42歳、七輪でソーセージを焼く
七輪の中で、炭全体が赤く熾きている。もう、煙はほとんど出ていない。七輪の淵から立ち上る熱気が、陽介の顔にじんわりと伝わってくる。
陽介は、この「生きている火」を見つめるだけで、深い満足感に浸った。
これはガスや電気の熱とは全く違う。
人間の手で、時間をかけて育てた、原始的なエネルギーだ。パチパチという炭が燃える微かな音は、まるで自然の囁きのように、彼の耳に心地よく響いた。
彼は椅子に座り、熾火になった炭の上に、網をそっと乗せた。
そして、スーパーで買ってきたばかりの安売りのソーセージのパックを開ける。今日の最初の挑戦であり、火起こしの勝利に対する、ささやかな報酬だ。
陽介は、ソーセージを一本、トングで掴み、網の上の最も火力が強いと思われる場所に置いた。
ジュウッ。
ソーセージが網に触れた瞬間、肉の脂が熱で溶け出し、炭に落ちる音がした。そして、その瞬間、七輪から立ち上る匂いが劇的に変化した。
焦げ臭い煙の匂いから、香ばしい肉の焼ける匂いへ。
陽介の嗅覚が、その変化を鋭く捉える。
食欲をそそる、たまらない匂いだ。この匂いは、リビングのガスコンロで焼くソーセージの匂いとも、フライパンで炒める油の匂いとも違う。炭火で燻された、独特の香ばしさと、肉の旨みが混ざり合った、複雑で奥深い匂いだった。
ソーセージの皮が、熱で縮み始め、表面に焼き色が付き始める。陽介は、トングでソーセージを転がす。焼き網に、ソーセージの美しい焦げ目がついていく。
彼の意識は、完全に目の前のソーセージと火に集中していた。仕事の資料も、家族の視線も、すべてが遠い。彼は今、「火を操り、食べ物を焼いている」という、極めて単純だが、人間として最も根源的な行為に没頭していた。
焼きすぎに注意を払いながらも、陽介は少し焦げ付かせてしまった。炭火は火力の調整が難しく、少し目を離した隙に、ソーセージの一部が黒く硬くなってしまったのだ。
(まあ、初めてだし、こんなものか)
彼は、完璧を求めないことにした。この「失敗」もまた、庭遊びの一部だ。
陽介は、トングでソーセージを網から取り出し、冷ますのももどかしく、軍手を外した手でそれを受け取る。熱さを我慢しながら、フーフーと息を吹きかけ、大きく一口。
「…っ!」
その瞬間、陽介の目が見開かれた。
皮はパリッと、弾けるような歯ごたえ。肉汁が口の中に広がり、焦げ付いた部分からくる微かな苦味が、炭火ならではの香ばしさとなって、ソーセージの旨みを何倍にも引き立てていた。
「うまい……格別にうまい」
彼は、このソーセージが、今まで食べてきたどのソーセージよりも美味しく感じられた。
それは、「自分で火を起こし、自分で焼いた」という、能動的な行為が、味覚に加算された結果だった。
陽介は、その場でソーセージを一本完食し、この七輪と炭火が、彼に「小さくとも確かな幸福」をもたらしてくれることを確信した。
そして、この美味しい匂いは、すぐに家の内部へも漂い始める。彼の活動が、家族の嗅覚を刺激し始めたことを、彼はまだ気づいていなかった。
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陽介が、焦げ付かせたソーセージを一本平らげ、次のソーセージを網に乗せようとしたその時だった。
背後の勝手口が、静かに開く音がした。
彼は振り返らなかったが、誰がいるのかはすぐにわかった。部活から帰宅し、午後の活動に出かける前の長男・翔だ。
翔は今朝、早々に出かけているため、陽介の火起こしの悪戦苦闘を見ていない。彼が玄関ではなく勝手口から出てきたのは、庭の七輪から漂う強烈な匂いに誘われたからに違いなかった。
翔は、午前中の激しい運動で空腹がピークに達しているはずだ。炭火で焼かれた肉の香ばしい匂いは、青春期の少年には抗いがたい誘惑だっただろう。
陽介は、翔が何を言ってくるのか、あるいは無視して家に入っていくのか、緊張しながら待った。
翔は、陽介が使っている折り畳み椅子とは少し離れた、コンクリートの叩きの上に立った。陽介と目を合わせようとはしない。翔の視線は、ただひたすらに、七輪の上でジュウジュウと音を立てながら焼けていくソーセージに集中していた。
翔の態度は、依然として「無関心」という名の壁に守られている。父の趣味に興味があるわけではない。ただ、彼の本能的な空腹と、父の始めた行動へのかすかな好奇心が、彼をここに留まらせていた。
陽介もまた、何も言わなかった。
「おかえり」「腹減ったか」といった、普段通りの会話を試みることもできた。しかし、彼は、この無言の時間が、今の翔との間に最も心地よい距離感であることを察していた。言葉を交わすことで、互いに意識しすぎて、この場が壊れてしまうことを恐れた。
彼は、トングでソーセージを一本掴んだ。焼き色が最も濃く、肉汁が皮からにじみ出ている、最高の状態の一本だ。
陽介は、トングを持ったまま、翔の方へ体を向けた。
「…これ」
