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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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巣立ちと美和の想い:暮らしの知恵と受け継ぐ温もり

 咲が、寮生活を伴う私立高校への進学を決意してから、佐藤家のリビングには、以前とは違う種類の静けさが漂っていた。

 それは、喧騒が去った後の静寂ではなく、大きな変化を前にした、期待と不安が混ざり合った、張り詰めた静けさだった。


 陽介は、娘の決意を誇りに思いつつ、入寮の手続きや学費の準備に追われていた。

 長男の翔も、妹の挑戦に触発され、自身のヒルクライム挑戦を経て、自立への意識を固めつつある。

 子供たちの成長は、陽介にとって大きな喜びだったが、同時に、彼が作り上げた「拠点」としての庭が、その役割を終えようとしていることへの、かすかな寂しさも感じていた。


 そして、美和。

 彼女は、二人の子供たちの巣立ちを、最も近くで感じ取っていた。


 特に咲の寮生活は、家族との物理的な分離を意味する。それは、美和にとって、長年の母としての役割が、一つの大きな区切りを迎えることを意味していた。


 美和は、陽介とは違い、手続きの煩雑さよりも、咲が初めて経験する「他人との共同生活」に心を砕いていた。


「寮の部屋は、三人一部屋。食事は三食提供されるけれど、あとは全部自分で管理しなきゃいけないんだよね」


 咲は、美和と向かい合い、入寮の案内を広げていた。


「うん。掃除も洗濯も、全部」


 咲の声には、挑戦への意欲と、微かな緊張が滲んでいた。

 美和は、案内の紙に目を走らせながら、直感した。寮生活で最も必要なのは、単なる「家事のスキル」ではない。

 それは、「共同生活で、自分の存在が誰かの負担にならないように配慮するスキル」、すなわち「生活の力」だと。



---



 美和は、咲と共に、寮生活に必要な道具を揃えるための、最後の買い物に出かけた。

 向かったのは、ホームセンターではなく、生活雑貨を扱う、落ち着いた店だった。美和が道具を選ぶ基準は、常に「共同体の中での配慮」だった。


「咲、この収納ケースはダメよ」


 美和が指差したのは、大容量で効率的な、プラスチック製の収納ケースだった。


「え? たくさん入る方が効率的じゃないの?」


 咲が首を傾げる。


「たしかに効率的だけど、三人一部屋で、どれだけのスペースを占めるか考えてごらんなさい。

 共同生活っていうのは、自分の効率よりも、相手のスペースを尊重することが、何よりも大事なスキルなのよ」


 美和は、代わりに、場所を取らない、薄く折りたためる布製の収納グッズや、重ねて使える竹製の小さな棚を選んだ。


 洗濯用品を選んでいる時もそうだ。

 咲が、便利そうな大型の洗濯ネットを取ろうとすると、美和はそれを止めさせた。


「こういうファスナーが金属のネットは、夜に洗濯する時に、他の子の洗濯機に当たって、すごく大きな音を立てるの。

 夜中の音って、思っている以上に響くから、イライラさせてしまう原因になるわ」


 美和は、ファスナー部分がプラスチックで覆われた、「音が静かな洗濯ネット」を選んだ。


「共同生活はね、自分の効率を少し犠牲にしてでも、相手に不快な思いをさせないための、静かな配慮の積み重ねなの。

 その配慮こそが、お互いに気持ちよく生活するための、ルールブックに載っていない一番大切なルールなのよ」


 美和の言葉には、長年、家族という最も小さな共同体を支え、陽介の会社での疲弊を見てきた、彼女自身の「生活の哲学」が詰まっていた。


 咲は、母の言葉を、ただの買い物のアドバイスとしてではなく、巣立ちのための最も重要な教訓として、真剣に受け止めていた。



---



 買い物を終えて自宅に戻った美和は、いつものように、夕食の準備に取り掛かった。

 咲も、自然と隣に並び、手伝いを始める。


 庭で採れたローズマリーとタイムを、今日の肉料理に使うために、二人で摘み取る。

 冷たい冬の空気の中で育ったハーブは、香りが強く、手の熱で温めると、部屋中に清々しい香りを放った。


 咲が、摘んだハーブを束ねながら言った。


「寮に入ったら、ハーブティーも、もう自分で淹れないとね」


