感謝祭の準備:旅立ち前の温かい集い
寮への旅立ちまで、残された時間はあと一日だった。
佐藤家の長女、咲は、自室の窓辺に立ち、夕焼けに染まる庭を眺めていた。
その手には、母の美和が持たせてくれた「生活の知恵」を記した手書きのメモと、兄の翔が不器用ながらも贈ってくれた、ラベンダーの栽培キットがあった。
美和の言葉は、「孤独になった時、自分のための余白を作りなさい」という、人生における最も本質的な教訓だった。
そして、翔のぶっきらぼうなメッセージには、言葉以上に強い「心配と愛情」が込められていた。
咲の心は、家族が彼女の旅立ちを、どれほど真剣に、そして温かく見守ってくれているのかを痛感し、深い感謝の念に満たされていた。
(私は、この庭と、この家で、たくさんの「非効率な温もり」を分けてもらったんだ)
父の陽介が、仕事の効率を捨ててまで打ち込んだ庭づくり。
母が、便利な家電に頼らず、手作業で愛情を込めた料理。
兄が、不器用ながらも心を込めて選んでくれた贈り物。
それら全てが、彼女が選んだ「困難な挑戦」を支える、揺るぎない土台となっていた。
咲は、この温もりを、旅立つ前に、目に見える形で、家族と、そしていつも支えてくれた親友たちに返したいと強く思った。
「この家と庭で育まれた温かさを、みんなで分かち合える、最後の時間にしたい」
彼女は、そう決意した。
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咲が思いついたのは、ピザ窯パーティーの開催だった。
陽介が、手間暇かけてDIYしたピザ窯は、佐藤家の「余白の哲学」の象徴だった。
それは、単なる調理器具ではなく、火を囲み、時間をかけ、共同で何かを作り上げるための「共同体の拠点」だ。
美和が手入れしたハーブ棚も、その温かい雰囲気を作り出す最高の舞台となる。
咲はすぐに、最も親しい友人であるマキとユイに連絡を取った。
マキは、いつも前向きで活発なムードメーカー。ユイは、冷静で現実的な思考の持ち主。
二人は、咲の高校進学の決断を、誰よりも理解し、応援してくれていた。
咲は、電話口で熱意を込めて計画を伝えた。
「マキ、ユイ、急でごめん。
私、寮に入る前に、うちの庭でピザ窯パーティーを開きたいの。ただのパーティーじゃなくて、家族とみんなに、感謝の気持ちを伝えるための『感謝祭』にしたいんだ」
マキはすぐに快諾した。
「いいよ! あの佐藤家特製のピザ窯でしょ? 超楽しみ! 何すればいい?」
ユイは冷静だったが、その声のトーンには温かさがあった。
「わかった。準備を手伝うよ。人数は? 食材のリストは作ってある?」
咲は、友人たちが、自分の気持ちを瞬時に理解し、迷いなく協力してくれることに、胸が熱くなった。
彼女たちがいるからこそ、自分は安心して遠い地へ旅立つことができるのだと、改めて実感した。
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三人は、咲の自室に集まり、ピザ窯パーティーの準備に取り掛かった。
まずは、パーティーの核となるピザのメニューを決めることだ。
咲は、単に美味しいピザを作るだけでなく、それぞれのピザに「家族の愛」や「庭の哲学」を反映させたいと考えた。
「普通のマルゲリータだけじゃ面白くない。それぞれのピザに、この庭の温かさを込めるの」
咲は力説した。
ユイが冷静に尋ねる。
「庭の温かさ、ね。それは具体的にどうするの?」
「お母さん特製ハーブピザは絶対に作る」
咲は、美和の教えを思い出すように言った。
「お母さんが庭で育てているローズマリーとバジルをたっぷり使うの。お母さんの愛情と、時間をかけたことによる香りの深さを表現したい」
マキが目を輝かせた。
「いいね! じゃあ、私たちが手伝えるピザも作ろうよ! 共同創造ピザ!」
「賛成!」
咲は頷いた。
「それは、『友達との思い出ピザ』にしよう。みんなが持ち寄った好きな具材を、一つずつ乗せていくの。
見た目はバラバラになるかもしれないけど、それこそが共同生活で大事な『多様性の調和』になるでしょ?」
そして、最も重要なピザのアイデアを咲は提案した。
「もう一つは、『お父さんの哲学ピザ』。お父さんは、いつも効率とは逆の、手間のかかるものに価値を見出す人だから」
三人は顔を見合わせた。手間のかかるピザとは、何だろう?
