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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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メカニックへの想い:技術という名の道

 プロのロードレース見学から帰宅して以来、佐藤翔の生活は一変した。


 彼はもう、トレーニングウェアに着替えて、汗だくで峠を攻めることはなかった。代わりに、彼はパソコンの前に座り、静かで、しかし以前の情熱に勝るほどの知的熱意に満たされていた。

 彼の視線は、ロードレースのタイムではなく、技術規格、整備マニュアル、そしてメカニックという職業に関する情報へと向けられていた。


 自室の机の上は、ツール缶やグローブではなく、印刷された資料と、ウェブブラウザのキャプチャで埋め尽くされていた。

 彼は、レース中に目の当たりにした、メカニックたちの冷静かつ神業的な作業が、頭から離れなかった。


(俺が追い求めていたのは、ただの「速さ」だった。でも、あの人たちが作っていたのは、「絶対的な信頼」と「極限の効率」だ)


 かつて、翔の心にあったのは、ヒルクライムの記録を更新できないことへの焦燥感と、プロとの圧倒的な差に打ちのめされた無力感だった。

 それは、常に自己の限界に直面し、肉体の弱さを突きつけられる、苦しい感情だった。


 しかし今、彼は、技術という新しいテーマに触れることで、その焦燥感から解放されるような、冷静な喜びを感じていた。

 技術は、彼の肉体の限界とは関係ない。それは、知識、経験、そして集中力という、別の次元の「強さ」を要求するものだった。


 彼は、まるで砂漠の中で水源を見つけたかのように、貪欲に情報を吸収していった。

 その熱意は、かつての美和が新しいハーブの知識を学ぶ時の姿勢や、陽介がDIYの設計図に向かう時の集中力に酷似していた。



---



 翔がまず調べたのは、プロのロードレースの世界で認められるメカニックになるための、現実的なルートだった。


「ただ自転車を直せるだけじゃダメなんだ。これは、コンマ何秒を争う世界なんだから」


 彼は、ロードレースメカニックが、単なる「自転車店員」とは一線を画す、高度な専門職であることを知った。


 まず、資格の壁だ。

 JBM(日本自転車競技連盟)認定のメカニック資格、そして国際的なUCI(国際自転車競技連合)のライセンスの存在を知った。

 これらの資格は、単なる知識だけでなく、プロフェッショナルとしての信頼性と技術水準を証明するものだ。


 次に、教育と経験の必要性。

 多くのプロメカニックの経歴には、専門学校や職業訓練校で体系的な知識を学んだ後、必ず「プロショップでの実務経験」が積み重ねられていることがわかった。


「資格よりも、現場での経験か……」


 翔は、座学で遠回りするよりも、自分が心から夢中になれる「実践」から、この世界に入っていく方が、遥かに自分らしい道だと感じた。


 彼は、自宅近くで、実際にプロチームの機材整備も請け負っているような、実績のある自転車ショップの情報を探し始めた。

 彼は、そこを「技術の道場」として見定めていた。



---



 調査を進めるうちに、翔はロードレースメカニックという仕事の特殊性と、その裏にある深い哲学に魅了されていった。


 彼らは、単なる修理工ではない。


 「コンマ何秒を削るための調整」とは、変速機のケーブルテンションを、選手の疲労度や好みに合わせてミリ単位で調整すること。

 それは、選手の肉体とバイクという機械を、一つの完璧なユニットとして機能させるための、職人技だった。


 「選手の体調や特性に合わせたカスタム」とは、選手が数時間、いや数日間も乗り続ける機材に対し、サドルの位置やハンドル角度を、選手の心理状態や身体の癖に合わせて最適化していくこと。

 それは、選手のパフォーマンスを最大限に引き出すための、戦略的な設計だった。


 そして、最も心を動かされたのは、「レース中の極限状況での判断力」だった。パンク、ディレイラーの破損、落車。その全てにおいて、彼らは冷静でなければならない。

 観客の熱狂、選手の焦燥、そして時間のプレッシャーの中で、彼らは完璧な処置を施し、選手を再びレースに戻す。


(あの冷静さ、あの集中力。それは、父さんの『余白の哲学』そのものじゃないか)


 翔は、ハッとした。

 父の哲学は、「効率を求めるあまり、本当に大切な時間や手間を切り捨てるな」ということだった。


 メカニックの仕事は、一見、泥臭く、地味で、華やかな選手たちの影に隠れた「非効率な手間」の連続だ。

 しかし、その非効率なまでの精密な手間と知識の積み重ねが、レースの最終局面で、選手がコンマ何秒を短縮できるという「最高の効率」に繋がるのだ。


 「走る」という夢に挫折した翔にとって、この「技術の哲学」は、自分の人生の焦燥感を打ち消し、心を込めて打ち込める対象を見つけさせてくれた。


 それは、彼がこの庭で、家族から間接的に学んできた価値観と、完全に合致していた。



---



 翔は、ロードレースメカニックになるという目標を、もはや揺るぎないものとして受け入れていた。

 次は、具体的な進路の決定だ。


(大学受験のために勉強する時間はない。いや、したくない)


 彼は、高校卒業後、すぐに大学や専門学校へ進学するのではなく、「技術と実務経験」を最優先するルートを選んだ。


 彼の計画は明確だった。


 まず初めに、地元で最も実績のあるプロショップを見つけ、高校卒業後すぐにアルバイトまたは見習いとして飛び込む。

 何よりもまず、プロの現場で使われる工具の扱いや、機材の調整、そして顧客(選手)とのコミュニケーションという実践的な技術を身につける。


 そして、実務と並行して、JBMメカニック資格の取得に向けた勉強を独学で進める。知識は、実践によって裏打ちされるべきだと考えた。


 さらに、ショップでの経験を通じて、国内のロードレースチームや、機材メーカーとの繋がりを築く。


 このルートは、咲が選んだ「困難だが、夢に最短で到達できる道」と酷似していた。それは、他人の評価ではなく、自分の熱意と行動力だけを信じる道だ。


 翔は、自分のロードバイクを前に、そのパーツ一つ一つを、まるで精密な設計図を読み解くように、注意深く見つめた。

 以前の彼には、このバイクはただの道具だったが、今は、彼がこれから学ぶべき知識の宝庫に見えた。



---



 夜が更け、家の中は深い静寂に包まれていた。


 翔は、自分の部屋で、手書きで作成した進路計画のロードマップを広げた。

 その線引きは、もう以前のような曖昧なものではなく、明確な目標と、それを達成するための具体的な手順で満たされていた。


 彼は、これまで心の片隅にあった「速さの限界」という重石から解放され、深い満足感を感じていた。

 彼はもう、「速い自分」を追い求める必要はない。これからは、「速さを生み出す技術」を極めるのだ。


 翔は、工具箱を開け、普段使っているトルクレンチを手に取った。冷たい金属の感触が、彼の決意を裏付けるように手に馴染む。


(咲は、温もりを胸に旅立った。俺は、技術の哲学を胸に、俺自身の人生を再構築する)


 彼は、この新たな夢が、親にどう受け止められるか、わずかな不安を感じた。しかし、この決意は、誰にも揺るがせないものだと確信していた。


 翔は、翌日、この揺るぎない決意を、父と母に打ち明ける準備を整えた。彼の、新しい挑戦の幕開けが、今、静かに始まろうとしていた。

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