 美和は、その言葉に、胸が締め付けられるのを感じた。


「そうね。でも、いつでも送ってあげるわ。この庭のハーブの香りは、いつでもあなたの家に繋がっているから」


 美和は、野菜を刻む手を止め、この「日常の営みの時間」が、どれほどかけがえのないものであったかを痛感した。

 陽介が庭を通して共同体の温もりを築いたように、美和は、食と家事を通して、家族の絆と温かさを守り続けてきたのだ。

 そのルーティンが、もうすぐ一つ、欠けてしまう。


 美和は、娘が共同生活で直面するであろう孤独やストレスを想像し、居ても立ってもいられなくなった。



---



 夕食の準備がひと段落し、美和は、咲と向かい合って座った。

 彼女は、娘の瞳を真っ直ぐに見つめ、母として、そして一人の女性として、最も伝えたいことを告げる決意をした。


「咲、寮生活は、あなたが思っている以上に大変よ。あなたは、自分の意思で非効率で困難な道を選んだ。

 それは、お母さんもお父さんも、本当に誇りに思っている」


「ありがとう」


「でもね、共同生活は、孤独との戦いでもあるの。常に誰かがいるのに、心の底では誰もあなたを見ていない。

 そんな孤独を、あなたは初めて知ることになるかもしれない」


 美和は、咲の手を握った。土に触れ、ハーブを摘み、料理をしてきた、温かい手だった。


「そんな時、あなたを支えてくれるのは、『自分のための余白』よ」


 美和は続けた。


「お父さんが庭で見つけたように、あなたも、誰にも邪魔されない時間に、必ず自分の心を守るための空間を作りなさい。

 それは、夜中に誰にも言わずハーブティーを淹れることかもしれないし、誰も見ていないところで、自分の部屋を完璧に整頓することかもしれない」


「そして、もう一つ、お母さんが伝えたいこと」


 美和は、深呼吸をした。その言葉には、陽介との結婚生活、そして母としての人生の、全てが凝縮されていた。


「寮生活は三食提供される。

 でもね、誰かのために作るご飯の温かさ、誰かを思って作る料理の愛情は、誰もあなたに教えてはくれないわ」


「いつか、あなたが疲れて、心が荒んだ時。あるいは、誰かの心が荒んでいるのを見た時。

 その時、あなたに、誰かのためにおにぎり一つでも握ってあげられる、『生活の力』を、持ち続けてほしい」


 美和の目には、涙が溢れていた。

 それは、寂しさの涙だけではない。娘が、これから経験するであろう人生の困難を知っているが故の、愛と、託す思いの涙だった。


「あなたが、自分の手で、誰かの心を温めることができる。

 その力こそが、お母さんが、この庭と、この台所で、あなたに一番伝えたかったことなの」


 陽介が庭を通して見つけた「共同体の温もり」を、美和は今、「生活」と「食」を通して、娘に、新しい共同体へと旅立つための最も大切な「心の武器」として託したのだ。



---



 咲は、母の言葉を、一言も聞き漏らさずに聞いていた。


 彼女は、母の涙を見て、初めて、自分の巣立ちが、母にとってどれほど大きな意味を持つのかを理解した。

 それは、単なる引っ越しではない。母が長年かけて築いてきた、「温かい生活のバトン」を受け取ることなのだ。


 咲の心は、寮生活という孤独な挑戦への不安から、母から受け継いだ「生活の知恵」と「温もり」に満たされた。


「お母さん、私、大丈夫だよ」


 咲は、母の涙をそっと拭った。


「洗濯ネットは静かなものを選んだし、収納はコンパクトにした。そして、誰にも邪魔されない時間を作って、お母さんのハーブの香りも楽しむ」


「そして、いつか、誰かのためにおにぎりも握れるように、生活の力をつけてくる。この庭で学んだことを、新しい場所で、ちゃんと実践してくるから」


 その夜、佐藤家の食卓は、いつも以上に温かかった。


 陽介が、咲の寮生活での健闘を祈り、ビールを注ぐ。翔は、自分のヒルクライムの挑戦の経験を語り、妹を励ます。

 咲は、家族が作ってくれた、一つ一つに愛情が込められた料理を味わいながら、この庭で学んだ全てを、心の奥深くに刻み込んだ。


「大丈夫。私には、この庭と、お父さんの哲学と、お母さんの温かい生活の知恵がある」


 咲は、その確信とともに、新しい共同体へと、力強く、そして温かく満たされた覚悟を持って、旅立つ準備を完了させたのだった。

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