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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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陽介の「仕事の集大成」:戦略としての余白

 咲が旅立ちを決め、翔がロードバイクで自らの限界に挑んだ後、佐藤家の庭には、以前とは異なる種類の静けさが戻ってきた。

 それは、子供たちの成長という最大の「成果」を見届けた後の、親としての深い達成感に満ちた静寂だった。


 陽介は、週末、庭に座り、美和と二人でコーヒーを飲む時間が増えた。

 目の前の庭は、以前にも増して美しく、そして豊かに見えた。


「庭が、私の人生で一番、効率的な結果を出したかもしれないな」


 陽介は、美和に笑いながら言った。

 美和も微笑む。


「ええ。時間をかけた分だけ、子どもたちの心という最高の土壌を耕してくれたわ」


 陽介は、この庭で経験した「非効率な寄り道」が、いかに自身の思考力、問題解決能力、そして何より精神的な回復力に繋がってきたかを、深く内省していた。


 彼の心の核となったのは、「余白の哲学」だった。

 それは、目的を定めた活動の間に、意図的に何も決めない時間、結果を求めない時間を設けることで、かえって本質的な創造性が湧き上がり、持続的な生産性が生まれるという考えだ。


 この哲学を、今度は自分の仕事、特に「人のモチベーションと持続性」というテーマに応用すべきだと、陽介は考え始めた。

 彼の職場である営業現場は、常に「時間=成果」という短期的な効率主義の呪縛に囚われており、それが従業員のバーンアウトと、創造性の枯渇を招いていることを、彼は痛感していた。



---



 陽介は、数週間かけて、自分の経験と論理を体系化した提案書を書き上げた。

 それは、中期経営計画に組み込むべき、革新的な「人材・組織戦略」だった。


 従来の提案書とは一線を画していた。


 そこには、売上予測や費用対効果(ROI)の数値は当然盛り込まれていたが、最も熱心に論じられていたのは、「人間の幸福」と「認知資源の回復」という、極めて抽象的な概念だった。


