佐々木の園芸店での運命の出会い:温もりの再発見
年明けの週末。佐々木は、ジョギングを終え、自宅に戻る前に、少し遠回りをして街に出ていた。
彼の生活には、この一年で大きな変化が訪れていた。
先輩である陽介の影響を受け、佐々木は、ただ仕事をこなすだけの効率的な日常に、「余白」という名の趣味を取り入れ始めた。
それは、ベランダでの菜園と、それに付随するジョギングだった。
しかし、彼の行動様式は、まだ効率主義の残滓に支配されていた。
今日の目的は、ベランダ菜園で育てる、新しいハーブの苗と種を探すことだ。彼は事前にネットでレビューを比較し、評判のよい大型チェーン店へ向かうつもりだった。
だが、ふと立ち止まる。
「…本当に、それでいいのか?」
陽介の庭づくりは、常に効率とは対極にあった。
手間をかけ、時間をかけ、予測不能な土や植物の反応を楽しむ。その非効率さの中にこそ、陽介の安らぎと創造性があった。
佐々木は、陽介や、最近では高橋までもが、その「余白」の価値を見出し始めているのを見てきた。
自分も、単に「物を買う」という効率的な行為ではなく、陽介の庭づくりに通じる「非効率な深み」を持つ店を探すべきではないか。
彼は、チェーン店とは逆方向の、再開発から取り残された古いエリア、寂れた商店街へと足を向けた。
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商店街は、時の流れから取り残されたように、ひっそりとしていた。シャッターが下りた店が多く、人通りはまばらだ。
佐々木がいつも通勤で見る、光沢のある新しいビル群とは全く異なる、ノスタルジックな風景が広がっていた。
その一角に、彼は求めていた場所を見つけた。
「緑の小道園芸」と書かれた、色褪せた看板。
店の軒先には、手入れは行き届いているものの、どこか野趣あふれる鉢植えが並んでいた。
市販のカタログには載っていないような、地元の古い品種の種が、手書きのラベルとともに置かれている。
店の前には、「この土は、水やりの手間がかかる分、香りが濃くなります」といった、マニュアルにはない、植物との対話に基づいたメモが貼られていた。
佐々木は、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚を覚えた。
彼の日常が、秒単位のスケジュールで動いているのに対し、この店は、植物の成長の速度で時間が流れているようだった。
彼は、店の奥へと足を踏み入れた。
土と、植物の青い香り、そして、どこか懐かしい古い木の匂いが混ざり合った、静かで温かい空気が漂っている。
店内の奥、薄暗いレジカウンターの横にある作業台で、一人の女性が背を向けて作業をしていた。
彼女が店番だろう。
佐々木は、その女性の姿に目を奪われた。
彼女は30代前半に見えた。派手な装飾はなく、地味な作業着のような服装をしている。
だが、彼女の周囲だけが、まるで静止画のように、落ち着いた、確かな温かさを放っていた。
彼女は、小さな篩を使って、土から種を選別しているようだ。
その手の動きが、尋常でなく丁寧だった。土に混ざった種子を、壊さないよう、一つ一つ慈しむように拾い上げ、木箱に移していく。
長年、土と植物に触れてきたのだろう。
彼女の手は、若々しい滑らかさではなく、荒れてはいるが、その荒れ方は、まるで土そのもののような、静かで力強い「熟練の温かさ」を醸し出していた。
佐々木が近づいても、彼女はビジネス的な愛想を振りまくことなく、手元の作業を続けた。
その態度は、冷たいわけではなく、ただ、目の前の植物の生命に集中している職人のそれだった。
「すみません」
佐々木は、緊張しながら声をかけた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。瞳は、真っ直ぐで、佐々木の質問を、全て受け止めようとしているように見えた。
佐々木は、少し緊張しながら、ベランダで育てたいハーブの苗について尋ねた。
「あの、日照時間が限られるベランダで、最も効率的に、濃い香りを楽しめるハーブを探しているんですが。
例えば、耐陰性があって、水やりの手間が少ない品種はありますか?」
佐々木が発する言葉は、すべて「データと効率」に基づいていた。
