42歳、運命の出会い
木曜日。週の山場を越え、陽介の体は昨日にも増して重かった。
しかし、心には昨日、庭で百均ランタンの光の下で得た静かな充足感が残っていた。その小さな記憶が、高橋上司の鋭い視線や、午後に控えた面倒な会議への耐性になっていた。
正午。昼休みに入り、陽介は自分のデスクで一人、コンビニで買ったサンドイッチを開いた。他の社員は食堂へ向かうか、デスクで雑談をしている。
陽介はいつもなら、スマホでニュースをチェックしながら、誰とも目を合わせずに食事を終えるのが常だった。
だが、今日は違った。後輩の佐々木誠が、陽介の島の近くを通りかかり、ふと立ち止まった。佐々木は陽介と年齢は同じだが、どこか肩の力が抜けた、気さくな性格で、営業部のムードメーカー的な存在だ。
「佐藤さん、どうも。昨日、顔色悪そうでしたけど、少しはマシになりました?」
佐々木は声をひそめ、陽介のデスクに寄りかかった。佐々木は陽介の社交的な仮面の下にある疲労を、なんとなく察している数少ない人物の一人だった。
「ああ、佐々木か。まあ、なんとかね。最近ちょっと、疲れが抜けなくて」
陽介は曖昧に答えた。自分の「庭遊び」という新たな秘密を、会社で話すつもりはなかった。それは、彼の心の最後の砦だったからだ。
佐々木はサンドイッチを一口食べながら、気遣うように続けた。
「わかりますよ。この部署、高橋さんのプレッシャーがボディブローみたいに効いてきますからね。
佐藤さん、最近何か趣味とかないんですか?
やっぱ、仕事とは全く関係ないところで、発散しないとダメですよ」
陽介は口ごもった。かつてはアウトドアが趣味だったが、今は胸を張って言えるものがない。
「趣味、ね…いや、特にこれといって。家で動画見るくらいかな」
佐々木は目を輝かせた。
「動画、いいじゃないですか! 僕、最近YouTubeで、家でキャンプ気分を楽しむ動画にハマってて。すごい癒やされるんですよ。佐藤さん、家、庭ありますよね?」
陽介は驚いた。佐々木が話している内容が、まさに自分が今始めていることと重なっていたからだ。
彼は正直に、先週末に庭でビールを飲んでいることを話した。ただし、雑草抜きや百均ランタンのことは伏せた。
「まあ、椅子出して、缶ビール飲んでるくらいだけどな」
佐々木は、陽介の返事を聞くと、「それですよ! それ! もう一歩進んでみましょうよ!」と興奮気味に言った。
佐々木は自分のスマホを取り出し、YouTubeの画面を見せる。
「これ見てください。桜井慎って人なんですけど。30代前半くらいのサラリーマンなんですよ、たぶん。この人、自宅の庭で、小型の焚き火台出して、キャンプ飯とか晩酌とか楽しむ動画上げてるんです。
大掛かりなキャンプじゃなくて、あくまで『庭で気軽に』ってスタンスが最高なんですよ」
画面に映し出されたのは、夜の庭。ウッドデッキではない、ごく普通の庭の隅で、小さな焚き火の炎がパチパチと音を立てている。その炎を囲んで、桜井慎という男が、心から楽しそうな、満ち足りた笑顔を浮かべていた。
陽介は、その動画に、まるで時間を忘れさせるように引き込まれた。桜井の庭は、彼の家の庭と大差ない広さだ。しかし、その空間は、「手軽な非日常」で満たされていた。
佐々木は続けた。
「佐藤さんの缶ビールと椅子に、これくらいの火があれば、完璧な癒やし空間ですよ。道具も、高くないんです。ほら、このミニ焚き火台、僕も買おうかと思ってて。ストレス、全部炎で燃やしちゃいましょうよ!」
佐々木は、陽介の心の奥底に眠っていた「ロマン」と「活動」への欲求を、意図せずして、見事に刺激したのだった。
陽介は、佐々木の提案への返事を忘れ、ただ、画面の中の桜井慎の「自由」に釘付けになっていた。
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陽介は、佐々木の差し出したスマートフォンの画面を凝視した。そこに映る桜井慎は、30代前半と見られる、清潔感のある男性だ。
彼の自宅の庭で撮影された動画には、最新鋭ではないが、手入れの行き届いたキャンプギアが並んでいた。
