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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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咲の進路への決意:庭が育んだ共同体の価値と巣立ちの覚悟

 年が明け、高校受験という大きな山を越えた後の、束の間の静寂が、佐藤家の庭を支配していた。

 空は薄曇りで、太陽の光は弱く、ピザ窯は冷え切っていた。


 咲は、分厚いダウンジャケットを羽織り、自分の部屋ではなく、庭のベンチに座っていた。


 膝の上には、二つの合格通知の封筒が重なっている。手は冷たいが、彼女の心は、それ以上に冷たい重圧に苛まれていた。最終的な進路を決める、人生の大きな選択を前に、彼女は一人、この庭の静けさを求めたのだ。


 一つ目の道は、公立高校。

 それは、彼女が最も快適に、最も効率的に高校生活を送れることを意味していた。

 中学時代の親しい友人たちも多く進学する予定であり、慣れたコミュニティと、通学時間ゼロに近い便利さが約束されている。


 この道を選べば、彼女は夜になれば、父が作ったピザ窯の残り火の温かさ、母が淹れてくれるハーブティーの香り、そして、家族が笑い合うリビングの温もりを、毎日享受できる。

 つまり、この庭という、彼女の「精神的な拠点」に、留まり続けることができるのだ。


 二つ目の道は、田舎の私立高校。

 滑り止めとして受験したこの学校は、「地域社会との一体化」を強く掲げ、生徒を地域のボランティアや共同プロジェクトに積極的に参加させる、理想的なカリキュラムを持っていた。

 しかし、通学時間が長く、既存の人間関係からは完全に離れることに加え、最も大きな条件として、「全寮制」が必須とされていた。


 寮生活。

 それは、咲にとって、単なる「引っ越し」以上の意味を持っていた。この温かい家族の「巣」から離れ、外部の厳しい現実に、物理的にも、精神的にも「一人で」根を張ることを要求する、最も孤独で、最も非効率な挑戦だった。


 公立高校の道は、まるで、整備されたアスファルトの上を走るロードバイクのようだった。抵抗がなく、速く、快適だ。

 一方、私立高校の道は、父が庭づくりで切り拓いた、岩や石が混じる、ぬかるんだ土の道のように思えた。労力は大きいが、その先に、何か本質的な豊かさがある予感を伴う。



---



 咲は、冷たいベンチの上で、この一年、この庭で起こった出来事を、反芻するように思い出した。


 彼女の価値観は、父・陽介の変革と軌を一にして変化してきた。

 かつて、父は「効率」と「結果」の亡霊に追われる、疲弊したサラリーマンだった。しかし、この庭が、父に「寄り道」と「余白」の価値を教えた。


 そして、咲自身が体験した最も大きな価値観の転換は、「共同体の営み」の中にあった。


 最初に頭に浮かんだのは、ピザ窯の火入れ式だ。

 土を練り、レンガを積み、火を灯す。全てが、仕事の効率とはかけ離れた、遅く、手間のかかる作業だった。

 しかし、兄が汗を流し、父がモルタルを塗り、自分がカメラでその営みを記録した。完成したピザの味は、そのプロセス全体を「喜び」に変える、魔法の報酬だった。


「喜びは、効率的な結果ではなく、非効率な共同のプロセスに宿る」


 この教訓は、私立高校のカリキュラムと重なる。地域社会との一体化とは、まさに、手間を惜しまず、結果を急がず、人々と共に一つの「営み」を作り上げていくプロセスそのものではないか。


 また、彼女の小さな写真展やアートプロジェクトの記憶も蘇る。自分の感性で捉えた庭の美しさが、美和の友人たちの心を動かした。

 それは、創造性が、庭という「媒介」を通して、外部のコミュニティと交わり、社会的な意味を持つ瞬間だった。創造は、閉じたものではなく、接続点なのだ。


 そして、決定打となったのは、年末の餅つき大会の光景だった。

 高橋と佐々木。会社では、厳格なヒエラルキーと、冷たい効率のルールで縛られていた二人が、この庭では、汗を流し、無邪気に笑い、一つの餅という「食の営み」に集中していた。


