調整して、水やって。それを繰り返してたら、こうなった」


 立ち上がった。ふと気づいた。


 さっきから、メロディが口の中を回っている。唇を閉じているのに、喉の奥で音が揺れている。


「……あ、すみません。鼻歌うたってました?」


(Comments)

【sprout_常連A】うたってたw

【sprout_常連B】つちのこ先生の鼻歌!

【sprout_gardenFan_03】初めてじゃない? 鼻歌

【sprout_カンナ先輩】何の歌ですか?

【sprout_毒舌キノコ】仕事中に鼻歌。リラックスしすぎだ


「何の歌だろう。覚えてない。昔、聞いた曲だと思うんですけど。子供の頃かな。土をトントンするときのリズムと、じょうろで水をやるときの音と、今の鼻歌が、全部同じテンポだった気がします」


 子供の頃。


 記憶が一瞬、揺れた。でも配信中だ。深くは考えない。


「とにかく、庭全体に脈動が広がったのは初めてです。9週間で初。多分いいことです。庭が、まとまった一つの空間になってるような感覚があります」


「バジ太郎がいて、トマ次郎がいて、ミン三郎が壁の中にいて、ラベンダーが蕾をつけて、石のベンチがある。カケルとチビケルが境界の外にいる。それぞれバラバラだったものが、今日は全体で一つの庭に見える。うまく言えないけど、ピースがはまった感じがする」


(Comments)

【sprout_カンナ先輩】庭としてまとまったんですね

【sprout_gardenFan_03】ジグソーパズルの最後の一ピースみたいな

【sprout_毒舌キノコ】まだ6畳だぞ。完成を宣言するには早い


(Comments)

【sprout_GreenThumb】A garden is more than the sum of its plants. You've created an ecosystem. A living space.(庭は植物の総和以上のものです。あなたは生態系を作った。生きている空間を)

【sprout_毒舌キノコ】生態系。6畳の

【sprout_gardenFan_03】世界最小の生態系

【sprout_カンナ先輩】でもたしかに、ここには土と植物と鳥と人がいます。生態系って呼べますね


「今日の配信はここまで。来週、トマ次郎の実がもっと色づいているかもしれません。楽しみにしてください」


(Comments)

【sprout_常連A】来週も来る

【sprout_常連B】トマ次郎の赤が見たい

【sprout_gardenFan_03】毎週通うぞ

【sprout_カンナ先輩】来週も楽しみです

【sprout_毒舌キノコ】来る。トマトの成長を見届ける義務がある

【sprout_GreenThumb】See you next week. And Tsuchinoko-sensei — keep humming.(来週また。それとつちのこ先生、鼻歌を続けてください)

【新規33】なんで庭なんか作ってるの?


 最後のコメント。配信の終わり際。新規の人。


「なんで庭なんか作ってるの。うーん、いい質問ですね」


(Comments)

【sprout_常連A】それ聞く?

【sprout_毒舌キノコ】初見が核心を突くパターン

【sprout_gardenFan_03】つちのこ先生の原点


「理由は……まあ、いろいろあるんですけど。短く言えば、土をいじるのが好きだから。D級の能力がたまたま土壌操作で、ダンジョンの土がたまたま温かくて。それだけです」


(Comments)

【sprout_GreenThumb】Is it, though?(本当にそれだけですか?)


「GreenThumbさん、鋭いですね。……今日はここまでにしましょう。おつかれさまでした」


 †


 配信を切った。1,283人。


 画面が暗くなった。コメント欄が消えた。


 静かだ。


 1人。セーフエリアC-7。薄紫の空。魔力の粒が光っている。


 なんで庭なんか作ってるの。


 さっきは流した。いい質問ですね、で受け流した。D級で土壌操作で、土が温かいから。嘘じゃない。でも全部でもない。


 石のベンチに座った。さっき見学者が座ったベンチ。もう冷たくなっている。石は人の温もりを長くは保てない。土は違う。土は俺の魔力を9週間分蓄えている。石より土のほうが、記憶がいい。


 スマホの通知が光った。Twitterのタイムラインに「つちのこ先生の配信で泣いてる」「庭に行きたい」というポストが並んでいる。見学者の話が広がったらしい。「落ち着く」という言葉が引用されて、何人もが「俺も行きたい」と書いている。6畳の庭に行きたがる人がこんなにいる。


 通知をオフにした。


 さっきの鼻歌。何の曲だったか。子供の頃に聞いた曲。記憶の底から浮かんできた旋律。誰かが歌っていた。台所で。朝の光の中で。味噌汁の匂いがしていた。ごはんが炊ける音と、じょうろの水音と、その旋律が混ざり合っていた。


 水やりの音。


 ホースじゃない。じょうろの音。ゆっくりした水の流れ。土にしみこむ音。じょうろを傾ける手の動きと、今の俺の手の動きが、同じリズムで揺れている。


 俺はそれを聞きながら育った。


 手を土に当てた。脈動。温かい。ダンジョンの土は、いつも温かい。最初にここに来たとき、土に触って、温かくて、驚いた。普通の土は冷たいのに。ダンジョンの土だけが温かい。


 でも昔、温かい土を知っていた。夏の朝。水をやった直後の土。太陽に照らされて、水分を含んで、ほわっと温かい土。それを触りながら、隣にいた人の手が。


 小さくて、皺だらけで、爪の間に土が入っている手。


 ぼんやりとしか思い出せない。でも手のひらが覚えている。土の温度を通じて、あの手の温度を覚えている。


 今日、六十代の女性が「落ち着く」と言った。あの人の白髪。穏やかな笑い方。「好きでやれることがあるのは、10分偉いわよ」という言葉。あの人は祖母に似ていた。似ていたから、胸が詰まった。気づかないふりをした。


 GreenThumbさんの言葉が頭に残っている。


 Is it, though?


 本当にそれだけか。土が好きだから。D級だから。それだけなのか。


 違う。


 わかっている。本当はわかっている。俺がここに来る理由。庭を作る理由。毎週土曜日に、6畳の空間で土に手を当てる理由。


 でもまだ言葉にできない。配信で言えるようなものじゃない。1,200人の前で言えるような、整理された言葉じゃない。


 トマ次郎を見た。オレンジ色が滲んだ実。小さい。でも確実に熟している。緑とオレンジの境目が、境界線みたいにくっきりと見えた。


 来週、この実はもっと赤くなる。赤くなったら、食べられる。ダンジョン産のミニトマト。世界初の。


 赤いトマト。


 それを見たら、多分、もう黙っていられない。


 立ち上がった。帰る。


 ゲートに向かいながら、振り返った。薄紫の空の下に、小さな庭がある。バジ太郎。トマ次郎。ミン三郎。ラベンダー。石のベンチ。境界の向こうにカケルとチビケル。


 9週間前は何もなかった場所だ。今は庭がある。人が「落ち着く」と言ってくれる場所がある。


 来週、話そうかな。この庭のこと。本当のこと。


 まだわからない。話せるかどうか。でも脈動が背中を押している。温かい土の脈動が。あの鼻歌が。子供の頃の記憶が。


 帰りの中央線。窓の外に東京の夜景が流れていく。


 土の匂いが指先に残っている。9週間分の土の記憶が、手のひらに積もっている。

次話は明日朝7:00に配信します

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