彼は言葉を選ばず、ただトングの先を翔の方へ差し出した。それは、父から息子への「食の分け与え」という、太古から変わらないコミュニケーションの形だった。
翔は一瞬躊躇したが、空腹と匂いの誘惑には勝てなかった。彼は無言で、自分のTシャツの裾で手を拭くと、その焼きたての熱いソーセージをトングから受け取った。
翔は、顔を近づけてフーフーと息を吹きかける。そして、豪快に一口。
「…うまい」
その言葉は、口には出されなかったが、陽介には翔の心の声がはっきりと聞こえた気がした。翔は、そのソーセージのパリッとした皮の食感と、炭火の香ばしい旨みに、目を見開いていた。
彼の無表情な顔に、一瞬だけ満足の色が浮かぶのを、陽介は見逃さなかった。
翔は急いで二口目を食べ、すぐにソーセージを平らげた。そして、陽介と目を合わせることなく、七輪に背を向けた。
「ごちそうさま」とも言わず、翔はそのまま勝手口から家の中に戻っていった。彼の滞在時間は、わずか1分にも満たない。
陽介は、熱を帯びたトングを置き、七輪の火を見つめた。言葉はなかったが、確かに共有された、この「うまい」という感覚。
この「無言の交流」が、陽介にとって、ここ数年で最も大きな喜びだった。
彼の庭での活動は、ついに家族の「感覚」に触れ、「心の距離」をほんの少しだけ縮めることに成功したのだ。
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翔が去った後、陽介は七輪に残った炭を見つめた。他のソーセージを焼く誘惑もあったが、彼は「やりすぎない」ことを選んだ。
今日の目的は達成された。
火起こしに成功し、最高に美味しいソーセージを一本食べ、そして何より、無言ではあったが息子と幸福な瞬間を共有できたのだ。
彼は、桜井慎の動画で学んだ通り、「火の始末」に全神経を集中させた。これは美和への約束であり、彼の「庭遊び」を持続させるための最も重要な責任だった。
陽介は、火消し壺の代わりに用意した金属製のバケツを取り出した。トングで赤く熾きた炭を慎重に一つずつ掴み、バケツの中へ移していく。
ジュウッ、ジュウッ、という微かな音と共に、炭はバケツの中で熱を放出する。完全に火が消えるまで、彼はバケツのそばで待ち続けた。
この静かな時間もまた、彼にとって重要な儀式の一部だった。
炎の熱が徐々に消え、バケツの表面温度が下がっていくのを確認するまで、彼はその場を離れなかった。
火消しが終わり、七輪と網、バケツを所定の場所に片付ける。使用後の道具を丁寧に拭き、元通りにしまう。この一連の作業は、かつて大掛かりなキャンプで感じた「片付けの労力」とは違い、心地よい整理整頓の感覚だった。
陽介がリビングに戻ると、美和が彼を待っていた。翔と咲はそれぞれの部屋に戻ったようだ。
「お疲れ様。大丈夫だった? 煙すごかったけど」
美和は、陽介の顔に付いた煤や、汚れた軍手をチェックするように見つめた。その表情には、朝の咲の指摘に対する不安がまだ残っているようだった。
陽介は微笑んだ。その笑顔は、営業スマイルではなく、達成感と安心感の入り混じった、自然なものだった。
「ああ、大丈夫だよ。最初ちょっと煙が出たけど、その後はうまくいった。火消しも完璧だ。ちゃんとバケツでやったから」
陽介は、火の始末に万全を期したことを、美和にきちんと伝えた。美和はその言葉に、心から安堵した表情を見せた。
「そう。良かった。…でも、あんなに煙が出るとは思わなかったわね。あと、すごい良い匂いだったけど。翔がキッチンに入ってくるなり、『あれは何だ?』って目をしてたわよ」
美和は、そう言って、陽介が差し出した「無言のソーセージ」が、翔に届いたことを間接的に伝えた。
陽介は嬉しさが込み上げ、思わず笑った。
「ハハ。美味かったよ。やっぱ、炭火は違うな」
この「火と匂い」を通じた会話は、日頃の「仕事と家事」といった事務的な会話とは全く違い、二人の間に、ほんの少しの温かい共有感をもたらした。
美和は、陽介が火起こしを楽しみ、充実した時間を過ごしたことを理解した。彼の顔色が、仕事から帰ってきたときよりも、週末の午前中よりも、遥かに良いことが、何よりの証拠だった。
「火の始末さえきちんとしてくれれば、別にいいのよ。陽介さんが、そうやって楽しんでくれるなら、家の雰囲気も明るくなると思うし」
美和の言葉は、陽介の新しい趣味への完全な肯定となった。
陽介は、七輪とミニ焚き火台という新しい道具が、単なる趣味用品ではなく、家族との新しい形のコミュニケーションの媒体になり得ることを悟った。翔との無言の交流、美和との穏やかな会話。すべてが、この庭から始まっていた。
陽介は、この小さな庭が、「個の回復」の場であると同時に、「家族との距離を修復する場」としての、二重の可能性を秘めていることを確信した。彼は、来週の仕事への不安を、この七輪の小さな火の記憶で上書きし、より深い眠りへと落ちていった。




