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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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翔の餞別選び:距離と温もりのメッセージ

 佐藤家のリビングルームは、春を前にした特別な空気に包まれていた。

 妹の咲が寮生活を伴う高校へ旅立つ日が、数日後に迫っている。


 咲の部屋の隅には、母の美和と揃えた真新しい荷物が積み上げられていた。

 一つ一つが、彼女の新しい生活を象徴しているようで、その光景は、家族の間に、否応なく「別れ」という名の影を落としていた。


 翔は、その光景を、極力視界に入れないようにしていた。


「翔、あんた、咲に餞別は用意したの?」


 美和が、ダイニングでハーブティーを淹れながら尋ねた。

 翔は、スマートフォンから目を離さずに、ぶっきらぼうに答える。


「別に。どうせすぐ帰ってくるだろ。あいつのことだ、合わないって言って一ヶ月で音を上げるのがオチだ」


 だが、彼の言葉は、彼自身の心とは裏腹だった。

 咲が選んだ道は、誰にも真似できない、非効率で困難な挑戦だ。兄として、その決意は誇らしい。

 しかし、長年、リビングのソファで並んでゲームをしたり、庭で陽介と三人で焚き火を囲んだりしてきた妹がいなくなるという事実は、彼の心に、強い寂しさとして澱のように沈殿していた。


 父である陽介は、自身の仕事の集大成を成し遂げ、充実感に満ちている。

 母の美和は、娘に「生活の知恵」と「温もり」を渡し終えた達成感と、寂しさを抱えている。


 家族の中で、翔だけが、この感情の整理がつかないでいた。


 彼は、妹への餞別選びという、兄としての「不器用な愛情の表現」を通じて、自分の感情と向き合う必要があると感じていた。

 それは、単なる贈り物ではなく、物理的な距離が開く妹に対して、「適切な距離を保ちつつ、心の温かいメッセージを送る」ための、重要な儀式だった。



---



 翔は、何も言わずに自宅を飛び出した。愛用のロードバイクに跨がり、ヘルメットを装着する。


 風を切って、街へと向かう。ペダルを漕ぐリズムは、翔にとって、最も集中し、思考を整理するための時間だ。


 翔は、ヒルクライムの挑戦を通じて、「距離の哲学」を学んでいた。

 それは、目標と自分との間に、常に適切な距離を見極めること。近すぎると焦り、遠すぎると諦める。


 妹の寮生活もまた、この「距離の挑戦」だ。

 物理的な距離は開く。

 だが、そこで大切なのは、心の距離をどう保つかだ。過干渉になれば、彼女の自立を妨げる。無視すれば、彼女は孤独に押し潰されるかもしれない。


(咲は、俺が何を贈っても、多分喜ばないだろうな。あいつは、モノじゃなくて、自分が選んだ道の『過程』を大事にするタイプだから)


 翔は、デパートが立ち並ぶ賑やかな中心街へとペダルを進ませた。

 彼の頭の中は、「効率的な贈り物」か「非効率な心の支え」かという葛藤で満ちていた。



---



 デパートの雑貨フロアは、キラキラとした商品であふれていた。


 翔は、まず、「便利なもの」を探した。

 寮生活で役立つ、コンパクトで高機能なデジタルガジェット。あるいは、時間を節約できる、効率的な調理器具。


 彼は、最新型の多機能目覚まし時計を手に取った。これなら、咲の忙しい寮生活を、より効率的にサポートできるだろう。


 しかし、すぐに違和感を覚える。


(咲が選んだのは、三人一部屋で、洗濯や掃除も自分でやる、最も非効率に見える道だ。

 俺がここで、効率的なガジェットを贈るのは、あいつの挑戦を否定することにならないか?)