陽介の視線は、特に、小型の焚き火台に注がれた。手のひらサイズのその道具から立ち上る炎は、決して大きくはないが、闇の中で確かな存在感を放っている。桜井はその炎の隣で、缶ビールを傾けながら、簡単な調理器具で何かを調理している。
そして何より、陽介の心を強く打ったのは、桜井慎の表情だった。
彼の顔には、疲労や焦燥感の影がない。ただ、その場の時間と、自分が作り出した「小さな非日常」を、心から楽しんでいるという、満ち足りた笑顔が浮かんでいた。
その笑顔は、陽介が営業部で毎日貼り付けている、あの疲れた「営業スマイル」とは全く別物だ。
(この男は…俺が失った「自由」を持っている)
陽介の心に、激しい憧れと、それに近い嫉妬が湧き上がった。桜井慎も、陽介と同じように郊外の庭付き一戸建てに住み、動画の内容から察するに、ごく普通のサラリーマン生活を送っているのだろう。
なぜ、桜井慎は、仕事の重圧から解放され、こんなにも楽しそうに過ごせているのか?
陽介は、桜井のスタイルが、かつての自分のアウトドア趣味と根本的に異なっていることに気づいた。
陽介が若かった頃のアウトドアは、「大がかり」で「非日常の徹底的な追求」だった。
休日に徹夜で荷物を積み込み、遠方まで移動し、重いテントを設営し、数日間自然と格闘する。それは体力と時間、そして気力を大量に消費する行為だった。
美和と結婚し、子どもが生まれてその趣味を手放したのは、単に「時間がなくなった」からではない。あの「大がかりな労力」に、当時の陽介の体が耐えられなくなったからだ。家族を連れて行くことで、趣味が「責任」に変わり、結果として彼の心を疲弊させたのだ。
しかし、桜井慎の提唱するスタイルは、「庭キャン」。
「移動なし。準備は最小限。片付けも簡単。ソロで完結」
この「手軽さ」と「孤独な充足」の組み合わせが、今の陽介の「疲れやすいが、小さな工夫で幸福を感じられる」という特性に、驚くほど合致していた。
(これなら、俺にもできるかもしれない…)
桜井慎の動画は、陽介の心の中にあった「趣味=重労働」という古い概念を打ち破り、「趣味=一瞬の癒やし」という新しい価値観を提示した。
桜井は、彼にとっての「理想の42歳の過ごし方」の具体的な形を示していた。
動画をしばらく見つめた後、陽介はスマホを佐々木に返した。
「すごいな。こんな風にできるのか…」
佐々木は笑った。「でしょ?道具も小型化してるんで、気軽に始められますよ」
陽介の心は、希望と諦めが激しく交錯していた。
しかし、この新しい趣味は、既に彼が始めてしまった「折り畳み椅子と百均ランタン」の延長線上にある。大掛かりな一歩ではなく、「小さなステップアップ」だ。
陽介は、桜井慎の動画で紹介されていたミニ焚き火台の形状と名前を、記憶に強く刻み込んだ。仕事のプレッシャーで押しつぶされそうになっている自分を救うには、もうこの「小さな炎への憧れ」に賭けてみるしかない。
彼は、その道具を購入する決意を、胸の奥で固めた。それは、単なるキャンプ用品ではなく、「失った自分を取り戻すための道具」となるだろう。
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午後の会議と事務作業を終え、再びデスクに向かった陽介は、疲労困憊していた。だが、その疲労感は以前のように彼を虚無に引きずり込むことはなかった。
頭の中には、佐々木に見せてもらったミニ焚き火台の、あの鮮やかな炎のイメージがチラついている。それが、彼をデスクに繋ぎ止める、唯一のモチベーションになっていた。
時間は午後7時を回った。資料のチェック作業はまだ残っているが、陽介はもう限界だった。彼は資料を脇に寄せ、誰も見ていないことを確認してから、こっそりとスマートフォンを取り出した。
検索窓に「桜井慎」「ミニ焚き火台」と打ち込む。すぐに動画で見た、あのシンプルな焚き火台の製品ページに辿り着いた。値段は、思っていたほど高くはない。
しかし、家族を持つ身として、「無駄遣い」という罪悪感は無視できなかった。
(どうせ、また飽きるんじゃないか? 美和になんて説明する?)
