翔の進む道:父の「突き放す決意」
日が暮れ、夕食を終えた後のリビングには、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
翔がテーブルの上を片付ける手つきは、いつになく丁寧で、その落ち着きの裏には、隠しきれない緊張と、確固たる決意が潜んでいた。
妹の咲が旅立って以来、家は静かになったが、翔自身の中では、プロレース見学を機に、新たな情熱が燃え上がり、静かに渦巻いていた。
彼は、その熱量を、今日、両親に伝えることを決めていたのだ。
陽介は、ソファでゆっくりとコーヒーを飲んでいた。美和は、リビングの片隅で編み物をしている。
二人の間に流れるのは、穏やかで、静かな時間だった。
翔は、その静寂を破るように、二人の間に立ち、深呼吸をした。
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「父さん、母さん。話があるんだ」
翔の声は、意外なほど落ち着いていた。
陽介は、コーヒーカップを静かにテーブルに置いた。美和も編み物の手を止めた。
二人は、翔の真剣な眼差しから、これが単なる進路相談ではないことを察した。
「俺は、大学には行かない。高校を卒業したら、ロードレースのメカニックになる」
翔の言葉に、美和は小さく息を呑んだが、陽介は表情を動かさなかった。
彼は、息子が何かに真剣に打ち込もうとしている時の、独特の熱を理解していた。
「メカニック……、自転車の整備士、ということね?」
美和が、慎重に問いかけた。
翔は力強く頷いた。
「ただの整備士じゃないんだ。プロのロードレースのメカニックだ。
コンマ何秒を削る調整、選手の体調や特性に合わせたカスタム、そしてレース中の極限状況で完璧な修理をこなす専門職だ」
彼は、プロレース会場で感じた衝撃を、熱を込めて語った。
「あの世界は、俺が目指していた『速さ』じゃ、通用しない。肉体の限界を知った。
でも、そこで見たメカニックの人たちは、別の次元で闘っていた。彼らの知識と技術が、選手たちを勝利に導いているんだ。それは、肉体的な才能とは関係ない、技術と知識の哲学なんだ」
そして、彼は、メカニックになるための具体的な計画を打ち明けた。
「だから、大学に行くのは無駄だと思う。座学で遠回りするよりも、実務の現場でしか得られない知識が重要だ。
高校三年生の春から、地元のプロショップにアルバイトとして入る。そして、卒業したら、すぐに一人暮らしを始める。
親の支援に頼らず、自分の力で生活しながら、技術を最優先で学ぶ。独学でJBMの資格も取る。それが、プロの世界に最短で近づく道だ」
翔の言葉は、まるで軍事作戦を説明するかのように、具体的で論理的だった。
そこには、かつてロードレースに熱中していた時の、感情的な衝動や、焦燥感は一切なかった。
あるのは、冷静に現実を分析し、新しい目標へと向かう、知的な熱意だけだった。
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翔の計画を聞き終えた美和は、編み物を膝の上に置き、深く息を吐いた。彼女の表情には、喜びと、拭い去れない戸惑いが混ざっていた。
「翔、あなたが夢中になれるものを見つけたのは、本当に嬉しいわ。でも……大学へ行かないというのは、あまりにも急な決断ではないかしら」
美和の声は、かすかに震えていた。
「そして、一人暮らし。咲は寮という共同体に入るけれど、あなたは完全に一人で、何の保証もない世界に飛び込むということでしょう?