彼の職場での話し方、すなわち、最短で最良の結果を出すためのロジックそのものだった。
女性は、しばらく黙って、佐々木の質問を聞いていた。そして、静かに微笑んだ。
「そうですね。効率を重視するなら、市販されている品種が最適でしょう。ですが、本当に『濃い香り』を求められるなら、話は別です」
彼女は、作業台の下から、小さな鉢植えを取り出した。葉は、小さく、茎は細いが、深い緑色をしている。
「この品種は、日陰でも育ちますが、水をやる時、少し手間をかけて、土の微かな湿り気を感じてあげないといけないんです」
彼女は、静かに言った。
「乾きすぎず、湿りすぎず。この土は、水が抜けにくい分、その『間』を見極めるのが難しい。
でも、その手間をかけた分だけ、この葉の香りに深みが出る。植物は、サボった手間を正直に香りで教えてくれますから」
佐々木の頭の中で、ロジックが崩れていく音を聞いた。
彼女の言葉は、彼の効率的な質問を、静かに、しかし完全に覆していた。彼女が話しているのは、データやマニュアルではなく、植物との対話であり、時間をかけることの価値だった。
それは、陽介が、ホームセンターの安価な木材ではなく、手間のかかる古材を選んで庭を造った、あの「非効率な情熱」と同じ種類のものだった。
佐々木は、思わず尋ねた。
「手間をかける、というのは、その分、収穫量が増えるということですか?」
彼女は、くすりと笑った。
「収穫量ですか。どうでしょう。でも、手間をかけた分だけ、その植物を愛せるようになります。
そして、その愛が、香りの深みになって戻ってくる。それを『効率』と呼ぶなら、そうかもしれませんね」
佐々木は、彼女の言葉に強烈に魅了された。
彼女が持つ、人生経験を経て培われた落ち着きと、植物に対する揺るぎない愛情は、常に成果を求め、焦燥感の中で生きてきた佐々木にとって、大きな安らぎだった。
彼女は、時間を急がない。
彼女の視線は、常に植物の、今、この瞬間の状態に向けられている。その「時間の流れに急かされない、静かな深み」は、佐々木の効率的な日常が作り出していた心の「張り詰めた緊張感」を、ゆっくりと解きほぐしていくのを感じた。
佐々木は、普段の職場では、常に次の行動、次の目標、次の成果へと意識を向けている。
だが、ここでは、ただ「今」という瞬間に、集中できた。
彼女と話していると、自分の価値観が、まるで古い葉が落ちるように、一枚ずつ剥がれていくような気がした。
彼女の存在そのものが、この寂れた園芸店の「生命力」の源泉であり、この場所に漂う温もりの理由なのだろう。
彼女は、ハーブの苗を包みながら、手書きのメモを添えてくれた。
「ベランダは風通しが大事ですよ。特に夕方の風を当ててあげて」
佐々木は、そのメモと苗を、宝物のように受け取った。
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会計を終え、佐々木は店を出た。
寂れた商店街の冷たいアスファルトの上を歩きながらも、彼の胸の中は、園芸店の温かい空気と、彼女の静かな微笑みで満たされていた。
彼の脳裏には、彼女の表情が焼き付いている。
地味な作業着の下に隠された、植物と土に対する深い愛情。そして、落ち着きがもたらす、揺るぎない確信。
佐々木は、立ち止まった。
もし、以前の彼なら、ここで、最も効率的な行動を取っていただろう。
連絡先を尋ねる、SNSを交換する、あるいは次の週末の約束を取り付ける。そうすれば、「次の接触」という成果が保証される。
しかし、彼は、そうしなかった。
彼は、彼女の持つ「非効率な情熱」に触れた後、そのロジックを彼女に対して使うことが、まるで冒涜のように感じられたのだ。
彼は、代わりに、自分の心の中に、予測不能で、非効率な「期待」を抱くことにした。
「また、この店に来ればいい」
ハーブの育て方で困った時。
新しい種が欲しくなった時。
あるいは、単に、あの静かな温かい空気に触れたくなった時。
彼は、この寂れた商店街の片隅にある園芸店、そして、あの女性に、また会いたいという、個人的な「余白」を、そっと心の中に植え付けた。
佐々木の日常に、仕事や庭とは異なる、新しい「目標」と「期待」が加わった。
それは、成果や効率とは全く関係のない、温もりを再発見するための、個人的な旅の始まりだった。




