42歳、初めての火おこし
金曜日の夜、出張から帰宅した陽介を待っていたのは、疲労だけではなかった。
玄関の隅に、待ち望んでいた段ボール箱が二つ、そっと置かれていた。一つは、ミニ焚き火台、もう一つは美和への言い訳として購入した七輪と炭だ。
陽介の顔に、いつぶりかもわからない、純粋な高揚感が浮かんだ。
彼の脳裏には、新幹線で繰り返し視聴した桜井慎の動画の映像が鮮明に蘇る。あの映像が、ついに現実のものとなるのだ。
彼は家族に声をかけるのも忘れ、段ボール箱を抱えて勝手口から庭へ直行した。
土曜日。朝食を済ませた後、陽介は迷わず作業に取り掛かった。
美和はリビングで家事をしており、子どもたちはそれぞれの活動の準備中だ。陽介は、今のうちに「自分の儀式」を始めなければ、週末の喧騒に巻き込まれてしまうと感じていた。
彼は、古びた軍手を再びはめ、箱を開封した。
まず取り出したのは七輪だった。
それは、彼の過去のアウトドア趣味とは一線を画す、素朴で和風な道具だった。陶器特有のずっしりとした重みと、土の焼けたような独特の匂い。キャンプの華やかなテントやバーナーとは違う、静かで、しかし確かな存在感を放っていた。
陽介は七輪を庭のアスファルトの叩きの上に、安定した場所にそっと置いた。
(これなら、大げさじゃない。この小さな囲いの内側だけで、火を扱える)
彼は七輪を見て、桜井慎が動画で言っていた「火を囲むロマン」を思い出す。七輪は、火を小さく囲い込むことで、その熱と雰囲気を濃密にする。
それは、今の陽介が求めている「小さくて、自己完結した非日常」に最適だった。
続いて、彼は炭とミニ焚き火台の箱を開ける。ミニ焚き火台は、手のひらに乗るほどのコンパクトさ。これなら、持ち運びも片付けも簡単だ。その簡潔な設計に、陽介は再び「これなら続けられる」という確信を得た。
陽介は、七輪に火を起こすための準備を始めた。まずは、新聞紙を丸め、その上に着火剤を置き、炭を慎重に組んでいく。
この道具を扱う時間が、陽介にとってはすでに癒やしとなっていた。仕事では、彼は「人」という複雑な要素を相手にするが、道具は正直だ。適切な手順を踏めば、必ず応えてくれる。
炭の配置、空気の通り道。彼は頭の中で、桜井慎の動画の解説を反芻しながら、手を動かす。
この「試行錯誤」と「能動的な活動」が、彼の心を埋めていく。
「こんなこと、何年ぶりにやっただろうか」
陽介は、無心になって道具を触り、組み立て、準備をする。汗が少しずつ滲んできたが、それは運動の後のような、気持ちの良いものだった。
彼は、七輪の横に、スーパーで買ってきたばかりの安売りのソーセージのパックを置いた。まずは、火を起こし、この小さな勝利の報酬として、ソーセージを一本だけ焼いてみる。
陽介は、全ての準備が整った七輪を見つめ、静かにマッチを取り出した。彼の心は、これから始まる「火との真剣勝負」に対する、わずかな緊張と、圧倒的な期待で満ちていた。
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陽介は、七輪の中に組んだ炭と着火剤に、マッチで火を点けた。着火剤はすぐに燃え上がり、小さな炎が立ち上る。しかし、肝心の炭になかなか火が移らない。
彼は動画で見た通りに、うちわで一生懸命扇ぎ始める。新鮮な空気を送るたびに、炎は一瞬勢いを増すが、炭は煤けたまま、黒く冷たい。
(おかしい。動画ではもっと簡単に火が移っていたのに)
焦り始めた陽介は、扇ぐ手を速める。すると、炭から立ち上る煙の量が一気に増え始めた。白い煙は、七輪からモクモクと立ち上り、陽介の顔を直撃する。
「うわ、くっさ!」
その時、背後のリビングの窓がガラッと開いた。顔を出したのは、出かける準備を終えた咲だった。
「お父さん、火事だよ!煙がすごいんですけど!」
咲は鼻をつまみ、大袈裟に顔をしかめた。彼女にとって、父親の行動はすでに「変な趣味」の範疇だが、この大量の煙と、焦げ臭い匂いは、耐え難いものだったのだろう。その声は甲高く、リビング全体に響き渡った。
陽介は一瞬、恥ずかしさと罪悪感で体が固まる。せっかく始めたばかりの趣味が、家族から早々に「迷惑行為」として否定されたように感じた。
しかし、すぐに美和の声が咲を制した。
「咲! やめなさい。お父さん、一生懸命やってるんだから。早く窓を閉めて」
美和の声は冷静だったが、明確に陽介の行動を擁護するものだった。
咲は不満そうに口を尖らせた。「だって、この焦げ臭いの、ひどいよー」とブツブツ言いながらも、美和に逆らうことなく窓を閉めた。陽介の活動は、美和の「そっとしておいてあげよう」という初期のスタンスによって、かろうじて守られた。
窓が閉まると、陽介は深い溜息をついた。美和の気遣いに感謝すると同時に、「家族に迷惑をかけてはいけない」というプレッシャーを強く感じた。
陽介は気を取り直し、うちわの扇ぎ方を緩やかに、しかし持続的に変えた。焦ってもだめだ。火起こしは、時間と辛抱が鍵だと、動画で桜井慎が言っていたのを思い出す。
彼は七輪に顔を近づけ、煙を避けながら、炭の様子をじっと観察した。やがて、一番下の炭の一部が、赤く、微かに発光し始めるのを確認した。
そこからが早かった。赤くなった部分を起点に、徐々に炭全体が熱を帯び、パチパチという微かな音を立て始める。煙は徐々に白から透明に近いものに変わり、熱気が陽介の顔に届くようになる。
ついに、すべての炭が均一に赤く燃え上がった。
この「火起こしの勝利」は、陽介にとって、雑草を抜いた時よりもさらに大きな達成感だった。彼の目の前には、デジタルなデータや書類ではない、「生きている炎」がある。七輪の口から立ち上る熱と、赤く燃える炭の揺らぎを見つめるだけで、深い満足感が彼の心を静かに満たしていく。
彼は、この火が、自分の疲弊した心を温め、再生させてくれる力を持っていることを、直感的に理解した。
そして、次は、この火で何をするか。
彼は、炭火の熱を確かめながら、静かに網を七輪の上に置いた。