心が揺れる。しかし、その不安を打ち消したのは、高橋上司の先日の冷たい視線と、「週末は遊んでいる暇があるのか」という皮肉だ。
陽介は、この仕事のストレスに打ち勝つには、物理的な逃げ場が必要だと強く感じていた。そして、その逃げ場を作るための「投資」が必要なのだ。
「もういい。買ってしまおう」
彼は、衝動的に購入ボタンをタップした。支払い方法は、翌週に入る出張手当で賄える金額だ。「どうせ、明日からの出張で外食費も浮くし、これは自分への必要経費だ」と、彼は自分自身に合理的な言い訳をした。この衝動買いは、彼の「自己回復」を最優先するための、小さな反抗だった。
その夜、帰宅した陽介は、美和に道具を購入したことを告げる必要があった。宅配便が届けば、隠し通せるものではない。
美和は、リビングで家計簿をつけていた。陽介は、美和の穏やかながらも厳しい目線を意識し、慎重に切り出した。
「あのさ、美和。この間話した、庭で使うものなんだけど…ちょっと注文したんだ」
美和はペンを止めた。その一瞬の沈黙が、陽介を緊張させる。
「え、何を? また変なものじゃないでしょうね」
「いや、変なのじゃないよ。七輪と、あとはミニ焚き火台っていうやつ。小さい火が起こせる道具なんだ」
陽介は、すかさず最もらしい理由を付け加えた。
「これ、実は防災用にもなるんだ。もし災害があって電気が止まったら、これで炭を使って、ご飯を炊いたり、暖を取ったりできる。一家に一台あっても損はないと思ってさ」
この「防災用」という合理的な言い訳は、美和の心配性を和らげるのに有効だった。美和は眉をひそめながらも、陽介の顔をじっと見つめる。
「防災…ね。まあ、火を使うものだから、慎重に選んだのね」
美和は陽介の言い訳を半分承知しつつ、半分は怪しんでいるようだった。
だが、彼女は夫の行動を否定することで、彼を再び閉じこもらせたくないという思いがあった。
「いいけど、庭で火を使うなら、火の始末は絶対にきちんとやってね。子どもたちが怪我したり、近所に迷惑がかかったりしたら、すぐにやめてもらうからね」
美和の言葉は、陽介の活動を「無言で承認」しつつも、「責任を伴う」という条件を突きつけた。
陽介は、「もちろんだよ。動画でしっかり勉強するから」と、真剣に返事をした。これで、彼の庭遊びは、道具という具体的な形を伴い、家族に公認された活動となった。
その夜、陽介は翌日からの出張の準備をしながらも、頭の中はミニ焚き火台のことでいっぱいだった。
彼は新幹線の移動中に読むべき営業資料と、桜井慎の動画のプレイリストを、スマホにダウンロードした。どちらが自分にとって重要か、考えるまでもない。
出張は通常、陽介にとってストレスの多い「アウェー」での活動だったが、今回は違った。彼の心は、すぐに届くはずの新しい道具への期待感で満たされていた。
(出張から帰ったら、すぐに火を起こそう)
仕事のプレッシャーからの逃避だけでなく、「次の楽しみ」が、仕事のモチベーションを保つ潤滑油になり始めている。陽介は、ミニ焚き火台という名の、心の起爆剤を手に入れたことで、明日からの出張の重圧に立ち向かう活力を得たのだった。