メカニックの仕事がどれほど厳しいか、どれほど生活が不安定か、調べているの?」
美和の懸念は、極めて現実的で、母としての本能的なものだった。彼女は、娘の咲の旅立ちの際、「いつでも帰ってこられる安心感」という温かい共同体という名の土台を与えた。
だが、翔の選んだ道は、その土台を自ら捨て、「孤独な自立」を選ぼうとしているように見えたのだ。
「もし、その夢が叶わなかったら? もし、体調を崩したら?」
美和は、翔の能力を疑っているわけではない。
しかし、彼女がこの庭で大切にしてきた「温かい共同生活」の哲学から、息子が遠ざかることに、強い不安を覚えたのだ。
「母さん、もちろん調べているよ。生活は不安定になるかもしれない。でも、不安があるからこそ、本気になれるんだ。中途半端に大学に行って、逃げ道を用意したくない」
翔は、美和の目を見て、誠実に答えた。
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美和が不安を訴える間、陽介はずっと黙って、息子を見ていた。
彼の脳裏には、数ヶ月前、翔が目標を見失いかけていた頃の夜が蘇っていた。
あの時、陽介と翔は、焚き火台に小さな火を灯し、二人きりで語り合った。
あの夜、翔は「効率的」な大学進学と、「非効率性」なプロのロードレーサーの選択肢に悩んでいた。
そして、陽介はどちらの道を選んでも、「情熱を持って、徹底的に向き合う」という、自分のコアな資質を失わないことを伝えた。
翔は、当時、その言葉を「トレーニングを続けろ」という意味にしか捉えていなかったかもしれない。
彼は「速さ」という効率を追求するあまり、陽介の「余白の哲学」から逸脱していたのだ。
しかし、今日の翔は違う。
彼は、肉体の「速さ」という限界を認め、代わりに「技術」という、手間と深さを追求する非効率な道を選んだ。
それは、選手個人を支えるという、極めて地道で、献身的な仕事だ。
(この子は、俺の哲学を、俺とは違う、「技術の哲学」という形で理解したんだ)
陽介は、翔の決断が、咲の旅立ちと同じく、この庭で培われた価値観の延長線上にあることを確信した。
彼は、息子が真剣であること、そして、自分の人生の責任を自分で負おうとしていることを理解した。
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陽介は、美和の不安を鎮めるように、ゆっくりと手を挙げた。
「美和。翔の言う通りだ。彼の目は、真剣だ。夢中になれるものを見つけた人間を、邪魔する権利は、親にはない」
陽介は、そう言って、翔の決意を全面的に受け入れた。美和は、驚いて陽介を見つめる。
しかし、陽介は、咲の時とは、全く逆の言葉を選んだ。
彼は、ソファから立ち上がり、息子の前に進み出た。
その眼差しは、父としての温かさだけでなく、男親としての、一種の厳しい覚悟に満ちていた。
「わかった。お前の道を進め。大学へ行かず、実務で技術を磨くという選択も、俺は尊重する」
陽介は、間を置いた。リビングの静寂が、重く二人を包み込む。
「ただし、条件がある」
翔は、父の言葉に緊張して唾を飲み込んだ。
「高校を卒業して、一人暮らしを始めたら、五年間は、この家に帰ってくるな」
その言葉は、まるで冷たい水を浴びせられたように、翔の耳に響いた。美和も驚きで、思わず立ち上がった。
「陽介さん! 何を言っているの!」
陽介は、美和を制し、視線を翔から外さなかった。
「咲には、『いつでも帰ってこい』と言った。なぜなら、あの子の挑戦は、孤独と、新しい共同体との調和という、精神的な旅だったからだ。温かい安心感が、あの子には必要だった」
陽介は、声を低くした。
「だが、お前の道は違う。お前が選んだのは、自力でゼロから技術と生活を築くという、経済的、物理的な自立の旅だ」
「メカニックの世界は厳しい。中途半端な気持ちでは通用しない。少しの困難で逃げ帰り、親の温かい布団に潜り込むような退路を残せば、お前は甘えに負ける」
陽介の言葉には、息子を信じているからこその、突き放す決意が込められていた。
彼は、「親の愛情は、時には退路を断つ厳しさであるべきだ」という、男親としての、特別な哲学を翔に示していた。
「孤独と闘い、自分の力で、住む場所、技術、そして自分のための共同体を築け。
五年後、プロのメカニックとして、胸を張って帰ってこい。それまでは、帰ってくるな。それが、お前を送り出す父としての、俺の願いだ」
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翔は、父の予想外の厳しさに、一瞬たじろいだ。
しかし、その言葉の奥に隠された、父の揺るぎない信頼と、深い愛情を、彼は明確に感じ取った。それは、彼が初めて、父を「一人の男」として、そして「師」として意識した瞬間だった。
(父さんは、俺が逃げないことを知っている。だから、この試練を与えてくれたんだ)
翔は、深く息を吸い込んだ。胸の奥に、熱いものがこみ上げてくる。
彼は、父の厳しい条件を真摯に受け止めた。
「わかった、父さん。俺は、五年間、この家には帰らない」
翔は、力強く、そして決意に満ちた声で誓った。
「必ず、自分の力で、技術を極め、プロのメカニックになる。この約束を破って、情けない姿で帰ってくることは絶対にない」
陽介は、静かに頷き、翔の自立への第一歩を許可した。
美和は、夫と息子の、この魂のやり取りに、言葉を失っていた。
彼女は、娘には「温かい家」を、息子には「厳しい試練」を与えた陽介の、複雑で深い愛情を理解し、そっと涙を拭った。
翔の新しい挑戦の幕は、今、親の愛という名の厳しい試練と共に、力強く開かれた。彼は、咲とは違う、「技術という名の孤独な旅路」へと踏み出すことになったのだ。