 あの時、高橋の顔から消えた、仕事の硬い表情。それは、陽介の庭が、社会のルールや肩書という、人間関係の「境界線」を溶かし去る魔法を持っていることの証拠だった。


 咲は、その光景を、ただの楽しいイベントとしてではなく、「純粋な共同体の再生」として捉えていた。現代社会の最も失われた価値が、この庭には存在していた。


「私は、この庭で、その温かさ、その価値を知ってしまった」


 だからこそ、彼女は自問する。


「この共同体の温もりを、これからも家族という『保護膜』の中で受け取るだけでいいのか?」


 公立高校を選べば、庭という「核」に守られたまま、その恩恵を受け続けられる。それは快適だ。

 しかし、私立高校の寮生活は、この温かい核から離れ、「共同体の価値」をゼロから自ら発見し、創り出すことを要求している。


 それは、庭の哲学を、「受動的な享受」から「能動的な実践」へと昇華させる、最も厳しい道だった。



---



 咲は、ベンチから立ち上がり、庭の隅、まだ背丈の低いヤマモミジの苗木に向かった。


 この木は、家族の歴史と未来を刻むレガシーとして、皆で植えられた。

 しかし、今、この冬の寒さの中で、木は誰にも頼らず、その根を地中深くに伸ばし始めている。


 「根を張る」とは、孤独な作業だ。


 家族の温かい土壌ではなく、見知らぬ土壌で、栄養を探し、風雪に耐え、自らの居場所を確立すること。

 寮生活とは、まさに、このヤマモミジのような生き方を、高校生活の始まりから強いられるということだ。


 咲は、ヤマモミジの細い幹にそっと両手を回した。冷たい樹皮の感触が、彼女に確信をもたらした。


「私が行きたいのは、快適な場所じゃない。自分で根を張る必要がある場所だ」


 慣れたコミュニティに留まることは、楽だが、新しい発見はない。

 遠い田舎の地域社会に飛び込み、寮という孤独な環境の中で、一から人間関係と、地域との繋がりを紡ぎ出す。


 それは、父が職場の効率主義を捨てて庭という「寄り道」を選んだように、咲自身の人生において、最も非効率で、最も意義深い「自己確立のための挑戦」となるだろう。


 彼女の胸の中に、迷いはなくなった。

 不安はある。家族と離れる寂しさは、今から胸を締め付ける。

 だが、それ以上に、庭で学んだ「共同体の温もり」を、自らの力で再生させたいという、強い意志が勝った。


「私立高校、寮生活。私は、その道を行く」


 決意の瞬間、薄曇りの空から、一瞬、冬の陽光が差し込み、ヤマモミジの枝先を白く照らした。



--



 咲は、弾むような足取りでリビングに戻った。その顔は、冷たい外気で赤くなっていたが、瞳には、揺るぎない確信の光が宿っていた。


 陽介と美和は、ソファで雑誌を読んでいたが、咲の様子を見て、すぐに悟った。


「決まったのかい?」


 陽介が、静かに尋ねた。

 咲は、私立高校の封筒を手に、力強く頷いた。


「うん。私、S高校へ行きます。…寮に入る」

「寮…」


 美和の声が、かすかに震えた。娘が物理的に家を離れるという事実は、母親にとって、やはり大きな衝撃だ。


 陽介もまた、一瞬、言葉を詰まらせた。庭という「最高の拠点」を完成させたばかりなのに、その核となる娘が、そこから離れてしまう。

 それは、父として、少しの寂しさを伴う。


 しかし、陽介はすぐに、娘の瞳の奥にある強い輝きを見た。

 それは、かつて自分が、仕事のプレッシャーから逃れるために見た「光」ではなく、自らの意志で、困難な道を選び、自己を確立しようとする「強い覚悟の光」だった。


「その道が、お前が本当に学びたいことを学べる場所なら、父さんは何も言わない」


 陽介は、深く、静かに言った。


「だが、寮生活は大変だぞ。なぜ、そこまでして、その道を選ぶ?」


 咲は、背筋を伸ばし、淀みなく答えた。


「この庭で、私は、『人間が本当に幸せになるのは、効率的な場所ではなく、互いに汗を流し、繋がりを再構築する、非効率な共同体の営みの中だ』と学んだ。

 S高校は、それを学べる場所。…そして、この庭の温かさがどれほど大切かを知っているからこそ、私は、この温かさから離れて、自力でその繋がりを作れる強さを試したいの」


 陽介と美和は、再び顔を見合わせた。

 咲の言葉は、陽介がこの一年で到達した「庭の哲学」を、そのまま受け継ぎ、さらに「個人の自立」という次元へと昇華させたものだった。


「わかったわ、咲」


 美和が、涙をこらえながら言った。


「あなたの選んだ道が、お父さんの庭と同じくらい、あなたにとって豊かで、かけがえのない場所になることを信じているわ。いつでも帰ってきなさい」


 陽介は、立ち上がり、咲の頭を優しく撫でた。


「お前は、庭で培った哲学を、誰よりも立派な形で、社会へ持ち出そうとしている。…誇りに思うよ」


 咲の進路の決意は、佐藤家にとって、庭が個人と家族の拠点から、子供たちが人生の哲学を確立し、広大な世界へ羽ばたくための、「精神的な踏み台」へと役割を終えたことを示していた。

 庭は、今、家族の巣立ちという、次の大きな変化を、静かに受け入れ始めていた。

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