 提案書の核心は、こうだ。


「短期的な効率主義は、社員の『認知資源』を急速に消耗させ、結果的に長期的な生産性の最大化(LTP: Long-Term Productivity)を阻害する。

 このLTPを確保するためには、余暇を単なる休息ではなく、『創造性の土壌』として戦略的に定義し直す必要がある」


 陽介は、余暇の質が、社員のメンタルヘルスと、顧客との関係構築に必要な「共感力」と「発想力」を直接的に向上させると論じた。

 営業の本質は、論理的なデータだけでなく、相手の感情を理解する人間性にこそある、と。


 具体的な提案内容も、従来の制度からはかけ離れていた。


 一つは、「強制されない余白の創出」。

 例えば、連続五日間の休暇取得を義務化し、仕事の連絡を完全に遮断するデジタルデトックス期間を設けること。


 もう一つは、「質の高い余暇活動への支援」。

 それは、フィットネスジムの会費補助などだけではなく、手仕事、自然体験、園芸など、一見非効率に見えるが、五感を研ぎ澄ませ、脳の別の部分を使う趣味への助成だった。


 陽介は、この提案書を、最もこの哲学と対極にいる人物、そして最も「効率」と「成果」に厳しい上司である高橋営業部長に提出することにした。



---



 陽介の提案書は、営業部長である高橋のデスクに置かれた。

 高橋は、最近、ジョギングとホームセンター巡りに加え、バードウォッチングという新しい趣味を得て、生活に静かな変化が起こり始めていた。


 彼女は、最初のページを捲る。

 そこには、彼女の最も嫌う「精神論」や「根性論」とは全く異なる、ロジカルな経営戦略の言葉が並んでいた。

 しかし、その根底にあるのは、「余白」という、彼女が長年排除してきた概念だった。


 高橋は、読み進める。彼女の頭の中では、陽介の論理と、長年彼を支配してきた「時間=成果」という価値観が、激しく衝突を始めた。


 だが、提案書が進むにつれ、陽介が提示する「認知資源の回復」の科学的根拠、そして「創造性の土壌」という、抽象的だが的を射た論理が、彼女の内面と共鳴し始めた。



---



 そして、提案書の中で、陽介が「余暇の質」を熱く論じる部分に差し掛かった時、高橋の脳裏に、鮮烈な光景がフラッシュバックした。

 それは、つい先日、彼女が湖畔で体験したバードウォッチングの記憶だった。


 あの時、彼女は「成果」を求め、焦燥感に駆られていた。

 しかし、ベテランウォッチャーの「何も見つけない時間だよ」という言葉に触れ、目的を放棄した。


 その瞬間、彼女の五感は覚醒し、風の音、水面の微細な波紋、そして、突如として目の前に現れたメジロの鮮やかな色彩という、純粋な美しさだけが、彼女の世界を構成した。


 あの時間は、仕事の資料を読むよりも、何よりも彼女の心を深く満たし、疲弊しきっていた認知資源を、完全に回復させた。


 高橋は、提案書を握りしめた。彼女の心臓が激しく脈打つ。


 陽介の哲学は、単なる理想論ではなかった。

 それは、高橋自身が、最も非効率な場所である「湖畔」で、個人的な体験として証明してしまった、極めて現実的で、持続可能な「戦略」だったのだ。


「最高の効率は、最も非効率に見える場所から生まれる…」


 この提案は、会社の未来、そして社員の幸福、さらには営業成績の持続的な向上に繋がる、最も論理的な道筋だった。

 高橋は、長年の効率主義の呪縛から、完全に解き放たれた瞬間を感じた。



---



 高橋は、すぐに立ち上がり、人事部長に連絡を取った。


「至急、来てくれ。佐藤君の提案は、わが社の組織文化を根底から変える、革命的な戦略だ」


 高橋は、陽介の提案を、自身の強力な推薦状と、営業現場での持続的な成果への貢献という論理的な裏付けを添えて、人事部長に提出した。


 高橋という「効率の権化」とも言える会社員の熱意と、提案の持つ哲学的な深さに、人事部も感銘を受け、この戦略は、全社的な中期計画の核として、採用が決定された。


 翌日、高橋は陽介を自身のオフィスに呼び出した。


 陽介は、提案が不採用だった場合の次の戦略を頭の中で組み立てていたが、高橋の表情を見て、すぐにそれが杞憂であったことを悟った。

 高橋の眼差しは、いつもの厳しさではなく、心からの敬意と、深い感動に満ちていた。


 高橋は、陽介の提案書を、両手で持ち上げた。


「佐藤」


 高橋の声は、静かで、重厚だった。


「私は、君の提案を、人事部へ提出し、全社プロジェクトとして採用が決まったことを伝えに来た」


 陽介は、一瞬、言葉を失った。

 昇進や報酬の類いではない、彼の哲学そのものが、会社という巨大な組織に受け入れられたのだ。


「端的に言おう。君は、すごい」


 高橋は続けた。


「私は、長年、数字と時間に追われ、効率という名の鎖に縛られて生きてきた。無駄な時間は悪だと信じていた。

 だが、君の提案書、そして君自身の生き方、そして私の最近の個人的な体験が、その鎖を断ち切った」


 高橋は、デスクから身を乗り出し、心からの敬意を込めた眼差しで、陽介に向き合った。


「佐藤。君は、私が出会った中で、最も人間的な戦略家だ。最高の効率は、最も非効率に見える場所、つまり、君の庭から生まれると、君が私に教えてくれた」


「これは、単なる人事戦略ではない。君のキャリアの集大成だ。全社で採用し、実行に移す」



---



 陽介の胸の中に広がったのは、昇進や報酬を超えた、深い、深い達成感だった。


 彼の個人的な「寄り道」であった庭づくりは、家族の絆を深め、子供たちの自立を促し、そして最終的に、彼の仕事、彼の共同体である会社の未来を動かす戦略へと昇華されたのだ。


 「効率と余白のバランス」という、彼の人生の哲学は、この瞬間、個人的な趣味の範疇を超え、社会的な価値として完成を見た。


「ありがとうございます、部長」


 陽介は、深く頭を下げた。彼の言葉は、感謝と感動で震えていた。


 その日の退社後、陽介は、一目散に我が家へと帰路を急いだ。

 早く、この大きな勝利を、彼の哲学を最も近くで支え、共に庭を耕してくれた美和に伝えたい。


 夕暮れの光が差し込む庭を想像しながら、陽介は確信していた。


 彼の仕事の集大成は終わった。

 しかし、美和との二人三脚で築く、「夫婦二人きりの余白の庭」という、人生の新たな創造の物語は、今、まさに始まろうとしているのだ。

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