記憶の邂逅
あの事件から、いくつもの春と冬が過ぎた。
気づけば――百年以上の月日が流れていた。
この世界では、人が百年を越えて生きることは珍しくないが、それでも長い年月だった。
あれ以来、同じような出来事に出くわしたことはない。
忘れたわけではないが、触れれば崩れてしまいそうで、私はその記憶に深く手を伸ばそうとはしなかった。
味覚の問題についても、私の予想とは裏腹に、数日で何事もなかったかのように治ってしまった。
今思えば、そのあっさりした解決が、事件について考えることをやめた理由の一つだったのかもしれない。
百年生きても、心は複雑だ――
研究しても、観察しても、解ききれない謎がいまだにある。
そう言う私は、今はまた心理研究の世界に戻っている。
何度も離れて、また戻ってきて……いつの間にか研究室にいることが習慣になっていた。
研究室を離れていた時期は、ものづくりをしてみたり、音楽を習って発表会で演奏してみたりもした。
その時その時で、心赴くまま好奇心に沿って行動していたのだ。
もちろんその隣にはアリシアも一緒にいる。
なにかと私の趣味を面白がる彼女は、間違いなく私の人生のパートナーだ。
陶芸を始めたばかりの頃、私はなんとか作り上げた自分のマグカップで、彼女の前で自慢げにコーヒーを飲もうとしていた。
しかしながら、カップを持ち上げた途端にあっけなく取っ手がとれ、あっという間に湯呑になってしまったことがあった。
この瞬間も彼女は私の方を見て笑っていたし、私もあまりにも拍子の抜けた結果に腹を抱えて笑った。
私たちは、ずっと二人でここまで歩いてきたのだ――
結婚こそしたものの、子どもを授かることはなかった。
二人で過ごす人生が、あまりにも心地よかったので、子どもの入る隙が無かったのだと思う。
私はいつも当然の様に満たされていて、心が欠けていると感じた瞬間は、一度もなかった。
結婚の際は、結婚式も行った。
お互いの友人や職場の同僚、両親を招いた小さなものだ。
その時の式場に満ちた温かい声と、幸せに溢れた一体感のある情景を今でも覚えている。
これらはすべて、私にとっては大切な私の思い出だ。
長い期間の中で、多くの事を経験した心は、確実にすり減っていった。
今では日常生活で起こるような出来事には、あまり反応しなくなっている。
この自由すぎる世界で、私が私だと思えるのは、これまでに積み重ねてきた記憶だけだった。
だから私は今、日常の何気ない一瞬に、過ぎてきた日々の面影を重ねてしまう。
笑いながら、時には胸が痛むほどに……
そんなことを思い出すのはおそらく、私が歳を取ったからだと思う。
遠くの昔に学習した、人間の――私の寿命について考える時が来たのだ。
人間は、寿命を迎えるとどうなってしまうか。
これについては、以前調べたことがあった。
人工知能《AI》の回答は明快で
「人間は寿命を迎えると、存在することが出来なくなり、消失する」
と、だけ記されてあった。
他のアプローチで調べてみても、寿命を迎えたらどこに行くとか、体はどうなるとか、細かい情報は記されていなかった。
漠然とした情報のみで、何の解決にも繋がらなかったのを今でも覚えている。
さらに、それに追い打ちをかけるように記載されていた内容は、不安を感じるようであればカウンセラーに話すことをおすすめする、という文言だった。
人工知能《AI》は非常に優秀だが、やはり時々このようなことがある。
これが少しおかしいことだと気づくようになったのは、私のこれまで過ごした時間と経験からだと思う。
――もっと早く気づくべきだったのに。
この着想に至った私は、そのままにして置くことができなかったので、私は仕事を休んでカウンセラーに話してみることにした。
大きな感情の浮き沈みはなく、知りたいという欲求だけが私を動かしていた。
「こんにちは、アレックス。電話で話していた件だけど……」
私は専属カウンセラーのアレックスに、若干前のめりになりながら話し始めた。
――私は身震いしている。
柔らかな日差しが入る白基調の統一感のある空間に、バランスよく植物が配置されている。
誰が見てもセンスがいいと感じるようなカウンセラールームだ。
「ハジメさん、こんにちは。早速ですね、大体の内容は伺っています。具体的にはどんなことが知りたいのでしょうか」
アレックスは私を上手にいなして、会話の主導権を握る。
ちなみに専属カウンセラーは数十年毎に変わる。彼は五人目だ。
