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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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咲の出立:新しい旅路への一歩

 旅立ちの朝、佐藤家はいつもとは違う、静かで張り詰めた空気に包まれていた。


 リビングには、普段の週末のようなのんびりした雰囲気はなく、家族四人、それぞれの役割を果たしながら、この大きな節目を迎えようとしていた。


 美和は、朝食に咲の好きな厚焼き卵と、庭のハーブを使った香り高いスープを丁寧に用意した。

 美和の手料理は、いつもと同じ「温かい時間」を演出していたが、その動きはわずかに慎重で、娘の門出を祝う母の深い愛情と、寂しさが滲んでいた。


「さ、咲。しっかり食べなさい。今日は長旅になるんだから」


 美和は、涙を見せないと決めていた。泣いてしまえば、咲の決意を揺らがせてしまうかもしれない。笑顔こそが、最高の祝福だと信じていた。


 陽介は、すでに車のトランクに、咲の大きな荷物を積み終えていた。

 彼がDIYしたピザ窯の残り火が静かに消えた後、昨夜、咲が庭で一人誓いを立てたことを、陽介は直感的に察していた。

 娘の顔には、もう不安や迷いはない。あるのは、温かい決意と、未来への希望だけだ。


 翔は、ソファに座り、いつも通りスマートフォンを操作していたが、その視線は頻繁に妹へと向けられていた。

 口には出さないが、兄として、妹が旅立つことへの複雑な感情—寂しさ、誇り、そしてわずかな心配—を抱えているのが見て取れた。


 咲は、皆の想いを全身で受け止めながら、朝食をゆっくりと咀嚼した。

 この家族と過ごす、日常の、そして最後の朝食の味を、五感全てに刻み込もうとしていた。



---



 出発の時間が迫り、咲は荷物を持って玄関に向かおうとしたが、ふと立ち止まった。


(まだ、行ってない場所がある)


 彼女は、家族に一言断り、外へと出た。向かったのは、もちろん庭だ。


 朝の冷たい空気が肌を包む。昨夜の賑わいの跡形もなく、静まり返っていた。


 咲は、庭の真ん中に立ち、深く息を吸い込んだ。朝露を帯びた土と草木の、清々しい香りが、彼女の肺を満たす。


 特に、美和と陽介が手入れを続けたローズマリーの茂みから漂う、強くて毅然とした香りが、咲の心を強くした。ローズマリーは、「記憶」と「強さ」の象徴だ。


(この香りだ。この温もりと強さ。私がこの家で培った、非効率だけど、最も価値のあるもの)


