第5話 這えばいいじゃない
重大な問題がある。
(移動できない)
いや、正確に言うと――
思った通りに移動できない。
俺は今、床の上に転がされている。
木の床。少し冷たい。
視界の先には、母の後ろ姿。
台所で何かをしている。
(あそこまで、行きたい)
だが。
(歩けない。立てない。転がると危険)
現状の選択肢は、限られている。
移動能力:未発達
直立歩行:不可
補足:代替手段あり
(……代替手段)
俺は、静かに考えた。
(目的は「あそこに行く」ことであって、
手段は「歩く」である必要はない)
つまり。
(這えばいい)
問題は、どうやって効率よく這うか、だ。
普通の赤ん坊は、
・手足をバタつかせ
・重心が安定せず
・進んでいるようで進まない
非効率の塊である。
(だが俺は、理屈が分かる)
パネルを開く。
身体構造:四肢短小
重心:体幹中央
筋力配分:不均衡
(なら、重心を低く、摩擦を減らす)
俺は、腹ばいになった。
(腹筋は使わない。
前腕と太ももで“押す”)
まず、右前腕を前に。
次に左太ももで床を蹴る。
――ずるっ。
(……いける)
思ったより、前に進んだ。
もう一度。
ずるっ、ずるっ。
(おお)
移動している。
明確に、距離が縮まっている。
移動方法:匍匐(簡易)
効率:通常個体比 220%
(比較対象が赤ん坊なのは気にするな)
その時。
「……レオン?」
母が振り返った。
次の瞬間。
「え?」
俺は、母の足元にいた。
「え? ちょっと待って、今そこに……」
(歩いてない。這ってきただけだ)
だが母の目には、
「赤ん坊が異様な速度で迫ってきた」
ように見えたらしい。
「あなた……!」
父が呼ばれ、状況確認。
「……なんだこれは」
俺は、床の上で満足そうにうつ伏せになっていた。
(成功)
移動能力:未発達
備考:匍匐移動により問題回避
(問題は回避した。根本解決ではないが)
だが、親はそうは思わない。
「まだ首も据わってないのに……」
「いや、速すぎるだろ」
父は俺の周囲をぐるりと見回した。
「……魔法か?」
(違う。物理だ)
俺は首を少し傾ける。
周囲認識:困惑
危険度評価:上昇
(あ、まずい)
その日の午後。
俺は、柵で囲まれた安全スペースに配置された。
「ここから出ちゃだめよ、レオン」
(監禁では?)
だが、仕方ない。
(なら、この中で最適化する)
俺は、スペースの端から端まで、匍匐移動のルートを確認する。
(角度、床材、摩擦……)
結果。
移動効率:さらに向上
村内観測:一部発生
(あ、村にバレ始めた)
外から、声が聞こえる。
「ねえ、あの子……」
「見た?」
「這うの、速くない?」
(やめろ)
その中に、聞き覚えのある声が混じっていた。
「……レオン?」
ミアだ。
柵の外から、じっとこちらを見ている。
「……虫みたい」
(的確だな!?)
俺は一瞬止まり、
ゆっくりと彼女の方を見る。
そして――
ゆっくり、方向転換。
ずるっ。
ずるっ。
ミアの前で、止まる。
「……はや」
ぽつりと呟いた彼女の声は、
驚きよりも、どこか楽しそうだった。
周囲反応:興味
特別視:低
(よし)
この子は、まだ大丈夫だ。
だが。
外部観測:徐々に増加
推奨行動:過度な目立ち回避
(……難易度上がってきたな)
俺は、天井を見上げる。
(歩けるようになるまで、
もう少し“地味”に行こう)
床の上で、俺は静止した。
――数分後。
母が振り返る。
「……あれ? レオン?」
俺は、いつの間にか
元の位置に戻っていた。
「……戻ってる?」
(帰巣本能です)
その日の夕方。
父は真顔で言った。
「……柵、強化しよう」
(方向性が違う)
対策:物理的制限
効果:限定的
(まぁ……想定内だ)
こうして俺は――
「這うと速い赤ん坊」 として、
村で静かに認知され始めた。
だがまだ、
誰も“本当の異常”には気づいていない。
それが、今はありがたかった。
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