「自家製ドライトマトを使うの。お母さんが夏に、天日干しで何日もかけて作ってくれたもの。それから、ハーブを効かせた自家製ソーセージも少し。
非効率だからこそ、味が濃くなるっていう、お父さんの哲学を表現するの」
友人たちは、咲が、単なるパーティーではなく、この庭で育まれた家族の価値観を、ピザという形に昇華させようとしていることに、深い感銘を受けた。
咲の心の中には、もう高校生というよりも、人生の哲学を確立した一人の人間としての強さが宿っていた。
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メニューが決まると、いよいよ準備に取り掛かる。
咲、マキ、ユイの三人は、買い出しから始め、ピザ生地の仕込み、そして何より薪の準備という、最も「非効率で手間のかかる作業」に共同で取り組み始めた。
「うわ、薪ってこんなに重いんだね!」
マキが、陽介が積み重ねていた薪の山を見て、声を上げた。
「ピザ窯は火を起こすまでが勝負だからね。ガスオーブンみたいにスイッチ一つで温まらないのがいいところ」
咲は、陽介から教わった「火の制御の哲学」を、友人に伝えるように話した。
三人は、陽介が使っていた薪割り台のそばで、乾燥した薪を、ピザ窯に合うようにサイズ別に選別していった。
手が汚れ、煤がつく。それは、都会の洗練されたカフェで提供されるピザとは対極にある、「手作りの温かさ」の準備だった。
ユイは、ピザ生地の仕込みを担当した。美和から教わった、天然酵母を使った生地は、発酵に時間がかかる。
「この生地、本当に時間がかかるね。でも、触っていると、なんだか生きているみたい」
ユイが、生地を捏ねながら言った。
「そうだよ。待つ時間も、生地にとっては大事なプロセス。
それが、ピザ窯で焼かれた時に、最高の『余白』になって、私たちに戻ってくるんだよ」
咲は、美和がよく話していた、「時間をかけることの価値」を、友人に伝えていた。
この一連の「非効率な作業」を通じて、咲は、改めて共同体の温かさを実感した。
一人では困難な作業も、友人がいれば、笑いと協力の対象となる。寮生活で初めて出会う共同生活の難しさを知っているからこそ、この準備の時間は、彼女にとって、精神的なリハーサルのようでもあった。
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日が傾き始めると、三人は庭の装飾に取り掛かった。
咲が目指したのは、華美な飾りではなく、「自然の温もり」と「手作りの温かさ」を最大限に引き出すことだった。
美和が大事に保管していたシンプルな白いキャンドルを、隅に並べる。
庭の片隅に咲いていた、小さな野花やハーブを摘み、素朴な瓶にアレンジメントした。
陽介が以前DIYした木製ベンチを、ピザ窯が見えるように並べ直し、ゲストが火を囲めるようなレイアウトにした。
全てが、「自然体で、無理のない温かい雰囲気」を目指したものだった。
最後に、咲は陽介に声をかけた。
「お父さん。ピザ窯の火の調整と、庭の最終レイアウト、チェックしてもらえない?」
陽介は、仕事の会議で達成した「キャリアの集大成」の満足感とはまた違う、個人的で深い喜びを感じていた。
自分が手間をかけて作った「余白の拠点」が、今、娘の旅立ち前の最も大切な「感謝の場」に使われようとしているのだ。
陽介は、ピザ窯を覗き込み、燃焼の具合を確認した。
「うん、薪の乾燥は完璧だ。あとは、当日の火の調節は、焦らず、ゆっくりとだ。焦って火力を上げようとすると、全てを台無しにする。人生と同じだよ」
そして、庭のレイアウトを眺め、優しく微笑んだ。
「完璧だ、咲。とても温かい。この場所は、君の感謝の気持ちを、十分に伝えることができるだろう」
父の言葉は、咲の背中を、力強く押してくれた。
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すべての準備が整った。
夕闇が迫る庭は、キャンドルの光とハーブの香りに包まれ、温かい空気に満ちていた。
ピザ窯は、夜への準備のために、静かに鎮座している。
咲は、友人のマキとユイに心からの感謝を伝えた。
「二人のおかげで、最高の『感謝祭』になりそうだよ。本当にありがとう」
「水くさいこと言うなよ! 楽しむのはこれからだろ!」
マキが笑い、ユイも静かに頷いた。
咲は、庭を改めて見渡した。
目の前には、父の哲学、母の愛情、兄の不器用な優しさ、そして友人との絆が凝縮された、温かい「舞台」が広がっている。
(私は、この場所で、大切な人たちに、心からの感謝を伝えて、旅立つのだ)
咲の心の中には、寮生活という孤独な挑戦への決意と、この家族と庭で育まれた「温もり」を、決して忘れないという固い誓いが満ちていた。
感謝祭の夜は、もうすぐ始まる。咲は、胸いっぱいに期待を膨らませながら、家の中へと戻っていった。