 咲は、美和から「共同生活は、自分の効率より、相手への配慮が最も大事」という教えを受け取っていた。

 彼女は、この非効率で手間のかかる道を、あえて選んだのだ。


 翔は、目覚まし時計を元に戻した。

 兄として「現実的な便利さ」を与えるべきか、それとも「精神的な安らぎ」を与えるべきか。

 彼の心は、父の「余白の哲学」と、妹の「困難な道を選ぶ覚悟」の間で、激しく揺れ動いた。


 彼は、デパートの喧騒から逃れるように、一軒の静かな自然系雑貨店へと足を踏み入れた。


 その店は、オーガニック製品や、手作りの自然素材を扱っており、店内にはアロマと土の優しい香りが漂っていた。


 デパートの人工的な明るさとは異なり、ここには、佐藤家の庭に通じるような、静かで落ち着いた「時間の流れ」があった。


 翔は、ふと、あるコーナーで立ち止まった。

そこには、ローズマリー、ラベンダー、タイムなどのハーブの種や、小さな栽培キットが並んでいた。


 翔の脳裏に、庭で、咲と美和が並んでハーブを摘んでいる光景が、鮮明にフラッシュバックした。


 美和は、いつも咲に、ハーブの効能だけでなく、「この土は、水やりの手間がかかるけど、その分、香りが濃くなる」といった、手間を惜しまない愛情を教えていた。


 美和は、咲の旅立ちの際、「この庭のハーブの香りは、いつでもあなたの家に繋がっている」と言い、そして、「孤独になった時、誰にも邪魔されない時間に、自分のための余白を作りなさい」と伝えた。


 翔は、悟った。


 自分が咲に贈るべきものは、「効率的な道具」ではない。

 それは、「孤独な時、彼女の五感に働きかけ、母と庭の温かい記憶を遠隔で呼び起こすための装置」だ。


 寮という閉鎖的な空間で、咲が誰にも邪魔されずに、自分だけの「小さな余白」を作り、心を安らげることができるもの。

 それが、兄としての自分の役目だと。



---



 翔は、二つのアイテムを選んだ。


 一つは、手のひらサイズのラベンダーの栽培キット。

 寮の窓辺でも育てられる、小さな鉢と、種、そして手作りの土がセットになっている。


 そしてもう一つは、ローズマリーの香りのバスソルト。

 これは、体を温め、心の緊張を解きほぐすためのものだ。


 どちらも、手間がかかるかもしれない。毎日水をやり、土の微かな湿り気を気にし、収穫するまでには時間がかかる。

 しかし、その「手間」こそが、咲の心に、「生きている実感」と「母から受け継いだ温もり」を与えてくれるだろう。


 翔は、この非効率的な選択に、深い満足感を覚えた。

 彼は、ロードバイクで培った「距離の哲学」を、妹への愛情の表現として、初めて完全に昇華させたのだ。



---



 自宅に戻った翔は、すぐに小さなメッセージカードを用意した。


 普段、LINEやSNSでしか言葉を交わさない彼にとって、手書きでメッセージを書くことは、極めて非効率で、照れくさい行為だった。


 彼は、ペンを握り、しばらく悩んだ。

 スマートでカッコいい言葉は出てこない。


 結局、彼が書いたのは、彼らしい、不器用だが率直な、愛情と心配が入り混じった短い言葉だった。



咲へ

寂しくなったら、このハーブの香りを嗅いで。

変なこと考えんなよ。

たまには連絡しろ。

兄より



 「変なこと考えんなよ」という言葉には、「お前の挑戦は知っているが、無理しすぎるな」「お前の居場所は、ここにもある」という、幾重もの意味が込められていた。


 そして、「たまには連絡しろ」という命令形は、物理的な距離が開くことへの、兄の寂しさと、繋がっていたいという純粋な要求だった。



---



 その日の夜、咲が風呂に入っている間に、翔は、餞別を持って彼女の部屋へと向かった。


 咲の荷物は、美和によって、隙間なく、そして整理整頓されて詰め込まれていた。

 その様子は、美和の「生活の知恵」の完璧な継承を示していた。


 翔は、誰にも見られないように、そっと、その荷物の隙間に、栽培キットとバスソルトを忍ばせた。

 手書きのメッセージカードは、キットの土の上に、優しく置いた。


 翔は、最後に、荷物全体を一瞥した。


 この荷物は、咲が新しい共同体へ飛び出すための、彼女の「生活」と「哲学」の全てが詰まった、「温もりの詰まった宝箱」だ。


 彼は、物理的な距離が開くことで、兄妹の関係性が、これまでの日常的な衝突や甘え合いから離れ、かえってより深く、成熟したものへと変わっていく予感を抱いた。

 彼らは、それぞれの挑戦の場所で、互いを意識し、そして、心の繋がりを保つだろう。


 翔の心の中には、妹への誇りと、そして、自分の次のヒルクライム挑戦への静かな決意が満ちていた。

 彼は、静かに部屋を後にした。


 翌朝、咲が荷物を開ける時、兄の不器用な愛情と、庭の温かい香りが、彼女の新しい生活を優しく包み込むことになるだろう。

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