 咲は、手を伸ばし、ローズマリーの葉をそっと撫でた。その葉の感触、その香りを、心の錨として、新しい生活へ持って行く。


 新しい寮生活は、厳しい規則と、高い目標に満ちているだろう。

 焦りや孤独を感じた時、彼女はこの香りを思い出し「焦らず待つ時間、手間をかける時間の価値」を教えてくれた庭の哲学に立ち返るのだ。


「行ってきます」


 咲は、誰にも聞こえない声で、庭に最後の挨拶を告げ、力強く踵を返した。



---



 車は、最寄りの新幹線駅へと向かう。

 道中、車内の会話は途切れがちだったが、その沈黙は、居心地の悪いものではなかった。互いの気持ちを深く理解し合っている家族の、温かい沈黙だった。


 新幹線駅は、すでに活気に満ちていた。人々の慌ただしい流れが、咲の旅立ちという個人的な出来事とは関係なく、高速で動いている。


 トランクから荷物を出し、改札へと向かう。この、家族全員での移動の時間が、彼女にとっての最後の「余白」だった。

 美和は、改札の前で立ち止まり、咲の目をまっすぐに見つめた。彼女の目は少し赤くなっていたが、最後まで笑顔を崩さなかった。


「咲。いいかい、泣くのは一人の時だけにしなさい。そして、絶対に無理はしないこと。この庭は、あなたの『帰る場所』よ。温かい火を灯して、いつでも待っているわ」


 美和は、そう言うと、咲のバッグのポケットに、そっと何かを忍ばせた。

 小さな、ハーブの香りがする手作りのサシェだった。母からの、最後の温かい贈り物だ。


 陽介は、言葉を多くは選ばなかった。彼は、ただ力強く咲の肩を叩いた。


「焦るな。目標を急ぐあまり、周りの景色を見失うな。余白の時間を大切にしろ。それが、お前を強くする」


 父の言葉は、短いが、彼の「仕事の集大成」で証明された哲学そのものだった。咲は、その重みに、静かに頷いた。


 そして、翔との別れ。

 翔は、やはり改札に寄りかかったまま、視線を少しずらしていた。


「……向こう、寮の周りに、ロードバイクで走れる場所、ちゃんと見つけておけよ。自転車に乗れるなら、まあ、大丈夫だろ」


 翔は、「寂しい」とも「頑張れ」とも言わなかった。彼の選んだ言葉は、「自由」と「健康」を願う、彼らしい不器用な愛情表現だった。

 咲は、その優しさに、心の中で深く感謝した。


「大丈夫、絶対見つけるよ」



---



 新幹線に乗り込んだ咲は、窓際の席に座った。重厚な扉が閉まり、列車は静かに動き出す。


 咲は、家族が見えなくなるまで、窓の外に向かって手を振り続けた。家族三人の姿が、駅舎の柱の陰に消えた時、彼女は深く息を吐き出した。


 列車は、加速していく。


 車窓の外の景色は、最初は見慣れた故郷の風景、佐藤家の近くの川や公園だったが、速度が増すにつれて、それは高速で流れる抽象的な色彩へと変わっていった。

 景色が猛烈なスピードで過去へと押し流されていく様子は、彼女の人生が、故郷の時間軸から、新しい、速い時間軸へと突入したことを象徴していた。


(ここから、誰も知らない場所へ向かう)


 咲は、バッグのポケットにある、美和のサシェをそっと握りしめた。そこから漂うハーブの香りは、故郷の温かさと、母の愛情を運んでくれる。


 寮生活は、熾烈な競争と、時間厳守の規則に満ちているだろう。しかし、咲は怯えてはいなかった。


(焦らない。効率ばかりを求めない)


 彼女は、父の哲学を信じている。

 この高速で流れる日々の合間にも、自分だけの「余白」を必ず見つけ出す。


 兄からもらったラベンダーの鉢を愛でる時間、誰にも邪魔されない夜に静かに読書をする時間。その「非効率な時間」こそが、彼女の認知資源を回復させ、新しい生活での挑戦を、持続可能なものにしてくれる。


 咲の胸の中には、寂しさよりも、未来への強い胸の高鳴りが満ちていた。未知なる挑戦が、彼女を待っている。



---



 数時間の旅路を経て、新幹線は目的地に到着した。


 そこは、故郷とは比べ物にならないほど、張り詰めた緊張感のある街だった。

 寮へと向かうタクシーの車窓からは、歴史を感じさせる重厚な校舎や、規律正しく並ぶ建物が見えた。


 咲が寮の前に立った時、彼女の目の前に広がったのは、まさに「新しい共同体」の姿だった。

 重厚なレンガ造りの建物は、その外見だけで、ここで生活する厳しさと、高い目標を要求していることを物語っていた。


 彼女は、トランクから重い荷物を下ろし、玄関の前に立った。

 周りの空気は、彼女の故郷の庭で感じた温かい静寂とは違い、規則と競争に支配された、張り詰めた静けさだった。


 咲は、深呼吸をした。冷たい空気が、彼女の肺の奥まで染み渡る。


(孤独かもしれない。厳しいかもしれない。でも、私はこの道を選んだ)


 彼女は、自分が持ってきた全て—家族の愛情、友人の友情、そして庭の哲学—を、胸に抱きしめた。

 それは、彼女の挑戦の全てを支える、最も強力な武器だった。


 咲は、顔を上げ、寮の重い扉を見つめた。その表情は、不安から解き放たれ、自信と決意に満ちていた。


 そして、力強く、静かに、「私の挑戦は、今日から始まる」と心の中で決意を示した。


 咲は、新しい旅路への最初の一歩を踏み出し、寮の玄関をくぐった。

 故郷の庭で受け取った温もりを、新しい共同体へと持ち込むために。

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