「寿命が来た人はどうなるのか、アレックスは知っているか?」
私はまず、直球で聞いてみることにした。
「詳しいことはわかりません。存在が出来なくなって、消失してしまうようです」
アレックスは、表情には出さなかったが少しだけ間をおいてから、人工知能《AI》に聞いた時と同じ答えをした。
ここまでは予想通り。
他にも何回も同じことを聞かれたことがあるのかもしれない。
「それじゃあ、消失してしまった人を知っているか? クライアントにそうなってしまった人はいなかったか?」
少々早口になりながらも、私は気になっていたことを口にしてみた。
「うーん……私の知り合いには、そのような方はいませんね」
アレックスは少々思い出すような素振りをしながらそう答えた。
もしかしたら、と思っていたアテが外れた。
「それなら、消失してしまうことに不安を持っている人はいるか?」
それならばという気持ちで、私は別の事を聞いてみた。
「不安を持っている人は、結構いますよ。ハジメさんはどうですか?」
アレックスは私の反応をうかがうような眼をしながら、そう答えた。
「私は……まだ正直わからない。これまでの人生が恵まれすぎていたかもしれないから、いずれ終わりが来るのも納得できる。だから、ただ知りたいという気持ちが強いかな」
隠す必要もなかったので、私は本心を話した。
「そうですか」
アレックスは深入りせずに、短く答えた。
やはり、何か知っているのだろう……
だから細かく内容を追及してこない。
私の着想は、ほぼ確信へと変わっていった。
しかしながら、行き詰ってしまった。
きっと、アレックスからは何も聞き出すことはできないだろう。
そう考えた私は、会話を切り上げることにした。
「ありがとう、アレックス。突然変なことを聞いてしまってすまない。私はそろそろ行くよ」
私はドアの方に向き直りながら、アレックスにそう告げる。
「力になれなくてすみません。ハジメさん」
アレックスも私を追うように、ドアの方に向かいながらそう言った。
彼にもなにか言えない理由があるのだろう――
私は情報を得られなかったことを、残念に思いながらも彼を思いやっていた。
私は一度彼の方を振り返りながらも、こみ上げてくる感情をコントロールし、心を決めてドアノブに手をかけた。
――金属製のドアノブが、いつもよりやけに冷たく感じた。
「あの、一つだけ言える事があります」
突然、アレックスは今までよりも少し声を張って、私を呼び止めるように言った。
私は何も言わずに振り返る。
アレックスの表情が優しい微笑みに変わった。
「寿命は、誰にでもあるものなんです。だから、心配しないでください」
私の目を見て、アレックスは堂々としながらも優しい口調でこう言い放った。
――ん、あれっ?
私は唐突な既視感に襲われた。
思考が頭の中でぐるぐる回り、とても気持ちが悪い。
あれは……あれは……
潜って、潜って、記憶の深くまで潜って、やっと思い出した。
「アリシアだ……」
私は、自分にしか聞こえない位の声量でつぶやいた。
途端に頭の奥で、古ぼけた歯車が急に噛み合うような感覚が走った。
足元から力が抜けていき、目の前の景色は一瞬にして色を失った。
なんということだ。
私は過去に、初めて見た大きな事件と大きな違和感を解決せずにここまできた。
そしてまさかのその違和感の正体が、今回気になったことの答えだったのだ。
ずっと胸の奥で燻っていた違和感。
その正体が今、目の前で形を持ちはじめた。
その事の重さに、私の心はやや放心状態であった。
「ハジメさん……大丈夫ですか?」
魂の抜けたような姿の私を見て、少し心配になったアレックスは声をかけてくる。
「あぁ、大丈夫だ。それより、大事なことを教えてくれてありがとう、アレックス」
彼にとっては、定型文のような言葉だったのかもしれないが、私にとっての特別な記憶を思い出させてくれた彼に感謝をする。
「え、ええ、どういたしまして。お役に立てたなら光栄です」
アレックスはきょとんとしながらも、礼儀正しく返事をする。
私は無性に、今手に入れた情報の答え合わせがしたくてたまらなかった。
あの時アリシアが話したあの言葉の意味は、このことだったのか。
答えてもらえるかわからないが、確認してみたいと思った。
ああ、早くアリシアに会いたい……
そう思いながら、少し速足で部屋を出ていくのであった。
もう先ほどのドアノブの冷たさは感じなくなっていた。
長年連れ添った私の心臓がまた、静かにそして熱い鼓動を打っている。




