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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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翔のプロレース見学:速度の先に見えた道

 妹の咲が、遥か遠くの寮へと旅立った後、佐藤家のリビングと庭には、突然、冷たくて深い静寂が訪れた。


 週末の賑やかな笑い声や、咲が発する生活音が完全に消え去った家は、まるで空気の一部が抜き取られたかのように、空虚な空間と化していた。

 母の美和と父の陽介は、二人きりの「余白」を意識的に持て余すように静かに過ごしていたが、翔は、この静寂に耐え難い焦燥を感じていた。


 特に、ピザ窯の周りには、昨夜の「感謝祭」の残り香と、咲の温かい痕跡がわずかに残っていた。

 その光景が、翔の心を掻き乱す。


(あいつは、自分から困難な道を選んで、迷いなく出て行った)


 咲の決断の裏には、この庭で培われた、陽介の「余白の哲学」と美和の「生活の知恵」という揺るぎない土台があった。

 しかし、翔自身には、まだ確固たる目標が見つかっていなかった。


 彼は、愛用のロードバイクに跨がり、いつものようにトレーニングに打ち込んだ。ヒルクライムの記録更新を目標に、体を極限まで追い詰めた。

 しかし、妹の強い旅立ちを見送った今、彼の心は満たされない。


 彼は、かつてヒルクライムで味わった「限界」を鮮明に覚えていた。

 どれだけ肉体を鍛え、精神力を絞り出しても、届かない絶対的な「速さ」の壁。それは、彼の「夢」の終わりを常に意識させていた。


(このまま、趣味の領域で満足していいのか? 俺の「夢」の究極の形は、どこにあるんだ?)


 この焦燥感が、翔を突き動かした。

 彼は、自分の夢の「先」を、自分の目で、五感で確かめなければ、前に進めないと感じた。



---



 翔は、週末に近隣で開催される、プロのロードレースを見に行くことを決意した。


 それは、単なる観戦ではない。

 彼が憧れ、追い求めてきた「速さ」の世界の、頂点の空気を吸いに行く、自己の限界を計測するための儀式だった。


 週末の早朝、翔はロードバイクに乗り、一人、レース会場へと向かった。


 会場近くに到着すると、すぐに空気の違いを感じた。会場全体を覆うのは、観客の熱狂、プロチームのトラックの重低音、そして、オイルやチェーンのグリースが混ざり合った、濃密なアスリートの緊張感だ。


 翔は、観客席を避け、選手たちがウォーミングアップをするエリアの近くに立った。目に入るのは、洗練された機材、無駄のない鍛え上げられた肉体、そして、プロとしての厳しい表情だ。


(すごい……)


 翔の愛車も、決して安物ではない。

 しかし、プロのバイクが放つ、「勝利のためだけに存在する」というストイックな美しさは、彼のバイクとは別次元のものだった。

 まるで、芸術品と実用品ほどの隔たりがあるように感じられた。



---



 レースが始まった。

 翔は、コース脇の最前列に立ち、プロの「速さ」を体感するために、全身の感覚を研ぎ澄ませた。


 しばらくして、地鳴りのような轟音と共に、プロの集団が視界に入ってきた。


 それは、単に速いという言葉では表現できない、圧倒的な物理現象だった。

 数百キロの鉄と肉体が、時速60キロを超える速度で塊となって迫ってくる。その瞬間、翔の頬を、風ではなく、圧力の塊が叩きつけた。

 あまりの速さに、景色が歪んで見えるほどだ。


 選手たちの顔には、極限の集中力と苦痛が入り混じっていたが、その眼差しは、ゴールだけを見据えており、一瞬たりとも揺るがない。


 集団が通り過ぎた後、世界は一瞬静寂に戻り、その後、強い風が通り過ぎた。翔は、その場に立ち尽くし、全身の力が抜けていくのを感じた。


「これが……プロの速さ」


 彼は、ヒルクライムで感じた限界とは比べ物にならない、絶対的な違いを痛感した。

 自分が日頃、血を吐く思いで追い求めていた「速さ」は、このプロの世界では、スタートラインにすら立てない、ただの遊戯に過ぎないのだと。


(俺の夢は、ここで終わっていたのか)


