消失の意味
「アリシア、アリシア」
急ぎ足で家に帰ってきた私は、アリシアの名を呼んだ。
――心がざわつく。
しかし、返事はない。
「アリシア、いないのか?」
声を出しながら家の中を探してみたが、どうやらいないらしい。
冷静に考えてみれば、それもそうだ。
私は研究室を休んでアレックスに会っていたが、アリシアはいつも通りに研究施設に行っているだろう。
「ふぅ……」
はやる気持ちに振り回されていたが、やっと肩の力が抜けた。
早く帰ってきたものの、特別にすることもないため、私はとりあえず自室に入った。
そしてベッドに横たわり、天井の方を見る。
「さて、どうしたものか……」
私は頭の回転を緩めながら、独り言を言った。
平日の昼下がり、まだまだ高い太陽の光がカーテン越しに窓から差し込む。
外からは、散歩する犬同士がけんかをする鳴き声が聞こえてくる――
いつもと同じ平和な日常。
しかしながら私の心は、いつもと違って少し曇っていた。
私はふとフォトアルバムに手を伸ばした。
アレックスと話した時に思い出した、あの日のことが気になったからかもしれない。
あの日のことは、時間が経っている割にはよく覚えていた。
その時に撮った写真……
今見返してみると、なんでこんな写真を撮ったのか疑問に思う。
アリシアのかわいさと対比して、膨れ上がった私の腹がなんともだらしない。
「これはひどい……」
私は独り言をつぶやきながら苦笑を浮かべた。
当時は、かなり必死だったのだと思う。
よくわからない現象をわからないなりに消化する事が。
歳を重ねるごとに、説明のつかない現象への対処はうまくなった。
自分に害があれば遠ざけ、害がなければ気にしない――
そんな風に割り切って生きてきた。
けれど、今日だけは割り切れなかった。
あの日のことについて、アリシアにどうしても確認がしたかった。
確認しなければ、この後ずっと後悔するような気がした。
そう思いながら、時間をやり過ごすためにアルバムのページを進めていく。
すると、ある写真で手が止まった。
「……」
その写真を前に私は言葉を失っていた。
何故だかは私もわからない。
ただただ、体の内側から感情がこみ上げてくる……
何かがおかしい、そんな感じがするのだ。
でも何がおかしいのかがわからない。
胸の奥が熱くなって、今にも泣きだしそうだ。
私が見ている写真は、結婚式で撮った私とアリシアとアリシアの親が写っているものだった。
結婚式で幸せそうな新郎新婦と親というありがちな構図だが、私にはあるものが足りない気がした。
考えても、考えても思い出せない――
幸せそうな二人……そして彼女の親……
そこにあるはずの何かが見当たらない。
「私の親は……?」
確信はないが、写真の中で足りないものを私は見つけた。
――頭の中に一瞬だけ、親の顔が浮かんだような気がした。
全く憶えてないのだが、私には親がいたような気がする。
それも学生を卒業するまで、一緒にいたような。
心の奥が冷たく重たい。
まるで底無しの沼に浸かっているような気分だった。
「そうだ……」
そう言って私は、自分の出生の頃のアルバムを探し出した。
「これもか」
私が生まれたころのアルバムを開いてみたが、どのページにも親の姿や顔は写っていなかった。
それどころか、私が学校を卒業するまでの間のアルバムが残っているのに、撮影者は一切写真に写っていなかった。
「さすがにおかしくないか?」
私の記憶は戻らないが、この状況を示す証拠からつじつまが合わないことは理解していた。
それに写真を見た時のあの感覚……
暑くもないのに、額に冷や汗をかいている。
心拍数が上がっているのが分かった。
部屋に置いている時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
世界が、私から大切なものを――
静かに消し去ってしまったのかもしれない。
私は仰向けになりながら手を頭の上に乗せ、目をつぶる。
私が今まで信じて歩いてきた道が、いとも簡単に崩れ落ちていくのを感じた。
心に穴が開いたようだった……
玄関の方から扉の開く音が聞こえた。
アリシアが帰ってきたのだろう。
私はベッドから起き上がり、アリシアの方へと向かう。
先ほどまでは、誰よりも会いたかったはずなのに――どうしてか足が重い。
あんなに会いたかったのに、あんなに聞きたかったのに。
今はただ、真実を知ることが怖かった。
これから、何を信じて生きていけばいいのか分からなくなる気がした。
――視界がぐにゃりと歪んで、平衡感覚が崩れる。
「ただいま、ハジメさん。やっぱり帰ってたんですね」
私を見たアリシアが先にいつも通りの様子で話しかけてきた。
「あ、あぁ、おかえり、アリシア」
頭の中と心の中が整理できていない私は、いつも通りに返事をすることが出来なかった。
「ハジメさん、何かあったんですか……?」
私の様子を察して、アリシアは私の心配をしてくれている。
こういうところに私はいつも救われていた。
私が一人で解決できない事があるとき、彼女はいつも一緒に立ち止まって考えてくれた。
これからもこの関係が続くことを願いたい――
私が彼女にこの質問を聞いた後も。
手の平からは汗がにじみ出て、心臓が高鳴る。
この世界に百年以上生きてきて、こんなに怖いと思った瞬間はなかった。
私は彼女の目を見ながら、返事をする。
「わかってしまったんだ。昔、人が倒れた時に言った君の言葉の意味が」
彼女は少し悲しげな顔をする。
その表情だけで彼女の隠していたことは、言葉にせずとも分かってしまいそうだった。