 心の中に、強い焦燥感と、目標を失う絶望感が、鉛のように沈んでいく。

 咲が、困難な道を選び、一歩踏み出した姿が、かえって彼自身の「力不足」を、容赦なく突きつけてきた。


 翔は、観客の熱狂からも、プロの選手たちの輝きからも逃れるように、レースの喧騒から離れた場所へと移動した。



---



 翔が辿り着いたのは、レースの華やかさとは対極にある、ピットエリアの一角だった。

 そこは、各チームの技術者、すなわちメカニックたちが待機する、静かな戦場だった。


 彼らは、レースの行方を無言で見守りながら、緊急事態に備えて、工具や交換用のホイールを完璧に整理整頓していた。


 その時、無線が入り、トラブルが発生したことが伝えられた。


 次の瞬間、メカニックたちの動きが、一変した。

 彼らは、レースのスピードに匹敵する、驚異的な速さと正確さで、必要な工具と部品を手に取った。


 しばらくして、機材トラブルに見舞われた選手が、血相を変えてピットへと飛び込んできた。

 メカニックたちは、その焦燥とは対照的に、驚くほど冷静だった。


 一人のメカニックが、選手のバイクのチェーンとディレイラー(変速機)の調整を一瞬で行った。

 その手つきは、速いだけでなく、寸分の狂いもない精密さを伴っていた。まるで、外科手術のようだ。


「よし、行け!」


 メカニックの合図と共に、選手は再びレースへと飛び出していった。その作業は、ものの数秒で完了していた。


 翔は、その光景に、心を奪われた。


 選手が、肉体の限界で闘う「動」の闘いだとすれば、メカニックは、知識と経験、そして絶対的な精度でレースを支える「静」の闘いをしていた。

 彼らが持つ専門的な技術力と、プレッシャーの中で冷静に作業を遂行する集中力は、選手個人の「速さ」とは異なる、「チームの速さ」を創造していた。



---



 翔は、メカニックたちの手元から目を離せなかった。


 彼がこれまでロードバイクに夢中だったのは、「速く走ること」と「自分でバイクを整備すること」の両方だった。

 しかし、「速く走る」ことには、肉体的な限界があることを、今日、プロの世界に叩きつけられた。


 だが、「整備すること」は、どうだろうか。


 彼が憧れたのは、選手たちの「速さ」だったが、今、彼が魅了されているのは、メカニックたちの「技術」と「知識」だ。


(俺の限界は、体力じゃない。もし、俺が、この人たちのように精密な知識と技術を身につけたら……)


 翔は、突然、新たな可能性の光を見た。


「走れなくても、速さを生み出すことができる」


 それは、「速さ」を追求する夢とは違うが、彼が愛するロードレースという「共同体」を、最も専門的な視点から支える、重要な道だった。


 咲が、誰も行かない困難な道を選んだように、自分もまた、肉体ではなく「技術」という、別の角度から、ロードレースという世界に深く関わることができるのではないか。



---



 レースが終わりに近づく頃、翔は、静かに会場を後にした。


 駐輪場に置いている自分のロードバイクに目をやった。以前なら、彼の視線は、トレーニングの記録や、次のヒルクライムのコースに向けられていただろう。


 しかし、今は違った。


 彼の視線は、フレームの接合部、ディレイラーの複雑な仕組み、チェーンの微細な動きといった、技術的な構造に注がれていた。

 彼の愛車は、単なる「速さを生む道具」から、「知恵と技術の集合体」へと、その意味を変えていた。


 翔の中に、漠然とした「メカニック」あるいは「技術者」への関心が芽生えた。

 それは、妹の旅立ちが、皮肉にも彼自身に与えた、新しい自己探求の始まりだった。


 咲は、困難な道を選び、旅立った。

 翔もまた、自身の限界を知ったことで、「速さ」という単純な夢を捨て、より専門的で、深い「技術」という挑戦の道へと、静かに足を踏み入れようとしていた。


 庭の哲学が、咲の新しい共同体への一歩を支えたように、ロードレースの「静」の技術は、翔の新しい人生の目標を照らし始めていた。

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